NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest伊東ゆかりさん

伊東ゆかりさん

1958年キングレコードより“クワイ河マーチ”でデビュー。その後、中尾ミエ、園まりとともにテレビ番組「スパークショー」で「3人娘」としてトリオを組み、人気者に。1967年リリースの“小指の想い出”で日本レコード大賞・歌唱賞受賞。“恋のしずく”“朝の口づけ”“知らなかったの”とたてつづけに大ヒットとなる。

歌い続けることが全ての源

2023/03/25
ステージデビュー70周年の伊東ゆかり。
去年の11月にはシングルコレクション「ポップスクイーン」がリリースされた
自分の歌について次のように振り返る

「最初の頃の歌なんかは父の言う通りに歌っているし、後の方になってくると宮川浩先生の言われたと言われた通りに歌っているし、ゆかりの声は右から左に流れちゃったパンチがないって宮川先生によく言われたんで、そのパンチがないって意味が分からなくてね」

試行錯誤しながら続けてきた歌手生活。
その歌手生命の危機を救ってくれたのが弘田三枝子だった。

「突然声が出なくなっちゃったんです。クリスマスの時期で忙しい時期だったんですけど声が出なくなっちゃって、で新潟ホテルのお仕事だったんです。忘れもしない。弘田三枝子さんが助けに来て下さったんですね。もうその夜はもう眠れなくて自分このまま声が出なくなったら歌手じゃなくてほかのお仕事できるかなと思って、新潟でのみこちゃんにはもう感謝しかないです。嫌な顔せずにサポートしてくれました」

伊東ゆかりには忘れられないステージが他にもある。
それが飛鳥クルーズでのステージだという。

「それまでは本当にあのコンサートでも客席と一段上がったステージ、ホールのコンサートの仕事しかしなかったんですけど、飛鳥のお仕事を決めた時に、中尾ミエさんが心配して、“あなたみたいにこうブスっとしてたらね。誰一人として見に来てくれないわよ、毎日同じ人が見るんだから”って言うの。だから一歩自分の部屋から出たら、もう愛想よくしてなきゃダメよって言われて。暗い気持ちで飛鳥に乗ったんですけど、大浴場に大体同じ時間に来ているお客さんもいるわけですよ。毎日、会っているうちにその方と目を合わせてお話できるようになって、あの初日の一回目のステージにそのお客様が客席にいらしたんです」

一人のお客とのコミュニケーションという経験を積み
恥ずかしさから解放された彼女は、
苦手だったステージが好きになったともいう。

「人としゃべるのがなんか苦じゃなくなったんでちょっとライブの仕事もしてみたいなって思うようになって、であのジャズライブのお仕事なんかも、そこから始めさせてもらいました」

そして、伊東ゆかりにとって代名詞でもある「スパーク三人娘」は
これからもずっと掛け替えのない仲間のようだ。
中尾ミエ、園まりにも助けられたことがあるという。

「まりさんに助けられることっていうのは何回か有りますね。のどの調子が悪い時に助けられましたね。普段連絡を取り合ってべたべたくっついてるわけじゃないんだけれども、何かあったときに頼れる存在です」

伊東ゆかりが描く10年後の自分とは?

「人生100年だから10年後やっぱり私は歌っていたい。あの声が出る限り。歌っていたい。まりさんも仕事をしていたい。ミエさんもうんみんな仕事をしていたいっていうことでしたよね。うん元気で、健康で」
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小指の想い出

2023/03/18
伊東ゆかりに人生の転機が訪れたのは1967年のこと。
大ヒット曲となる小指の想い出との出会った。

「三人娘の中で私がいちばんで遅れてたっていうのかな。社長さんはじめマネージャーも心配して、この小指の想い出を持ってきてくださったんですけど。私にとっては物凄く歌謡曲っていう感じで、今までのそのポップスの曲のイメージとはまったくちがって。どうやって歌ったらいいのか分かんないし、私の歌じゃないと結構わがままというかだだをこねました」

小さい頃は歌うのが嫌いだったという伊東ゆかり。

「何ていうんだろう自分が辞めたい、辞めたいと思う反対の方向にどんどんレールが引かれて行っちゃう。小指の想い出もらった時に、うんもうこれ歌う。歌うけどあの自分でそんな売れると思ってないんで、これがダメだったらもう私やめようと思ってたんですよね」

しかし、小指の想い出は大ヒット曲となった。
伊東ゆかり。
20歳の時だった。

「今では私の伊東ゆかりと言う名前をねみんなが知ってくれた大切な歌です。今はもうそんな嫌だなんて言ってませんよ」

そして、伊東ゆかりは、結婚、出産も分岐点に挙げている。

6歳でステージに立ち。
11歳でレコードデビュー。
そして24歳の時、俳優で歌手の佐川満男とご結婚。

「結婚すれば歌が辞められると思いましたね。まあ、佐川さんに悪いですけど、もちろん好きでしたよ。好きでしたけど、その一つの理由としては結婚したらやめられるって思ったの。そのホームドラマみたいな夢を描いてました」

伊東ゆかりの結婚は
大ニュースとなり日本列島を駆けめぐった。

「当時は結婚式をして披露宴なんかそのテレビで中継するっていうのが流行ってたのかな?うちもそういうそのテレビで中継するっていうお話が来て、私はもう大反対だったんですけど。あのこれからの仕事にね、あのプラスになるからって言うんで、泣く泣くやりました。嫌だったですね。あれはなんか自分のプライベートを見世物にしてるみたいで。これもまあ事務所的にもそうなのかなと思いながら半分、変だなと思いながら放送しました」

その後、子宝にも恵まれる。

「娘を生みました。可愛くて、よしこれでもう育児に専念できてと思ってたんですが、ある日突然娘が、娘が三四ヶ月ぐらいの頃かな父の借金を払うために1年間だけちょっと仕事をさせてくれってお願いをして、で、1年間の仕事をして、でも皮肉な事にライトを浴びて歌っているうちに。なんだか仕事って面白いなあって思っちゃったんですね。主人に育児、仕事、奥さん全部両立できると思うからやらせてほしいって言うことを言って、仕事をちょこちょこやらせてもらうようになりました」

歌手の娘は、やっぱり歌手だった。
2002年に伊東ゆかりの楽曲に参加する。

「あ、やっぱり歌が好きなのかな?それでちょっとレコーディングの声を聞いて、ちょっとびっくりしました。うん、なんかうまく歌ってるなと思って。中学生の頃は、よくあの親子でテレビとか出ませんかって言われて、あのひろみっていう名前なんですけど。ひろみ、あんたテレビに出るったら、嫌だなぁって言ってたのよ。反抗期だから。言ってたのが隠れて事務所の社長さんにデモテープを送ってたみたいなんですよ」

愛娘と共演することについては

「初めてレコーディングしてスタジオ行って声聞いたときに、ちょっとうるうるときましたね。あらやだ、うまく歌ってるわ、私よりいい声してると思って、自分の声に似てるとは思わなかったけれども、ちゃんと歌ってるなあって思いました」

2人の歌の共演は
今もなおステージで輝きを放ち続けている
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11歳のレコードデビュー

2023/03/11
ステージデビュー70周年の伊東ゆかり。
レコードデビューは小学校5年生の時だった。

「クワイ河マーチ。戦場にかける橋という映画の主題って言ったらいいのかな?ミッチ・ミラー合唱団で、あの歌詞はついてなかったんですけど、それに歌詞を荒川弘さんがつけてくださって、デビューしました」

録音された自分の声は?

「私ってこんな声だ。そんな感じです。だから、あの話してる声も歌ってる声も、えっ私ってこんな声名なのって最初は何か凄く、もっとなんかいい声なんじゃないかなって、なんかすごいがっかりしたの覚えてますね」

小学5年生でレコードデビュー。
学業と歌のバランスは?

「自分でびっくりしたのは、代々木の駅に降り立ちょうど真ん前に自分のポスターが貼ってあったので、恥ずかったですね。顔から火が出るかってぐらいはなんか悪いもの見ちゃったっていう。別に悪いことしてるわけじゃないんですけどね。見られたりいけないモノを見てしまったみたいな感じでした」

その後、所属プロダクション社長の家に下宿をする。

「私が下宿してる頃には、ちょっとしてから中尾ミエさんがそれであの九州から出てきたのかな?もうちょっと後だと梓みちよさん。梓みちよさんと中尾ミエさんと私と三人で台所の裏の方にプレハブ住宅を建てていただいて、あの四段ベッドで寝ていました。しばらくしてからザ・ピーナッツさんも来たかな」

その後、代名詞でもある「スパーク三人娘」を結成する。

「あの頃ツイストがものすごく流行ってて、あの番組は画期的っていうか生放送でしたね。若者がブワーッとスタジオになだれこんできて、みんなでツイストを踊る。それも生のバンドで、すごい斬新で新鮮な感じだったんですかね。三人でちょっと地方でも回らせたらどうなのかって言うんであっちこっち地方へ回るようになりました。スパーク三人娘で」

メンバーのことをどう思っていたのか?

「中尾ミエさんは三人の中ではやっぱり一番センスも良いし、流行も先に取り入れてあの衣装になんか決めるときでも、あのミニスカートが流行ればミニスカートっていうし。園まりさんはミエさんと私が言い合っているときに遠くから見ている。あとはあのステージでちょっと悪ふざけもしましたね。私と中尾さんは。あとで聞くとまりさんはそれが一番いやだったって言ってましたけど」

三人娘は再結成し東日本大震災の復興支援なども行った。

「三人娘でお地蔵さんプロジェクトいうのに参加させていただいて。津波が来たそのところにお地蔵さんを掘ってあの納めるんですけど、でもやっぱり、すごく喜んでくださる方と、それからも思い出したくない。そのもうそういうの見たくないっていう人もいるし、なかなか難しい問題はありましたね」

伊東ゆかりにとって十代の日々とは?

「やっぱり十代っていうと、ぱっとやっぱり三人娘のことが浮かんでくるかな。あとは、十代っていうと、もっともっと遊びたかったかも」
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6歳での歌手デビュー

2023/03/04
伊東ゆかりは今年でステージデビュー70周年。
その幼少期とは?

「歌を始めたきっかけにもなっちゃうんですけど小さい時は隅っこが好きで人とコミュニケーションを取れなくて笑いの少ない子だったみたいです。それで父が人前で歌でも出せれば少し表情が豊かになってコミュニケーション取れて笑顔も多くなるんじゃないかって言うんで歌を始めさせたみたいです」

歌を進めた父親はバンドマンでベースを弾いていた。
家は音楽にあふれていた。

「将来は歌手にしようと思っていたのかもしれないんですけど、鉄筋で発声練習をしたり、自分の家の壁を白く塗りつぶして英語の歌詞をバーッと書いて、一日中ラジオは英語の放送が流れていました。家では海外の音楽ばかりだったので英語の歌詞は耳から全部ヒアリングしていて、英語の歌を歌うときはまあ今でもあのずっと耳に入ってきます」

父様のススメで歌に出会った伊東ゆかり、
その歌声は日本中から注目されることになる。
活躍の場はステージからラジオへ、新しい世界が待っていた。

「あの頃ラジオって言うと、のど自慢の番組がたくさんあったんですよね。そののど自慢に出て優勝させてもらってその番組で優勝しました」

そして、伊東ゆかりはレコード会社のオーディションを受ける。

「レコード会社もそのころは3社しかなくてそのビクターとコロンビア受けたんですけどダメで、キングレコードさんが、第二の江利チエミっていうのを探していてちょっとそれであのま英語の歌を歌ってる子がいるよって言うことでキングレコードさんが拾ってくれました」

そして“クワイ河マーチ”でデビューする。
伊東ゆかり10歳のころだった。
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