NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest原由美子さん

原由美子さん

1970年『アンアン』創刊に参加。翻訳スタッフを経て1972年よりスタイリストの仕事を開始。以後『婦人公論』、『クロワッサンなど数多くのファッション紙に携わり、着物のスタイリングでも雑誌や新聞などの執筆、ファッションディレクターとしても活躍している。最新著書はCCCメディアハウス『原由美子の大人のゆかた きものはじめ』。

伝えて行きたい「和服」の魅力

2020/06/20
和服の魅力。
これもスタイリスト・原由美子が伝えて行きたいこと。

「洋服は好きだったけれど、着物って世界中で残っている民族衣装ってそんなに無いと思うんですね。その寒い時期、熱い時期あってそれ全部に一応対応する衣料になっているわけですよね。文様とかいろんなモノを見るとやっぱり、凄く面白いし、きれいだし、完成度高いし、これは絶対に無くしちゃいけないし」

和服への思い。
それを一冊の本にまとめた。
CCCメディアハウスから出版されている
『原由美子の大人のゆかた きものはじめ』。

「今の様に夏が熱くて長くなってきたら浴衣だけでもいいから着物を楽しめばいいんだって。昔は、着物は浴衣から始まって、ともかく袷まで行ってほしいと思っていたけれど、まずそれじゃなくて、浴衣だけでもまず皆さん楽しんでいただけたらなと、、、」

原由美子は洋服、和服の魅力を伝え続けている。
「ファッション」と「コミュニケーション」についても伺った。

「服の情報がありすぎるんだと思う。私は情報っていうよりも、もうちょっと外出て歩いてみたり、電車に乗っている時にも周りを見てほしい。昔は、言わなくてもあの人がああいうのを着ていたとかわかったけど、何も見ていないから、、、自分の周りの人とか街を歩いている人でも、いいなって思う人は居るはずなんだけど、それにも気が付いていない気がしています」
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洋服は生き生きと。

2020/06/13
1972年よりスタイリストの仕事をスタートした原由美子。
そのスタイリスト人生に影響を与えたのが「パリコレ」だ。

「73年にアンアンのファッションページもやるようになっていた時に、アメリカのロケに連れて行った秋川リサさんっていうモデルがパリコレクションの高田賢三のショーに出るから、原さんは彼女をしっかりパリまで送り届けなさい。この際パリコレクションっていうの取材して来いっていうことで、73年に初めてパリコレクションっていうのを見ました」

そこで見たものとは?

「あの自由に飛ぶように歩くみたいにしてやるショーで、日本で思っている洋服よりもなんかすっごくイキイキしていて、綺麗で美しくて、可愛くて、大人子供とかそういうの関係ないとか、なんか色々あって、こういうものをみんなに見てもらえる仕事だったらいいなみたいな、なんか、見続けたいって思ってしまったんです」

パリコレで感覚を磨き、ファッション情報を日本に届けてきた原由美子。
では、最近のファッションをどう考えているのでしょうか?

「あんまり考えない風にしているかも。ただ昔よりは本当に皆さんが、カジュアルでラフになっていることは確かですよね。80年代の少し前ぐらいまでは、着るものに対してそれぞれの中で気にしていらして、これでいいんだろうか?とか、ちょっとどう見られてるかなみたいに気にしてらっしゃる方は、すぐわかるみたいな。でも、今は全くある意味それないですよね?皆さんが、それぞれ自信を持っていて」

そんな原由美子が、
STAY HOMEでのファッションの楽しみ方を語った。

「人に会うんでもなくて、一番自分が好きな格好をこの時こそ色々試してみて欲しいけど。
別にそれはパーティードレスであっても。今は本当になんかなんでもサイクルが早くて、忙しくて、ご自分が普段着てる物も、これって本当にどう見えてるかみたいのを、外に出る前にとことん点検してるのかなみたいな感じられずに、そのまんま出てきたみたいな人結構いるような気がして、、、これだけ、その時間あるって言うんだったら、それといつもは仕事だからとかでもし躊躇しているような組み合わせががあるんなら、それは是非本当に着てみてとか、そういうことはやっていいと思うんだけど」
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夢中になることが原動力

2020/06/06
1970年に『アンアン』創刊に参加。
翻訳スタッフを経て1972年よりスタイリストの仕事を始める。
当時のことをこう語る

「今も残っているan・anなんですけど、その雑誌が日本では初めてフランスの週刊誌のELLEと提携していたんで、そのELLEという雑誌の材料をを整理できる人を探していたんです。で、知ってる方に紹介して頂いて採用してもらったんですね。ただ、編集部がまだ無くて、その頃の平凡出版は週刊平凡、月刊平凡あと平凡パンチっていう感じで、所謂女性誌は一冊も出してない会社だったんでです」

フランスから送られてくる資料整理。
「一人で生きて行ける何かを身に着けなさい」
母の教えが花開いた瞬間だった。
特技のフランス語で
資料整理から編集の仕事まで。
いつしかページを丸ごとまかされるようにもなった。

「当時の日本のファッションっていうのは、撮影のために作ってもらっていたの。だから、読者は有名な写真家が撮影した絶対買えない服を見ていたの、それだけに一般的な売れるっていう雑誌ではなかったの。で、49冊やってちょっと方向転換して、もう少しポピュラーな、ある意味今の雑誌に近い形になったんです」

誌面作りために読者が買える洋服をレンタルしてもらう。
スタイリスト・原由美子がその一歩を踏み出した瞬間だった。

「今だとちゃんとシステマティックになっているプレスルームみたいのがあって、洋服を貸していただけるけど、その頃は、お店行って、”あれを何月何日に出る雑誌で使いたいんですのでお願いですから、貸してください”っていう感じで、、、お願いして貸していただいたりしました」

そんな自分で築き上げた道だからこそ誇りを持っている

「私が最初の頃、こだわったのは雑誌のページのスタイリストですっていうこと、印刷物が好きだったんだと。紙媒体にこだわっていた。で、今のような時代紙媒体に元気がないとか、若い方達はほとんど雑誌見ない買わないっていう方も多いので、なんでそれにそんなに好きだったのかなって自分でも不思議になったり。でも、ある時期やっぱり、、、夢中になれたから良かったなと思いますけど」
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一人でも生きていける何かを身につける

2020/05/30
スタイリスト・原由美子が、
少女のころ服飾評論家の父親から影響を受けたこととは…。

「父の書斎にはイギリスの翻訳ものがたくさんあったんです。いっぱい読んでいたけど、いつしかフランスの翻訳を読むようになりました。高校までは何かの役に立つとかそういうことは全然考えないで勉強していたんですけど、私が通っていた中学校では、希望者はフランス語が習えたんです。大学受験もフランス語で受ける人少ないから受かる率高いと言われて…」

一方、母親からは高校・大学のころ、
こんなことを助言された。

【一人でも生きていける何かを身につける】

原由美子が導き出した答えは「フランス語」と向き合うことだった。

「フランス語もうちょっと徹底的にやらないとその何か生きるためのになるかどうかわかんないにしても今までやってきたんだからっていう思いで。ぎりぎりになってもう2年間、日仏学院の許可を得て月謝を出していただきあとは、地元・鎌倉で英文タイプを習いました」

そして、原由美子の運命は動き出す。

「マガジンハウス平凡出版が何か新しいフランス雑誌を出すけれど、それにあたってフランスの週刊誌と契約してるんでその材料を整理する人探してるから…」

一人でも生きて行ける何か。
身につけた「フランス語」が、
スタイリストという職業のカギとなったのであった。
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