NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest尾崎亜美さん

尾崎亜美さん

1976年 3月20日シングル「冥想/冬のポスター」でデビュー。
代表曲として「冥想」、「マイ・ピュア・レディ」、「初恋の通り雨」、「21世紀のシンデレラ」、「My Song For You」、「蒼夜曲(セレナーデ)」など、多数が知られている。また、デビュー3年目より他のアーティストへの楽曲提供を行い、現在のプロデューサーの草分け的存在となる。
主なヒット曲は、南沙織「春の予感」、杏里「オリビアを聴きながら」、高橋真梨子「あなたの空を翔びたい」、松田聖子「天使のウィンク」、観月ありさ「伝説の少女」など日本のミュージックシーンを支えている。

歌う喜び

2024/01/27
尾崎亜美にとって大きなものが母親の存在だった。

「嘘ついても守ってくれた母ですから、もう本当に仲良しだったんです。兄弟の中で私が一番介護に向いていたので環境的にも性格的にも、だから、その人の生きてること死にいくこと、そこに立ち会えたってことはものすごく良かったです。あの今から思うと、幸せなことだったなって思ってるんですね」

大好きな母親のそばにいることで、
介護の中、創作活動もライブ活動も何でもできていたという。

しかし、母親を失って創作意欲が全く湧かなくなった。
それは1年以上続いた。

「尾崎亜美としては初めてのことです。大ピンチと思って、このまま私駄目になるのかなって思ったぐらい大ピンチでした。散歩に出かけてたときに、ある時、ふって鼻歌が出て、空がすごい綺麗で、その光を浴びてるっていう啓示っていうのかな、何かよくわからないんですけど。あなたは書けるという感じが来て、本当にメロディーが湧いてきて。浮かんだですね。メッセージっていう曲なんですけどね。やっぱり母が亡くなって、できた歌とも言えるし、ずっと失ってたものが、すごく遠くを探してたけど、遠くにはなくて。やっぱり自分の中にあった。ようやく始まりました」

音楽シーンを走り続けてきた尾崎亜美
2023年にも大きなピンチが訪れた。
彼女の喉は悲鳴をあげていた。

「3月に手術したんですけど、生まれたときからハスキーな私でも自分の声は好きだったのっていうか今でも好きなんですけど。もしかしたら手術をすることで。歌えない、自分が納得できない声になってしまうっていう可能性がゼロではなかったので、実はうわー、この手術は13年以上前からしなさいと言われてた手術なんです。すすめられてたんだけど、怖くてできなかったんですね」

事務所の社長、小原礼の応援もあり手術に踏み切った。

「結構大変でした。まずは喋れない次の1週間は30分だけ声を出す。その次の1週間は1時間だけ声を出す。それから次は、ハミングだけする。それから次はムーと、モーだけそれを頭につけて話す。ムームーラードか、ムーシーとかモーモーとかいうんですけど」

喉のトレーニングは、歌えるようになった今も続いている

「余分にいっぱい空気が漏れてたらしいんですね。ちょうどいいぐらいに今はなってるらしくて、これをキープですって言われて、喉の筋トレって呼んでるんですけど、声帯の周りの筋肉を衰えさせないように今でもちゃんと筋トレは続けてるんですヒリヒリすることはやっぱりライブとかするとあるんですけど、これはね、筋肉痛なんですって。だと思って安心して練習してくださいって言われてます」

尾崎亜美、
10年後はどんな自分で居たいのか?

「多分ね10年後になったら、10年後なりにできなくなってることももちろんたくさんあるんです。でも、だからこそできることも、また見つけてると思うんですね。そういうことで遊んで、楽しいなって思いながら、苦労してっても楽しいなって思えることを探しながらの生き方をしてると思います」

10年後、
尾崎亜美はどんな歌を創り、
歌っているのだろうか。
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やってみる

2024/01/20
尾崎亜美は1976年3月、
19歳の時、シングル「瞑想」でデビュー。
この曲のアレンジャーは松任谷正隆。

「割と私のデモテープに沿って、やっていただいたんですけど。最近、デビュー当時の私について語られていたときがあって。宇宙人と話してると思ったって言われたんですよ。何を言ってるかよくわかんなかったから、尾崎亜美が楽曲で言いたいことはきっとこれだろうっていうのをメロディーや詞で思って作ったらしいです」

その松任谷正隆が携わったということもあり、第2のユーミンで注目された。

「ユーミンがものすごく私のことをかわいがってくださったんですよ。ファーストアルバムもセカンドアルバムも実はタイトルはユーミンが考えてくれた。シェイディっていうのがファーストアルバムで、亜美は明るいけれども、心の中のすごく影みたいなものがあって、でも影を影っていうふうに出さないで、影ちゃんみたいなそういうポップな形で影を描ける人だと思うので、シェイドにYをつけてキャンディのみたいに整理したらどうかと思う。ってくださったんです」

1978年にはサードアルバム「ストップモーション」をリリース、
当時では珍しいセルフプロデュースだった。

「きっかけは春の予感っていう曲があるんですけど、これが人に書いた初めての曲でしかもアレンジも尾崎さんやってくださいって言われて、この曲にはストリングスが入ったら絶対綺麗だと思うんでって言って、どなたがストリングス書くんですかって言ったら、尾崎さんがって言って、えええって書いたことないすけどすぐにヤマハの編曲の本っていう、分厚いの上巻下巻っていうの買ってきて、バイオリンっていうとこに行って、ここからここまで出るのかあとか、ビオラはちょっと低いぞとかは独学でそうなんですよ。ほとんど一夜漬けに近い形でアレンジしたんです。やってみますの精神で!」

作詞作曲、編曲、歌唱、プロデュースをこなすマルチぶり。
他のアーティストへの楽曲提供でも大成功を収めた。
楽曲提供はコミュニケーションをとってから進めるが
松田聖子に提供した「天使のウインク」はその時間がなかったという。

「大概は話をして書きますけど、聖子ちゃんとかは話してなくて。もう本当にギリギリ年末ギリギリの大掃除中に、オファーが来て、明日中に書けって言われ、でもお掃除途中でぱっとやめて作れはしないので、パタパタしてたら、光の中のパタパタがすごい綺麗で天井にいる天使と私が交信してるような歌っていうのがふと思い浮かんで書けたんですけど、でも、あの歌入れはちゃんと行きました」

尾崎亜美にとって大きな分岐点の一つがロサンゼルスでのレコーディングだという。

「デヴィッド・フォスターがアレンジをしてくれて、それで本当にビッグネームのもうすごい強者揃いなレコーディングだったんですね。仮歌を歌うときにブースで歌ったんですけど迷惑かけちゃいけないと思って、見えないようにして歌ってたらデヴィッドが来て、みんなに亜美の顔が見えるところで歌いなさいって言ってくれて、日本語絶対わからないと思うんだけど、自分たちの解釈で、これってこういう曲なんでしょうとか言って、音楽っていうものの考え方っていうのを、ちょっと角度が変わったっていうか、広がったっていうか、そんな経験でしたね。それから結構ロサンゼルスではレコーディングしています」

ロサンゼルスでのレコーディングには、のちに結婚する小原礼も参加していた。

「初めてのときは違うんですけど、その頃ずっと小原さんはロサンゼルスに住んでいて、アメリカのアーティストとレコーディングしたり、ツアー行ったりっていう活動してたので、サディスティック・ミカ・バンドの頃からファンだったので、どうしてもあのやってほしいって言って」

その小原がレコーディングに参加して

「通訳の人もいたんですけど、なるべく間違ったこと言っちゃいけないからと思って通訳の人を介してそれでいろんなことを伝えてたら、すごい冷たいんですよ小原さん。できる限りの英語で伝えた方がいいよって。あの4小節前から引いてくださいとかそんなんしか言えませんとか言って、それでいいんだよとかってアルペジオで弾いてくれとか言えばいいじゃんって、言えるでしょ。こんな曲だからこんなふうに弾いてって言うには、私の語学力では英語力では足りないから頼んでるんです。はい、アルペジオで弾いてくださいって言うんだよまずって言って弾いてもらって、違います。他のアプローチでっていうんだよ。冷たいし厳しくないですか?初めの印象すごい悪かったんですけど、でも言われてみたら、それが良かったこともあって、片言だけど一生懸命やってたら、一生懸命わかりやすい英語使ってくれて。そのうち私の英語力も少しずつ上がってきてっていう、あれは小原礼のおかげだったのでありがたかったかなって思っています」

やってみる。

尾崎亜美の音楽を作ってきたのは、
その行動力にあった。
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プロデビュー

2024/01/13
尾崎亜美は小学生のときにピアノに出会い。
中学生のときは演劇部を創部したという。

「作りましたね。なかったんですよ。それで何かやってみたいなと思って、作ってみたんです。私はどっちかっていうと脚本を書いてました。得意ではないけどやりたいんです。お料理が好きって話もしましたけど、得意だからやってんじゃなくてやりたくてやってて、そのうち得意になる。だから、脚本書くのも全然得意じゃないけど、書いてるうちに面白くなってきて、次こんなの書こうかなって、そんな感じで書いてましたね」

演劇部に所属する一方でピアノにも向き合っていた。
しかし、歌うことはあまり良い思い出はなかったという。

「全然好きじゃなかったです。変な声って言い続けられてましたから。特に姉がものすごくはっきり物を言う人なんですけど、6歳ぐらい上なんですね。ほんまけったいな声やなっていつも言われるので、ちょっとこっそり歌ってみたら、横の部屋から聞いてて、ほんまけったいな声っていうのが、ガーッて私の声はけったいなんやって思っていたので、人前では歌わんとこって思ってたんですよ」

その中、高校では軽音楽クラブに所属する。

「無理やり入れさせられたんです。無理やりピアノ弾けるんやろって言われて、1週間で退部していいから入ってって言われたんですよ。それでしょうがないなって言って、うちの父が固かったんで、軽音楽とかは絶対許されなかった。クラシックに進まないといけないかったです。でもこっそり入ったんですね。そしたらビートルズの曲とか何かそういうのをみんなで歌うっていうのでやってたら、私まぎれてるから油断して大声出してたみたいなんですよ。そしたら先輩が、お前、声大きいな、ビートルズのTo of Usっていう曲があるんですけど、それのソロパートがあるからなお前ソロそこ歌えやって言われて、変な声ですよと思ったんだけど、、もう本当にもう清水の舞台から飛び込むぐらいな気持ちで歌ったんですよね。そしたらそこから何か扉が開いて、面白いやんってなって、バンドまで組んじゃって、止めるどころじゃなくて」

学校内で演奏はしたが、父親には絶対に秘密にしていたという。
しかし、その秘密は長く続かなかった。

「バレますよね。バレる日が来ました。本当にこんなエキセントリックな話をしていいかと思うんですけど、私がアルバイトして買ったギターを階段に叩きつけて壊されました。ぼよよーんよ~んっていいました。すごいややこしい音がしました。今でも忘れないですよ。なんかでもね、人って、それでやめますかやめませんよね、何かそこで心が決まって、こっそりコンテスト出たり」

しかし、そのコンテストに出場したバンドも一筋縄では行かなかった。

「即席で作ったバンドでエンプティストリートっていう名前のもう全部上級生でしたね。初めて出たときに、女の子だけが良かったっていうちょっと心無い審査の言葉があったんですね。そしたら、お前のおかげで勝てたんやからと言って1人去り、それで週間チャンピオンになって、、はいまた、なんか女の子が素晴らしかったですねって言われちゃったら、僕もやめますになって、もう1人も辞め、はい、本当にバンド名を背負った1人の女になってしまって」

月間チャンピオン12組が集まり
年間チャンピオンを決めることになった。
尾崎亜美は出る資格はないと思い断りを入れた。

「困ると。出てもらいますって言われて、曲も準備してないで、何か歌ってくださいって言われて。ピアノで弾き語りをして、でも絶対行けなかったそんなことでチャンピオンになっちゃいけなかったの。ものすごい猛練習してる人たちがもう楽屋にいて悲しいって思って、悪いと思ってたんです。落としてくれって思ってたんですよ。でも2位になったのでちょっとほっとしたんです。1位じゃなくて司会の人は絶対おかしいとか言って、言ってくださったんだけど、そのこともなんか含めてちょっと切ないじゃないですかそんな切なさを超えてレコード会社の方からものすごいお誘いいただくことになり、デビューすることになったんです」

プロの歌手に、結果、自由に歌う…というものが奪われた。

「プロになったんだから、プロって何だろう、プロらしくあるのって何だろうって、
そこでものすごく悩みました。あっという間に体を壊しました」

デビュー曲「瞑想」
そのレコーディングの現場とは。

「松任谷正隆さんが、アレンジしてくださって、鈴木茂さんや林立夫さんやもうそうそうたるメンバーがレコーディングに参加してくださったんです。私10時には寝てる子だったんで、もう眠くなっちゃってずっと緊張が続いていて、ダビング中に何か誰だったかな誰かがパーカッションだったかな、斉藤ノブさんが、やってくれてたときに寝ちゃったんですよ。この子は絶対大物になるねって言ってるのを夢うつつで聞いてましたね」
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創造力

2024/01/06
シンガーソングライター 尾崎亜美
得意の料理は音楽と似ているという。

「食材をどんな風に料理にするかっていうことを考える。お料理作って表に出すの好きなんですよね。でライブをするのもおもてなしの感覚なんですで、この料理をこの順番に出して、まず掴み、終わったら美味しかった また食べたいていう そのお料理ごっちゃに話してますけど そういう感じでいるのですよ そっくり と言えるのでは」

音楽の世界でマルチな活躍をしている尾崎亜美
その音楽との出会い京都での幼少期にある。

「京都 それは私のこの感性みたいのにとても影響してると思うんです。四季があってすごくラッキーな環境だったかなと思います。寝てる時 天井の節目とか色々見えるじゃない?それでお話を作ってるっていうのが私の子供時代の一番初めに出てくる思い出ですね」

そんな幼少期は体が弱かったともいう

「とりあえず熱がすごく出やすかったので、ようやく熱が冷めて夕方 誰かいるかなと思って公園とかにかけていくとシーンってしてたりして、滑り台とかかろうじて一人でもできるしブランコも。決定的なのはシーソー。切ない、物理的にも無理で。後にあの片思いの歌をね シーソーという曲を書いたこともあるんです」

そんな幼少時代は様々な創作もしていたという。

「人と話すのがとにかく下手だったんですね。すごい嘘つき少女でした 嘘をつかないと感心を持ってももらえなかったの。多分 天井の節目でいっぱいストーリーができてたからそれ 発表しなきゃいけなかったんですよでそれを もう実話のように言わなきゃいけなかったんで 数多くの名作があるんですけど 地下の国と繋がってる電話があるって言った時はものすごいたくさんの生徒がうちの家の下を見に来たりしました」

そして、音楽は父親の存在が大きかった。

「音楽好きの地方公務員だったんですけど 合唱団を組織もしてたんですよ 歌を教えてたんですね 父も曲をちょっと書いてたんです 声は父からもらって ポップな性格とかおもてなしの感じとかは母からもらってるかもしれないです。そういう感じで話せない子だったので心配して両親がピアノを買ってくれたんですね それはやっぱり大きかったので もうずっと ピアノ弾いてました。7歳か8歳ぐらいからですね」

そして、ピアノの先生にピアノのストーリーを学んだ。

「和音を宿題にされるんですよ 宿題の和音に合わせてメロディを作ると面白くないと言われて、どこがどう 面白くないんだろう コードに合ってるのにと思うと何の冒険もない これは何のストーリーですか そうしかなかったらそれは面白くないですね ちょっと ストーリーが見えましたねって言われて」
尾崎亜美の音楽家としての物語は幼少期からはじまっていた。


【今日のOA楽曲】
「シーソー」
「オリビアを聴きながら」

お話に出てきた尾崎亜美さんの幼少期の思い出が歌になったという「シーソー」
そして、「オリビアを聴きながら」は、杏里さんでご存知方、多いと思いますが、
作詞作曲は、尾崎亜美さんです。
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