NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest神野三鈴さん

神野三鈴さん

神奈川県鎌倉市生まれ。1991年、大河ドラマ『太平記』で女優としてのキャリアをスタートさせ、
その後、舞台を中心に多数の話題作に出演。
井上ひさしや三谷幸喜ら著名な演出家の作品で高い評価を受け、紀伊國屋演劇賞個人賞など、多数受賞。
映画やテレビドラマでも活躍し、NHK連続テレビ小説『あんぱん』などの話題作に出演。
井上ひさしや三谷幸喜ら著名な演出家の作品で高い評価を受け、

新しい世界への挑戦、46歳での映画デビュー

2025/12/20
今週も、俳優の神野三鈴さんのライフストーリーをお届けします。

◆46歳での映画デビュー、魂の覚悟
舞台俳優として長年活躍してきた神野さんが映画デビューを果たしたのは46歳の時。原田眞人監督、大泉洋さん主演の『駆け込み女と駆け出し男』でした。

「その時に初めて、自分の役者としての人生を真剣に考えました。新しいこと、役者としていけるところまでちゃんと向き合って挑戦したいって、自分に誓ったんです」

そして覚悟を決めて宣言したといいます。

「映画もやる、テレビドラマもやるって言霊にした。そうしたら1週間の間に映画の話とテレビドラマの話が来たんです。言霊ってあるんだなって、世界がそうなってるんだなって実感しました」

◆3年間の別れ、そして再婚
この大きな決断の背景には、夫である世界的ジャズピアニスト・小曽根真さんとの関係の変化がありました。
「夫の才能が素晴らしくて、それを支えたいと思ったんです。でもやっぱりその才能は彼のものであって、私のものではない。彼の成功を自分の成功のように感じてしまうのは非常に危険だなと思うようになって」

自分と相手との境がなくなってしまう・・・違う人間でありながら一緒に立つということができなかったと振り返ります。

「それで一回別れたいって言ったんです。役者として勝負したいという気持ちがあって」

結局3年間の別れを経験。その間に映画が次々と決まり、世界中の映画祭を回ったりと、映画に関わる人たちの情熱に魅了されていったといいます。

◆斎藤工監督『ブランク13』
映画デビューから数年後に出演した斎藤工監督の『ブランク13』を印象に残る作品として挙げてくださった神野さん。実話をもとにしたこの作品で、高橋一生さん、リリー・フランキーさんらと共演。一人で2人の息子を育てた母親役を演じています。

この作品での斎藤工監督の演出は衝撃的だったといいます。

「台本が5枚だけで、ストーリーだけ書いてあって、あとはずっとアドリブ。延々と芝居を役者間で続けていくんです。匠くんの役者に対する愛情と信頼度がすごくて。サボってるわけでも楽してるわけでもなく、勝負をかけてる。大した人だなと思いました」

◆舞台と映画、それぞれの魅力

長年舞台で活躍してきた神野さんにとって、映画は新たな発見でした。

「全身で表現するだけじゃない表現が映画にはたくさんあります。シルエットだけとか、指先だけとか、目だけとか。舞台ではしない芝居もたくさん出てきて、それが舞台に戻った時に非常に役に立ちました」

◆コロナ禍、夫婦で毎日配信
3年間の別れを経て小曽根真さんと再婚。コロナ禍では自宅から毎日、ライブ配信を行った小曽根さんをサポートしたのが神野さんでした。

「ロックダウンから53日間、毎日夜9時から1時間、無料配信をやってました。世界中からのリクエストを取って。最終回はオーチャードホールからの生中継。お客さんを入れて生で音楽を聞いていただきたい、私たちが最終的に戻りたい場所はここだっていうことで」

別れを経て、再婚、さらにコロナを乗り越え、さらにお二人の絆は深まったようです。
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結婚と介護と舞台俳優としてのキャリア

2025/12/13
今週も、俳優の神野三鈴さんのライフストーリーをお届けします。

1991年にNHK大河ドラマ『太平記』に出演し、翌1992年には舞台『グリーンベンチ』にも出演された神野さん。当時のことを振り返ると、

「やっぱり始めたばかりの頃だったんで、結構鮮明に覚えてますね」

その後も舞台中心のキャリアを築いてきました。

「本が好きだったので、戯曲が好きだったんです。戯曲って何百年とか読み継がれてくるようなものが多くて、自分はすごく惹かれたんですね。お客様と呼吸をするというか、それがもうたまらなく私にはよかったです」

目の前にお客様がいて、舞台でしかできない魔法・・・その魔法に惹きつけられたという神野さん。

◆運命的な出会い、ピアニスト小曽根真さんとの結婚

1995年、ジャズピアニストの小曽根真さんと運命的な出会いをした神野さん。
きっかけは阪神淡路大震災のチャリティーコンサートでした。

「私が初めてプロデュースをして、舞台でとても神戸の方にはお世話になってたので、神戸の方たちに届けたいと思って企画したんです。それに人に紹介してもらって出てもらうことになったのが出会いでした」

第一印象を尋ねると、神野さんは笑いながら答えます。

「最悪!最初、電話で話した時にチャラい人だなと思って。それで2回会うことになってたんですけど、1回目は台風で新幹線が止まって私が行けなくなって、2回目もまたアクシデントが起きて会えなかったんです」

それから何年か経って、阪神大震災直後に再会。

「会った瞬間に『うわ、この人と結婚するんだ』って思ったんです。本当にタイプじゃなくてお互いそうだと思うんですけど、不思議なんですよね」

そして出会ってから3ヶ月で結婚。

「でも何にも知らないでお互い結婚したので、大変でしたね」

結婚後はアメリカでの生活が始まりました。

「結婚してしばらくしてから、やっぱり彼の音楽はアメリカでもう1回勝負するべきだと思って、私が色々話して、もう一度一緒に行こうということにして移ったんです」

ジャズミュージシャンとの生活について、神野さんは興味深い視点を語ります。

「ジャズミュージシャンってやっぱりアドリブの世界で、今聞こえてきたことを今やるじゃないですか。計画性はないんです。それがまた何が起こるか分からないって面白さでもあるんですね。本当に子供みたいで、最初は2人で格闘技みたいにやってました」

◆30代、母の介護と舞台女優として

29歳で小曽根真さんと結婚し、その後30代のほとんどは俳優の仕事をしなかったという神野さん。

「ニューヨークに渡って、彼の音楽を支えたいという気持ちがすごく大きくあったのもありますし、あと結婚と同時ぐらいに母が倒れてしまったんです。脳梗塞で。それで行ったり来たりの生活になったんです」

仕事は軌道に乗ったところで30代は女優として最も重要な時期。

「色々あったんですけれども、ただその時に、どんなにお断りしても井上ひさし先生がご自分の新作に必ず読んでくださったり、栗山民也さん(演出家)が出してくださったりして、1年に1本か2本舞台を続けていたんです」

特に印象深いのが、井上ひさしさんの最後の作品となった『組曲虐殺』。

「3回にわたって出演させていただきました。初演から、もう先生、いつも本が遅かったので、本当に地獄なんですよ。初日の前の日に夜中に初めて劇場で稽古できて、劇場の近くに泊まって、本番の初日の朝、初めて通し稽古やって、それで幕を開けるというような感じでした」

そのため、稽古は過酷を極めました。
また、その時の伴奏はすべて小曽根真さんが担当。

「井上先生からのラブコールで、ご自分の作品の音楽をこれからずっと書いてほしいって言われて。ただ本人が演奏すると、しょっちゅうできなくなるので、先生はそれを心配してたんですけど、やっぱりこの作品だけは自分でと。毎日即興で始まるので、もうみんなどこで始まるか分からないドキドキでした。井上芳雄くんとかは毎回、一人でピアノと歌うところは即興で合わせてもらってました。素晴らしかったですね。毎回毎回、本当のライブ!」

◆数々の賞、そして鬱との闘い

数々の賞を受賞されている神野さん。『組曲虐殺』と栗山民也さん演出の『桜の園』で紀伊国屋演劇賞個人賞を、その後『マクベス』と『組曲虐殺』で読売演劇賞を受賞しました。

栗山民也さんとの仕事について、神野さんは語ります。

「素晴らしい日本を代表する演出家の方ですけど、私が本当にまだ箸にも棒にもかからない時から面白がってずっといろんな作品に呼んでくださって」

特に『桜の園』は、神野さんにとって特別な作品でした。

「ちょうど母を送った後だったのかな。ちょっとやっぱり介護だけでも自分では大変だと思ってても、終わった途端にやっぱり鬱みたいになっちゃったんですね。それで鬱だって気づいてなくて。その頃にこう『桜の園』に出会って、なんか私の変なところをすごい面白がって、いろいろ役者として別な面を見せてくれたので、それはとても勉強になりましたね」

◆イギリスの演出家との仕事、演劇の魔法

イギリスの演出家との仕事も多く経験されている神野さん。
「イギリスの演出家の方は、やはり演劇っていうものに対する歴史が長いので、映像とかとは違う『シアター・オブ・マジック』っていう、演劇でしかできない素晴らしさというのをもう知り尽くしてるというか、挑戦し続けていて」

それは、人間の想像力だと神野さんは言います。

「ただの小屋が、作品によって全部違うものになるわけですよね。もちろん作品だけじゃなくてシーンによって海原になったり宮殿になったり。それは全部嘘なんだけど、お客さんの想像力をそう見せる。自分たちの人間の想像力ってワクワクするほどすごいって、その人間の力を思い起こさせてくれるような演出をつけてくれるんです」

「なので、そういう演出に出会う度に、やっぱり『舞台最高!』って毎回、思いをこう新たにさせてくれるというか、思い出させてくれるというか。人間ってすごいなって」

現在公開中の映画『TOKYOタクシー』にも出演されている神野さん、
ぜひ劇場に足を運んでみてください。
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転校続きだった幼少期、15歳での自立

2025/12/06
今月は、俳優の神野三鈴さんのライフストーリーをお届けします。

素敵な笑顔に透き通る声・・・まさに「チャーミング」という言葉がぴったりな神野さん。
土曜日の朝の過ごし方を伺うと、
「私、もう本当に猫が大好きで、猫4匹飼ってるんですけど、猫と一緒にできるだけグダグダとベッドで過ごしてます」
とのこと。

猫が「起きないで!」というように、ぎゅっと腕を抱きしめたりしてくるのだとか。
「うちは猫が上に乗っかってる人間は何もしなくていいというルールがあるので、それをいいことにずっと寝てます」

元々、鎌倉生まれという神野さん。
「割とちっちゃい時に出たんですが、今から12年前かな、戻ってきました。山の上なんですけど、鳥の鳴き声とかすごいいっぱい聞こえて」

◆転校を繰り返した幼少期
幼少期を振り返ると、「もう変な子だったと思いますね」と笑う神野さん。

父親の事業の浮き沈みが激しく、小学校入学は北海道の札幌で、卒業時には沖縄にいたといいます。
「転々としてたので、いつもアウトロー的にいろんな学校の規則とか生活とか眺めてたような、そういう子供だったような気がします」

転校は小学校で5回、中学で3回。
「最初の頃は本当に泣いたりっていうあれだったんですけど、母がとっても前向きすぎるような人で、どの土地に行っても開拓者のようにいろいろ冒険して楽しむんですね」

そんな前向きなお母様からの影響について、神野さんは印象的なエピソードを語ります。

「最初、父がすごく事業成功してものすごい贅沢な暮らしを鎌倉でしてたんですね。運転手さんがついて幼稚園・保育園行くみたいな感じの生活をしていたんですけど、(会社が)潰れまして・・・
その後、運転手さんのご実家の小さな一部屋に暮らすことになったんですが、
普通だったらこれからどうなるんだろうって不安のような気持ちになると思うんですけど、母が毎日のように『一部屋しかないとみんながいつも一緒にいられて最高ね』って言ってたんですよ。だからすごい楽観的になったと思います」

◆演劇・文学との出会い
転校を繰り返す中で、演劇と文学に出会った神野さん。

「自分では前向きにいろんな場所を経験してたつもりなんでしょうけど、どこかでやっぱり心が引き裂かれたんだと思うんですね。親もそういうふうにしてるのであまり言えない気持ちもあり、その時に文学の世界の中に身を投影することが一つの避難所になってたような気がします」

自分が表現できない、表すこともできないいろんな感情を、本の中の主人公に投影していたといいます。

特に影響を受けたのが、アメリカの劇作家テネシー・ウィリアムズ。
「自分の言葉を選べなくなってしまって、これは黒だって思っても、もしかしたらグレーに見える、白かもしれないと、一つのことに絞れなくなってきた時期があって。今の私からは誰も信じてくださらないと思うんですけど、非常にしゃべるのが難しい時期が十代あったんですね」

「その時に自分の中でまるで代弁してくれてるように心情を言葉にして描かれていたのがテネシー・ウィリアムズという作家で、彼の描く女性の言葉にものすごく心打たれて、自分の中でそれを演じて、読むだけじゃなくてなっていたのが、お芝居に向かっていったきっかけかなと思います」

それは15、16歳の頃。ちょうど自立を選んだ時期でもありました。
「やっぱり親の破天荒な庇護下にいたら、これは逃れられない運命だと思って、ならば自分一人で生きた方が親も助けられると思って」

◆芸能界、そして舞台の世界へ
一人暮らしをしながら、芸能の道へ進んだ神野さん。
「最初はスカウトで、それで学校ちゃんと行っていいからって言うんで、ドラマのオーディションとかモデルさんやらせていただいて」

しかし、ドラマのゲスト出演をした時に「芸能界合わないなあ」と感じたといいます。

転機となったのは、舞台のオーディションでした。
「オーディション自体が『なぜこのセリフをこの人が言うんだ』とか、非常に中に入った質問たくさんされて、ちょっと稽古みたいなこともあったんですね」

「自分が喋る言葉をなぜ喋るのかを練習できる、探っていく——その逆のことをすることが非常にリハビリに近い、自分にとっては面白い経験で」

言葉を見つけられなくなって迷子になっていた神野さんにとって、セリフが決まっていて「なぜこのセリフを選んだのか」を探っていく作業が救いになったのだとか。

「演劇のプロに失礼なんですけど、リハビリのようにやらせてもらって。そしたらそのオーディションに受かって、そこからです」

舞台の仕事は「トントントンと決まっていたような」と振り返ります。

◆山田洋次監督作品に初出演
現在公開中の映画『TOKYOタクシー』で、山田洋次監督作品に初出演された神野さん。

蒼井優さん演じる主人公すみれの母親・敦子を演じました。

山田監督とは以前から交流があったそうで、
「何回かお声掛けていただいたり、舞台をよく見に来てくださってたんです。1回はステージの上からカーテンコールの時に、立ち上がって拍手してくださっている姿が目に入って、もうそっちの方がみんな恐縮して嬉しくて」

千秋楽には吉永小百合さんと2人で立ち上がって拍手してくださったのだとか。

現場での山田監督は94歳とは思えないエネルギーに満ちていたそうで、
「現場ではもう本当にお元気で、もう情熱はもう燃えたぎるようなまま演出してくださって」

しかし、神野さんを見るなり「違う!」と言われたのだとか。
「『シワが欲しいんだ』『金歯つけて』とかって、普段言われないようなことばかり言われました。
『若い若い』って。戦後すぐの40代は『もっとすごい老けてたんだ』って言われて。姿勢とか歩き方とか動き始めとか、すごいいろいろ演出してくださいました。とても楽しかった、勉強になりました」

共演の蒼井優さんとは18、19歳の頃からの仲良しで、家族ぐるみの付き合いをしているほど。
「でも初めてだったんですよ、親子役をやったの。なんか感慨深くて。
優ちゃんやっぱり素晴らしいですよね。映画女優として山田組の作品もいっぱい出てますし、改めて映画女優・蒼井優っていうのをそばで見せてもらった気がして、すごい女優さんだなって」

転校を繰り返し、言葉を失いかけた少女時代。演劇との出会いが人生を変え、今では数々の名作に出演する俳優として活躍する神野三鈴さん。母親から受け継いだ前向きさと、4匹の猫たちとの穏やかな日々に支えられているようです。

映画『TOKYOタクシー』は現在公開中です。
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