NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest渡辺真知子さん

渡辺真知子さん

1975年にヤマハのポピュラーソングコンテストで特別賞を受賞し、77年に自ら作詞・作曲を手がけた『迷い道』でデビュー。78年リリースの『かもめが翔んだ日』で第20回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞。ライブ活動も積極的に行っており、その歌唱力から国内外の音楽祭や各種イベントに招かれて歌声を披露する機会も多い。近年はラテン&ジャズのアルバムをリリースするなど、活動の幅をますます広げている。

今が一番、happy

2021/07/10
還暦、デビュー40周年を越えて、
今がhappyだといういう渡辺真知子。
いろいろな出会いがhappyへと導いた。

「20周年お迎えた頃ですね。あのキューバに行ってラテンのね、エッセンスをちょっと注入した時期だったんですけども、ちょっとその時に Buena Vista Social Club で一躍世界中の注目を集めたオマーラ・​ポルトゥオンドさん。キューバでもって紹介していただいたですね。彼女のライブとか全部付いていったりしてですね、彼女の歌が焼きついてしまって40になって私の音楽のライフワーク、大きな素晴らしい旗が立ったなと思いました」

20代、30代、40代。
渡辺真知子が邁進できた理由とは?

「道標が必ず立つんですよ。例えばそのドアが閉まったと思うと、音楽の歌のところだけは全部開くんですよ。結婚とかね他の部分は開けようにもどうすることもできない。叶わないこともございました。ですけれども歌の部分だけは開くんですよね。今は迷いも何もございません」

次から次へと扉が開いた音楽の道。
数年前には個人事務所を設した。

「大チャレンジ。まさか会社を作るなんていうことは想像もしてなかったですね。ただそのもちろん不安ですよ。不安の方が多いんだけど、でも面白い。広がっていくんですね。還暦の山とか色々その手前からも前夜祭からですね。みんなで楽しんでいこうよということで、もう60手前でなんとライブハウスだったのもホールコンサートに東名阪だけは後持って行ったりですね。思い切りましたね」

リスナーへのエール

「とにかくこの2年、今までかつてない。こういう時にみんな生きているということは、すごいことだと思うんですよ。明るいと信じたい未来に向かって、それぞれのポジション。行きたいように夢を持って行きましょう」
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出会いが広げてくれた自分の可能性

2021/07/03
デビュー曲「迷い道」で数々の新人賞を総なめ。
スターダムにのし上がった渡辺真知子。
しかし、音楽ブームの移り変わりは早かった。

「やりたいことがまだまだあるのに世の中は違う方向いて潮が引くようにサーっと、引ていく感じです。東京にいても陸の孤島という感じなんですね。こんなに人はいるのに知ってる人が一人も居ない。寂しさっていうものですね」

その状況を乗り切るためにとった行動は
アメリカへの留学だった。

「アリゾナなんですけどね。環境はとてもいいんですけれどもね。何もないですからね。それまですごい勢いで回っていた時間の使い方とか一瞬で止まったように感じましたね」

日常では音楽と距離をとった。
そして、自然が心を整えてくれた。

やがて、音楽と再び出会うこことになる。

「ボディーが樽のようなお母さんが、マイクも使わないで歌い、ソンブレロかぶったお父さん達がギターをかき鳴らしていたんです。それを見たら、私の見てきた音楽ってまだこれっぽっちなの?世界にもこういうのたくさんあんの?っていう、そこでもって何かが全部壊れた。なんかもっともっと歌いたいものとか、国内外問わず。ジャンル問わず。肌の色問わず。全部やってみたいなぁなんて」

「音楽の面ではイースターのパーティーがありまして、みんな知っている曲がいいかな?We are the worldがちょうどヒットしていたんで歌ったら、オリジナルとかそういうリクエストも来てたんで、かもめを歌ったらな騒ぎになって、終わってからもう声のことを褒められました。世界中のどこ行ってもこれから逃れることはできないんだなっていうのも分かりましたね」

スター街道から一転、居場所を失った渡辺真知子さん。
アメリカでの経験を経て、帰国した彼女に待っていたのは素晴らしい出会いの数々。
帰国してからは、いろんなジャンルの歌を取り入れることにした。

「まずラテンは外せないだろうということで、まずラテンのアルバムを作ったんですね。それと並行してジャズのことについても勉強して行きました。でそんな風にしてるうちにハッと気が付いたらば、コンサートできるぐらいこうレパートリーが増えていました」
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協力者の心強さ

2021/06/26
渡辺真知子のデビュー当時
シンガーソングライターに注目が集まっていた。

「荒井由実さんだった頃です。吉田拓郎さんとかそういう方々が作ってくれたその道を、我々がつないだという感じですよね」

デビュー曲は「迷い道」。

「デモテープができて、音楽仲間がたくさんいましたから、どうだろうって聞いてもらうと十人が十人、これは売れるよって言ってくれましたね。作るのも大変だったんですよ。なんかわかんないけど、みんな聞いてもらうっていうのは、やっぱりテンションの高い所って作んなきゃいけないんだなっていうのを教えていただきましたね。何回も打ち合わせしていただいたしね」

自ら作詞作曲を手掛けた「迷い道」で大ヒット、
続く2作目はプロの手が加わることになった。
完成した楽曲が、あの「かもめが翔んだ日」である。

「嬉しい、嬉しい。その伊藤アキラさんが書かれたその字を見ながらね。なんかもう嬉しくてサラサラサラサラ音がしちゃんですよ。もう頭の中でもつけたくてしょうがないんですよ、あのメロディーをね」

伊藤アキラが認めた詞は、
渡辺真知子の気持ちを高ぶらせた。

「やっぱり現在過去未来こういう言葉遊びみたいな形、語呂もいいじゃないですか?そういう詞を書かれる人って言ったらば、伊藤アキラさんはコマーシャルとかなんかでも”この木なんの木気になる木”とかそういう言葉にテンポ、リズムがある方なんですよ」

伊藤アキラ意外にも船山基紀、羽田健太郎が
渡辺真知子をバックアップした。

「もう素晴らしいですよね。ら素晴らしい人ばっかり、二十歳頃に、、、、みんな揃っていらっしゃったので、コンサートもレコーディングメンバーでした」
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大切なのは好きなことをやり続けること

2021/06/19
神奈川県は横須賀市で生まれた渡辺真知子。
幼少期はしゃべることが恥ずかしいという女の子だったそう。
しかしながら、歌うことは嫌いではなかったという。

「近所の人たちと集まって話してる時、側で持っていて座布団を4枚ぐらい重ねましてマイクのようなものをそばに置いて待ってるわけですね。その待ってる私を見て母が合図してくれるんです」

シンガーソングライターとしての原点は中学時代にさかのぼる。

「中学の時にピアノ習っているということで、クラスから歌詞を募集してそれにつけてみればっていう流れになったんですね。ピアノなってるからできるよと、初めてだったかな、曲をつけたのは」

高校時代にはプロを意識するようになる
ポピュラーソングコンテストにエントリーするようになった
小さな頃から歌が大好きだった渡辺真知子。
プロを目指すか進学をするのか?
その決断は母の想いに応えた形となりました。

「これからの世の中はどんなことが起こるかわからないのね?ひとりになった時に手に職をつけておけばお母さんも安心だわ」

進学したのは音楽大学。
大学で声楽を学んだ。

「ポピュラーの発声とはもともと違う感じですけれど、今の時代になってくるとその声がどんどん高音になるにしたがってつながってくるところもあるんです。今でも役立っていますね。かもめが翔んだ日の出だしはまさにそれですね」
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