津田梅子から学ぶ前進する力
2019/05/25
大学卒業後、カンザス大学留学中に、予期せずも津田梅子の研究というライフワークに出会い、今は津田塾大学の学長となった高橋先生。津田梅子の書簡1つをとっても、彼女が苦悩や孤独と葛藤し、それを乗り越えて道を切り開いてきた津田梅子の前進する力に、胸を打たれると高橋先生は語ります。
津田梅子。
その人生は激動そのものです。
1871年12月、横浜を出港した欧米視察「岩倉使節団一行」の中に幼い少女の姿がありました。
津田梅子、満6歳。
幼い梅子が両親のいる日本を離れ、ワシントン近郊のジョージタウンに住むランマン夫妻の家に預けられたのは、日本を発ってから70日後のこと。アメリカで育ち、学び、女子教育の先駆者となったのはみなさんも知るところです。
アメリカ社会史、そして研究対象である「津田梅子」から学んだこととは。
「非常に大きな困難があったわけですけど粘り強く努力をしてチャレンジし続けるという姿勢を津田梅子は生涯保ち続けたと思います。1892年に戻って1900年に女子英学塾という津田塾大学の前身を作るわけだが、今で言う起業家の精神を持っている。自分の教育理念に合う学校をどうしても作りたいという夢を30代で実現。そういう意味であきらめずにチャレンジするということが津田梅子の生き方に現れていると思います」
津田梅子の前進する力とは?
「近視眼的にではなく長期的なビジョンを持って情熱を注いで進んで行く。それが大きな原動力になっています。自分自身のことだけではなく、女性が参画できるような社会を作ってゆくということに非常に強いパッションを持っていました。女性の社会的地位を向上させる。その推進力になりたいと津田梅子自身が、自分自身に期待をしていたこと。だからこそ粘り強く努力し、困難なことがあってもあきらめることなく前進できたのです」
最後に高橋先生から頂いたメッセージです。
「自分自身がどんなことに情熱を感じられるか?というのが重要なポイントだと思う。私も女性が参画するという歴史を学ぶということに関して、自分自身がパッションを持っていたので、そのことが一生懸命できるんだろうと。パッションがあればチャレンジできる。人それぞれ、どういうことに好き、飽きない、続けていける。そういうことを探し当てる。それが大事です」
津田梅子。
その人生は激動そのものです。
1871年12月、横浜を出港した欧米視察「岩倉使節団一行」の中に幼い少女の姿がありました。
津田梅子、満6歳。
幼い梅子が両親のいる日本を離れ、ワシントン近郊のジョージタウンに住むランマン夫妻の家に預けられたのは、日本を発ってから70日後のこと。アメリカで育ち、学び、女子教育の先駆者となったのはみなさんも知るところです。
アメリカ社会史、そして研究対象である「津田梅子」から学んだこととは。
「非常に大きな困難があったわけですけど粘り強く努力をしてチャレンジし続けるという姿勢を津田梅子は生涯保ち続けたと思います。1892年に戻って1900年に女子英学塾という津田塾大学の前身を作るわけだが、今で言う起業家の精神を持っている。自分の教育理念に合う学校をどうしても作りたいという夢を30代で実現。そういう意味であきらめずにチャレンジするということが津田梅子の生き方に現れていると思います」
津田梅子の前進する力とは?
「近視眼的にではなく長期的なビジョンを持って情熱を注いで進んで行く。それが大きな原動力になっています。自分自身のことだけではなく、女性が参画できるような社会を作ってゆくということに非常に強いパッションを持っていました。女性の社会的地位を向上させる。その推進力になりたいと津田梅子自身が、自分自身に期待をしていたこと。だからこそ粘り強く努力し、困難なことがあってもあきらめることなく前進できたのです」
最後に高橋先生から頂いたメッセージです。
「自分自身がどんなことに情熱を感じられるか?というのが重要なポイントだと思う。私も女性が参画するという歴史を学ぶということに関して、自分自身がパッションを持っていたので、そのことが一生懸命できるんだろうと。パッションがあればチャレンジできる。人それぞれ、どういうことに好き、飽きない、続けていける。そういうことを探し当てる。それが大事です」