カセットテープで古いスタン・ゲッツを聴きながら、昼まで働いた。スタン・ゲッツ、ジミー・レイニー、アル・ヘイグ、テディ・コティック、タイニー・カーン、最高のバンドだ。「ジャンピング・ウィズ・シンフォニー・シッド」のゲッツのソロを、テープに合わせて全部口笛で吹いてしまうと、気分はずっと良くなった。
(『1973年のピンボール』より)
『ダニー・ボーイ』、僕は目を閉じてそのつづきを弾いた。題名を思いだすと、あとのメロディーとコードは自然に指先から流れでてきた。僕はその曲を何度も何度も弾いてみた。メロディーが心に染みわたり、体の隅々から固くこわばった力が抜けていくのが感じられた。久しぶりに唄を耳にすると、僕の体がどれほどそれを求めていたかをひしひしと感じ取ることができた。もう一曲、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』からいきますね。最後の場面で出てくる、『激しい雨』です。“A Hard Rain's A-Gonna Fall”。
(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』より)
私は雨降りのことを考えてみた。私の思いつく雨は、降っているのかいないのかわからないような細かな雨だった。しかし雨はたしかに降っているのだ。そしてそれはかたつむりを濡らし、垣根を濡らし、牛を濡らすのだ。誰にも雨を止めることはできない。誰も雨を免れることはできない。雨はいつも公正に降りつづけるのだ。やがてその雨はぼんやりとした色の不透明なカーテンとなって、私の意識を覆った。眠りがやってきたのだ。ボブ・ディランは『激しい雨』を唄いつづけていた。
(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』より)
「スター・クロスト・ラヴァーズ」と島本さんは言った。「それはどういう意味なの?」
「悪い星のもとに生まれた恋人たち。薄幸の恋人たち。英語にはそういう言葉があるんだ。ここではロミオとジュリエットのことだよ。オリジナルの演奏では、ジョニー・ホッジズのアルトサックスがジュリエットの役を演奏し、ポール・ゴンザルヴェスのテナーサックスがロミオの役を演奏した」
「悪い星の下に生まれた恋人たち」と島本さんは言った。「まるでなんだか私たちのためにつくられた曲みたいじゃない」
「僕らは恋人なのかな?」
島本さんは言った。「あなたはそうじゃないと思うの?」
(『国境の南、太陽の西』より)
僕はベッドの上に横になって、ヘッドフォンでプリンスの音楽を聴く。その奇妙に切れ目のない音楽に意識を集中する。ひとつめの電池が『リトル・レッド・コーヴェット』の途中で切れる。音楽は流砂に吞み込まれるようにそのまま消えてしまう。ヘッドフォンをはずすと沈黙が聞こえる。沈黙は耳に聞こえるものなんだ。僕はそのことを知る。
(『海辺のカフカ』より)
「ねえ、どうしてそんなにぼんやりしているの?」と緑が尋ねた。
「たぶん世界にまだうまく馴染めてないんだよ」と僕は少し考えてから言った。
「ここがなんだか本当の世界じゃないような気がするんだ。人々もまわりの風景も、なんだか本当じゃないみたいに思える」
緑はカウンターに片肘をついて、僕の顔を見つめた。
「ジム・モリソンの歌にたしかそういうの、あったわよね」
「People are strange, when you are a stranger」と僕は言った。
「ピース」と緑は言った。
「ピース」と僕も言った。
(『ノルウェイの森』より)
1949(昭和24)年、京都市生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。’79年『風の歌を聴け』(群像新人文学賞)でデビュー。主な長編小説に、『羊をめぐる冒険』(野間文芸新人賞)、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(谷崎潤一郎賞)、『ノルウェイの森』、『国境の南、太陽の西』、『ねじまき鳥クロニクル』(読売文学賞)、『海辺のカフカ』、『アフターダーク』、『1Q84』(毎日出版文化賞)、最新長編小説に『騎士団長殺し』がある。『神の子どもたちはみな踊る』、『東京奇譚集』、『パン屋再襲撃』などの短編小説集、『ポートレイト・イン・ジャズ』(絵・和田誠)など音楽に関わる著書、『村上ラヂオ』等のエッセイ集、紀行文、翻訳書など著訳書多数。多くの小説作品に魅力的な音楽が登場することでも知られる。海外での文学賞受賞も多く、2006(平成18)年フランツ・カフカ賞、フランク・オコナー国際短編賞、’09年エルサレム賞、’11年カタルーニャ国際賞、’16年アンデルセン文学賞を受賞。