NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest平松愛理さん

平松愛理さん

1989年、アルバム『TREASURE』、シングル『青春のアルバム』でデビュー。1992年、シングル『部屋とYシャツと私』が大ヒット。去年デビュー30周年を迎え、YOUTUBEなどの世界にも挑み、今もなお精力的に活動している。

部屋とYシャツと私

2020/07/11
「”部屋とYシャツと私”はアルバムの中にすれすれ入ったっていう感じ、三枚目のアルバム、”MY DEAR”っていうアルバムに、まずその選曲の中からこぼれ落ちていて、で、私は親友が結婚する時に書いた曲だし、思い出の歌だし、是非入れてほしいっていうことを言ったんですけど、あの周りのスタッフのほぼ8割以上に反対されたんですよね。でもアルバムの中に、ギリギリスレスレ入ったんです。で、レコーディングをして、歌入れしている時に、この歌を歌うのこれで最初で最後だろうなと思ったんですね。」

その1曲を救ったのは有線へのリクエストだった。

「どのぐらい経った頃かな?有線で、リクエストしてくださったあの一般の方がリクエストしてくださって、リクエストがリクエストを呼んで、リクエストがリクエストを呼んで、重なってってどんどんどんチャートが上がっていって、有線チャート上がって行って、シングルカットした方がいいんじゃないかっていう話になり、で、シングルカットになったんです。2年後かな?」

救われた名曲。
そのアンサーソングが生まれたのは
誕生から30年後のことだった。

「原曲に対して、失礼なものを書きたくないと。なんかクオリティを下げてしまうような、絶対無理ですってずっとお断りし続けてきたんですけど、30年経って、、、同窓会でみんな集まって、いろいろと自分たちの話をしますよね?そうすると、ふと、あ、今しかないなと思ったんです。30年の月日が経ちましたっていうのが分かるもので歌詞を埋めていく。それで、完成して行く。こん~なに大変な作詞活動は、かつてなかったです」

最後に聞いた平松愛理がリスナーに贈るエールとは?

「自分にずっと、言い聞かせてるっていうか、ずっと思ってる言葉があって。今日の今の自分や毎日を愛せる気持ち、好きだなって思える気持ちこそが、自分の未来を作っていくと思うので、それは過去に対してもそうですね。あの頃は良かったな、だけじゃなくて。あっ、本当に素敵だったなって思える気持ちを過去にも未来にも持てる自分でいたいと思ったら、それは自分次第で、今日の自分を好きでいること、もうそれをずっと目指して毎日生きているので、皆さんも、もしよろしければちょっとそんなことを覚えて頂ければ嬉しいです」
  • この記事をポストする

立ち止まった時に自分を見つめなおす

2020/07/04
兄の後押しがあり東京でプロデビューする道に進んだ平松愛理。
そこで待っていたのは

「あのレコーディングすることになっていたんですけど、私の提出した曲を使ってもらえないんです。あ~あなたはね。詞の才能も曲の才能もないから、私が作ってあげなきゃいけないのよって言われて、すごく考えて、3歳の時から自分がずっと作ってきた音楽をこういう形でデビューという、、、こういう結果で、スタートしていいのかって、いうことにやっぱり疑問を感じて、で、駄目だと思ったんです。やっぱり、自分が今まで大切にしてきたもの。あのそれを、曲げてまでデビューするっていうのは、やっぱ違うって思ったんで。で、やめますって言って。一切合切やめて」

納得がいく形でのプロデビューを目指す平松愛理
考えたことは自分の音楽を見つめなおすこと。
     
「すごい勢いで曲作りました。最終的には、え~と、、、デビューすることになるポニーキャニオンっていうところに週2回、新曲を2曲持っていくっていうのを自分で決めました、一から打ち込んで詞を書いて、歌を入れて、持っていくわけですけども。片耳でイヤホンで聞いてるけど、片耳外して他のディレクターさんとしゃべってますからね。そういうのが半年ぐらい続いたのかな」

平松愛理は曲をアレンジして磨きをかけ続け
その結果、望み描いていたデビューの形をつかみ取る。


「あの~一番最初に持って行った曲を包み紙変えて持って行くことになったんですよ。全然違うアレンジにして、それがデビュー曲になっちゃったんですよ。その次に、ポニーキャニオンさん行った時に、全然口も聞いてくれなかったいろんな人たちが、急にすくっと立ち上がって握手してくれたんですよ」

プロアーティスト
平松愛理誕生の瞬間だった。
  • この記事をポストする

ミュージシャンの道を決断させた喝采

2020/06/27
平松愛理の音楽人生は
多くの人との触れ合いによって
出来上がっていった。

「3歳ぐらいの時、となりのよしお姉ちゃんがオルガンを買って、なんだこれって、タンスの途中から白と黒の歯が出てる物体に、そこ座ってごらんって言われて、よしお姉ちゃんがぱふぱふぱふって足踏みオルガンを押してくれて、ここ押してごらんって多分ファの音だったと思うんですけど、その音から私の人生が始まった」

さらには、家庭の中でも音楽が満ち溢れていた。

「兄は四つ年上なんですけど、ビートルズとか、カーペンターズとか、ミッシェルポルナレフとかなんかそこらへんを聞いてたんで、兄がギターを弾いて、私がピアノを弾いて一緒にカーペンターズを歌っていましたね」

小さな頃から音楽に触れてきた平松愛理。
中学では軽音楽クラブに加入。

「オリジナル曲を文化祭で披露した時に、すごい拍手をもらって、その瞬間に雷に打たれたように、
あ、私は一生、これでやっていきますって誓ったんです」

高校時代に「ワイプアウト」というガールズバンドを結成。
着実にミュージシャンのステップを踏んで行った。
あらゆるコンテストに率先的に出演。

プロ志向が強かった平松は神戸から東京へ行くことを決断。
反対する家族を説得してくれたのは小さなころから
一緒に音楽を楽しんできた兄だった。

「こんなに頑張ってるんだから一回挑戦させて行ったらいいやん。みたいなことを両親に言ってくれたんです」

そして、東京での挑戦が始まるのであった。
  • この記事をポストする
Page Top
|| 58 | 59 | 60 | 61 | 62 | 63 | 64 ||