NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest西村由紀江さん

西村由紀江さん

3歳でピアノを始め、小学生時代にヤマハジュニアオリジナルコンサート(JOC)に参加し世界各国を演奏旅行、マエストロや一流オーケストラとも共演し絶賛を博す。桐朋学園大学に入学後すぐにアルバム『Angelique』でデビュー。美しくあたたかい作品と演奏で多くのファンを魅了し、『101回目のプロポーズ』『子ぎつねヘレン』など、ドラマや映画、CMの音楽を数多く手掛けている。全国各地での演奏活動の他、ライフワークとして学校や病院でのコンサート、被災地にピアノを届ける活動「Smile Piano 500」も行っている。2021年4月、デビュー35周年、通算41枚目となる全新曲オリジナルアルバム『PIANO SWITCH 2〜PIANO LOVE COLLECTION〜』をリリース。

ピアノの力

2022/05/01
西村由紀江はピアノの可能性を広げ続けている。
その一つがスマイルピアノ500。

「東日本大震災で失われたピアノを一台一台へ届けていくという活動で。この11年でね62台、あのお届けに行くことができました。きっかけは情報番組の中で陸前高田に住んでいる女の子があのインタビューの答えていたんですけどね。欲しいものはピアノって答えていて、それがものすごく心に残りまして、彼女に会いたい彼女に届けたいそこからですね。新品のピアノを届けるのではなくて、どこかのお宅で大切に使われていたピアノを譲ってもらってそれを取りに行ってメンテナンスして蘇らせて届けに行くという活動なんです」

届けてもらった人々の表情とは?

「ピアノって、物じゃなくて家族なんですよね。だから子供達はピアノ帰ってきたってピアノに抱きついているんです。その一方で絶対に子供の前で、泣いちゃいけないと思って何年間も我慢していた笑顔の人がいて、彼女が弾いた瞬間に涙を流されたとで、ピアノっていうのは人の心を解きほぐす力があるものだっていうのだって言うのを私自身がハッとさせられたような、そんな体験でした」

西村由紀江の活動は学校や病院などでも。

「学校でのコンサート、病院でのコンサートほぼ20年くらい続けてやっているんですけども、病院で不思議な事があって、車椅子の患者さんが、私がちょっとリズミカルな演奏した時に足が動いたんですよ。自分でもびっくりされていて、音楽の力で何かが変わることがあるんだなーってそれはすごく思いますね」

次はどんなステージを思い描いているのか?

「ニューヨークのステージで弾いてみたいっていうよりは、全然ピアノとか知らないようなね。もう本当に未開発っていうかね、そういうようななんか南の島とかで弾いて、初めてピアノ弾く子達の表情が見てみたい」

リスナーに向けたエールとは?

「子供の頃からコンプレックスがいっぱいで、自信がなくてでデビューしてからも挫折がいっぱいあって、こんな私が35年も続けられました。リスナーの皆さんもなんかうまくいかないなぁとか、思うことたくさんあると思うんですけども、思い続けていたらいつか誰かが見てくれているっていう、そんな私のメッセージをね。どっか頭の片隅においてもらえたら嬉しいですね」
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時代に流されない

2022/04/23
ドラマ「101回目のプロポーズ」で音楽プロデュースを担当、
すると西村由紀江にオファーが相次いだ。

「次の年は親愛なる者へと言うドラマ、これは浅野ゆう子さんはいと柳葉敏郎さんのあのドラマだったんですけども。この時もあの撮影現場にやはり行きまして、全てやはり職現場主義と言いますか、あの本当に現場で浮かんだものを書くということを心がけているので、浅野さんにお会いして、ご挨拶させて頂いて曲を書いて行きました」

2006年には映画「子ぎつねヘレン」の音楽も担当。

「北海道が舞台だったので、あの北海道に行きまして狐がたくさんいるところそこの撮影現場の中でやっぱり書きましたね。もう北海道のその大地よね。車で走って現場に行く前から自分の中でこの空気感みたいなのが入っていたので、撮影現場にいる間にほとんどの曲が生まれました」

現場主義で楽曲を作り続けてきた西村由紀江。
インストルメンタルの世界でもがき続けた日々とは?

「私がデビューしたのは1986年なんですけれども、この頃、インストルメンタルという言葉はほとんどの人が知らなかったんですね。ピアノでといえば、クラシックジャズ後はフュージョン、リチャードクレイダーマンがすごく流行っていた時代。自分で曲を作ってレコードを出したものの、とにかくレコード屋さんがどこのジャンルにおいていいのかってのがわからなくて、どっちつかずの悪く言うと中途半端の音楽と捉えられたことがあって。つらかったのがあの取材を受けるとジャンルは何ですか?っていう風に聞かれた時に自分でうまく答えられないのがすごくもどかしかったですね」

その苦労は曲作り以外にも表れていた。

「いわゆるイケイケと言われてる時代だったのでテンポアップした曲を作った時もありましたし、なんかね。あの全然似合わないのにGジャンで写真を撮ったりとかね。なんかねいろいろもがいてやりましたね。キーボードをショルダー風に担いで歩きながら引いたらいいんじゃないかとかってやったんですけど、全く様になりませんでした」

その結果、導き出された結論がある。

「結局は届かないんですよね、リスナーさんにね。もう人になんと言われようと自分の道を行こうっていう風にあの確固たる自分というものをまた感じることができました」

もがき苦しみ見つけた「自分らしさ」
時代に流されない曲作り、それが西村由紀江のポリシーとなった。
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自分に正直に

2022/04/16
西村由紀江は大学の在学中にプロデビュー。
5年後に大きな分岐点を迎えることになる。
1991年のドラマ月9、101回目のプロポーズの音楽を担当する。

「武田鉄矢さんと浅野温子さんが歩いてらっしゃるバックに流れる音楽とか、あとちょっと衝撃的なことがあった時に流れる音楽とか全ての劇伴と言われるものを30曲ぐらい作りました」

曲作りに関して西村由紀江はこう語る。

「台本を頂いてそこから曲を作っていくんですけども、武田さんと浅野さんのそのラブロマンスの様子というのがちょっと想像ができなかったんです。それで撮影現場に連れてってもらったんですね。浅野さんともご挨拶させていただいて、その時の浅野さんの瞳があまりにも美しくて。その瞬間にメロディがその場で浮かんだんです」

実際に作曲した西村はドラマをどのように見ていたのか?

「自分の音楽が気になってしまって、お話が入ってこないんですよね。お話聞きたいんですけどこのセリフのこの1テンポ後と入ると自分が作った音楽よりも100倍いいや、素晴らしいっても感動してワクワクして座っていられないんですよ。音楽ばっかり気になっていましたね」

「101回目のプロポーズ」の音楽プロデュースで脚光を浴びた西村由紀江。
その西村が守り続けているポリシーがある

「自分に正直に」。

「言葉にするとすごくねかっこいいように思えるんですけども、これはピアノから習った事なんです。曲を作る時にちょっといい曲作ろうとか思っちゃうとなんか曲の新鮮みってのがね自分で弾いていてワクワクしないんですよ。何気ない時に作った曲とか、例えば道に咲いている花が普段はあまり気にしないんだけれども、自分がすごく落ち込んでいる時にずっと下wp向いてると普通の肌がすごく綺麗に思えて、そこでねあったかい色の曲が生まれたりするんです。そういう時に作った曲っていうのはあの長く色んな方から言ってもらえることが多いんです」

去年2021年にリリースした「ピアノスイッチ2」も
自分に正直という感覚で作られた作品だ。

「ピアノを弾く人が自分に正直になれてピアノを楽しめる、そんな時間を過ごしてもらえたらいいなっていうことで、作ったんですけども。好きっていう気持ちがあったら弾けるよっていう、そんな指南的なことができればなっていうのが私の気持ちです」

自分に正直に。
西村由紀江はその気持ちで作曲を続けている。
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大好きがあれば耐えられる

2022/04/09
西村由紀江は3歳でピアノを弾き始め、
海外での演奏経験をしたことで世界が広がって行った。
西村由紀江の高校時代とは?

「高校時代も中々教室に馴染めなくて、学校では一番端っこの席で走っている電車の様子とかと空の様子とかをスケッチするみたいにあの楽譜を書いている子でしたね。景色を見て音符が浮かぶんです。鳥が飛んでいるとそれに合わせて聞こえてくるんですね。メロディーが」

日々、メロディーがあふれていた高校時代。
プロとしての音楽家の道は着実に進んでいた。

「卒業後は英語の大学に入って音楽も学びながらくらいの軽い気持ちでいたんですけども、高校2年生に入った時にヤマハの音楽教室時代にお世話になっていた方からデビューはしませんかとお話を頂いたんです。私は全く自分に自信が持てなかったんですけど、初めにピアノを勧めてくれた母親が、船は動き出しているんだよ、こんなチャンス二度とないんだよ。と、ものすごく背中をしてもらって自信がないけどデビューだけしてみようって思いました」

卒業後は桐朋学園大学に入学、
それと同時にプロデビューを果たした

「私にとっては一人暮らしが初めて、東京の音楽大学の受験も初めて、デビューいわゆる音楽業界にいっていうのも全てはあの初めてづくしで、東京にいたんです。無我夢中でしたね。もう挫折ともう本当に涙に暮れる毎日でした」

それでもハイペースでCDをリリースして行った。

「当時は年に2枚とか3枚とか出していたんですよ。夏休みになったらレコーディング。冬休みになったらレコーディングって2枚ぐらいだしていて、土日に取材を受けていて平日は学校に行ってでその合間に曲を作ってっていうことをずっとやっていました」

その一方で世の中はディスコサウンドが全盛。
西村由紀江の音楽は時代に合わないと揶揄された。

「救ってもらったのはやはりピアノだったんです。帰ってきた時に悔しいと思った時に家で待っていてくれるのがピアノなんですよね。ずっとピアノと向き合ってたくさん、たくさん引いてそこから生まれた曲もたくさんありますし、やっぱり私にはピアノしかないっていう風に思った日々でもありました」

多忙な大学生活を終え、
卒業後に訪れた場所は憧れの場所 オーストリア・ザルツブルクだった。

「ザルツブルクというのが私が子供の頃に一番大好きだったサウンドオブミュージックという映画のサントラがあるんですけども、そのまサウンドオブミュージックの舞台なんですよね。子供の頃の音楽の楽しさを初めて教えてもらった、そのザルツブルクにいつか行きたいなーってずっと思っていまして。自分が音楽の道で本当にやっていけるのか葛藤がたくさんある中、とりあえず卒業したらなんかザルツブルクに行ってみたら何か見つかるかもしれないと思って。毎日、自分が大好きなサウンドオブミュージックのドレミの歌の舞台になった公園を歩いて、そういう風にこう歩きながら、そして学校に通って。音楽って自由で楽しんでいいんだなーっていうことを教えてもらったような期間でした」

ザルツブルクに訪れ、そこで起きた心境の変化とは?

「自分を見つけたかったんですよね。多忙なだけに、あの何かこう自分というものがどこにあるんだろうって、このバブルの時代で自分がなんか本当に置いてけぼりになりそうになる時もあったし、本当に自分をなんか見つけたいっていうそんな気持ちだったんですよね。そこでも曲もまたたくさん生まれましたし。
作曲ノートね、もう毎日あの公園に持って行って、公園でスケッチするみたいにメロディーを考えていました」

ザルツブルグでたくさんの刺激を受けた西村由紀恵
いよいよあの大ヒットドラマの音楽を担当することになる。
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人生を支えてくれるパートナーとの出会い

2022/04/02
西村由紀江は大阪生まれ。
ピアノを弾き始めたのは3歳の時だという。

「ほとんど記憶がなくて母親がピアノの先生で家にピアノがあったんですね。物心ついた時から見ていたので気が付いたら私も弾いていたんです。めちゃめちゃ暗くてね。幼稚園で私コミュニケーションが取れなくて、誰かにおはようって声かけられるだけですごく真っ赤になっちゃう子でした」

そんな西村には当時からコンプレックスがもう1つあったという。

「手が小さくて、一緒に習い始めた友達よりも上達がうんと遅かったんで、ピアノはあかんわって思ったんですけど、もっとダメなことがそのコミュニケーション取ることだったので幼稚園で、うまく話せないモヤモヤした気持ちを家に持って帰って思いっきりピアノ激しい曲を弾いてすっきりしているようなそんな子供でした」

その日の気分によってアレンジを行った。

「例えばねチューリップ咲いた咲いたってあれをちょっと咲いたの音を半音下げるとマイナーになるんですよ、するとこっちの方が私の今日の気持ちはと思って喜んでマイナーの曲をずっと弾いたりとか今は作曲の始まりなんです」

もっとピアノを学びたい。
教室に通い、そこで音感教育を受けることになる。
そこは自分を出せる時間でもあった。

「坂先生は非常に厳しかったですね。雑に引くと怒られたんですよ。速く弾けるとかミスなく弾けるじゃなくてちょっとでも音がこう雑に引いてしまうと怒られました。今でもあの音をきれいに演奏するって言うことを心がけるようになったのは先生のおかげですね」

ピアノに出会いピアノと遊ぶことで腕を磨いた西村由紀江
その実力は8歳にして海を渡ることになった。

「私が通っていたヤマハ音楽教室の中でのコンクールみたいなのがあってそこで自分の作った作品を出品して選ばれると海外に派遣されるというそういうシステムがありまして、当時私は8歳で最年少だったんですけど自分の作った曲を演奏したんですね。自分に自信が持てなかった私がタイの皆さんの前で演奏したら言葉も文化も違う人たちがわっと笑顔で拍手をしてさったんです。音楽というのは言葉を通じて世界に通じるんだなと、すごく自分を勇気づけてくれた経験でした」

西村由紀江にとって小中学生の時代とは?

「自分の思い通りにならない事とか悔しい思いがすごく詰まっていたんですね。小中学生というのはだからあの本当にそのピアノに全部集約できたってもうピアノ入らなかったら私どんな風に育てたか想像できないぐらいでも本当にピアノが友達だったことが自分を支えてくれてるって言うそんな小中学生時代です」
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