NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest床嶋佳子さん

床嶋佳子さん

6歳からバレエをはじめ、13歳でヴァルナ国際バレエコンクール・ジュニアの部に出場。1986年に開催された第4回全日本バレエ・コンクールでシニア部門の第1位に輝く。1988年の日・米・露合作ミュージカル「12ヵ月のニーナ」で主役を務め、バレエリーナから女優へ転身。フジテレビドラマ「ヴァンサンカン・結婚」で女優デビュー、以降ドラマ、舞台、CM、映画など、幅広く活躍中。

足し算の幸福

2023/08/26
俳優・徳島佳子は40代後半から考え方が変わったという。

「年齢を重ねるということは若い時と同じようには無理が効かなくなってくるってことを自覚する年齢でもありますね。自分で学習しながらやりすぎないってことを意識しています」

そんな40代の日々を送っていると
50代で大きな分岐点を迎えることになる。
それはジムでの出会いで結婚に至る。

「仲間の方々が心配してくださって 主人の方を心配する方々と私の方を心配する方々が全部共通の知人だったんですね。それでどうですかっていう話でご縁があればぐらいの話をしていたんですよ。プールサイドで紹介されました」

付き合いが始まり結婚へ。
生活のリズムも変わって行った。

「今まで 一人で、特に私の職業は基本的に自分優先にさせる職業ですからそういう生き方をしてきた。それも人生55年。主人は12歳年上でそういう2人が一緒に暮らすわけですからそれはやっぱり色々とリズムは変わりましたね」

その一方で喜びも増えた。

「やっぱり食事を共に取るっていうのは素晴らしいものだなという風に思いますね。結婚してやっぱりいいなと思う時はいい景色を見て一緒に綺麗だねとか美味しいねって言われるって事はやっぱりあの間違いなく素晴らしいことだなと思いますね」

床嶋佳子が大切にしている言葉がある
「想像力 もしくは引き算の不幸ではなく、足し算の幸福」

「曽野綾子さんの『老いの才覚』っていう本があるんですけれども一生のバイブルみたいな感じで私1人暮らししてた時もそれか1人で生きていかなきゃと思った時に最初に読み始めたんですけども、この中にですね。引き算の不幸ではなくて足し算の幸福っていう言葉があって 分かりやすく言うと、コップの水でよく言われますよね コップの水で同じ水の分量なのに、もうこれしかないって発想するのとまだこんなにある だから出発点のスタートを低い位置に置けば後はこんなにも幸せなことがあるっていう風に足し算していくのとあーこれもできなかった。あれもできなかったって思うよりは、もうこれからの残された人生を明るく 主人とも過ごしていきたいのであれができなかった これができなかったって思うよりこれができる あれもやってみよう できなくてもいいやとかいう風に発送した方が自分も楽になるんです」

床嶋佳子からリスナーへのエール。

「あんまり頑張ろうと思わないで、なんとなく人生楽しもうって、気楽に構えてで頑張る時は頑張るけど頑張りすぎないで楽しく一歩一歩進めていけばいいんじゃないかなと思いますけど」
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戸惑いの時代

2023/08/19
初出演したミュージカルで演技の魅力に目覚めた床嶋佳子。
本格的に俳優に転向したのは27歳の時だった。

「すぐには決心がつかなかったけれども4年ぐらい クッションがあってもう自分の人生は俳優の方へ進めようという風に思ったっていう なんか けじめがついたっていう感じだったんですよね」

1991年「ヴァンサンカン・結婚」でテレビドラマ初出演。
撮影現場のことは今でも覚えているという。

「私の場合はずっとバレエをやっていましたので初めてのドラマがもう27歳でアパレル会社の副社長という大人の役だったんですね。それでその事務所みたいなところにカメラが360度あってバレエの場合は出てきたら正面に向かってポーズを今までしていたのに、360度あるカメラを見ないでくださいと言われ顔は固かったと思います もう実践でやって行ったっていう感じですね」

俳優としての思い出深い作品とは

ドラマ 鬼平犯科帳
「憧れていましたのでゲストで出られると聞いた時はもうやったって感じでしたし、京都の撮影所の冬でしたけれども 寒い時はみんなでこう 焚き火で温まりながら役者さん達と一緒に東映のセットにいられることが俳優 頑張ってきて良かったらという思いの作品ですね」

舞台 雪国
「私は演技という勉強をこれと言ってやらずにこの世界に入りまして、木村 光一さんという演出家がいらっしゃるんですけれども、その方が雪国の駒子の役を私にくださって、名だたる女優さんたちが憧れていて演出を受けたいとおっしゃるようなんですね。私にとっては演技の勉強の教室だったわけです」

ドラマ 警視庁捜査一課長
「あまりにも良妻賢母すぎてね スタジオでもこんな奥さんいるのかななんて思えるぐらい理想的な奥さんいないでしょうみたいな感じだったんですよ。最初はそんな疑問がありましたけどプロデューサーがいいんです。迷わないでください。突き進んでください。っておっしゃるので、じゃあそうさせていただきます。みたいな感じでやらせていただいてるうちに 私もしかしたら演技ってことはやっぱ頭で考えすぎていたかもしれないっていう なんかそういうところに小春さんから学んだことが多かったんです」

事前アンケートで「価値観にとらわれていた私を自分自身を知る機会になった」そう答える。

「やっぱりなんかとらわれていて、足し算しなきゃいけない こうしなきゃいけない 自分の体はカチッとしてるのにカチカチにがんじがらめになってたりした時もあったりして いや そういうことじゃないのかな なんか もっと 引き出していって自分がストーンとそこに行ってその中に この役であったりあの役であったりということがでいいのかもしれないなんていう気づきがありました」

床嶋佳子にとって20代とは

「あまりにもバレエに対する情熱が熱かったっていうかすごかったので、20代はちょうどこう変わる過渡期でしたから戸惑いの時代でしたね でも戸惑い でもありますけれども 新しく自分がいる世界の女優という世界がこう少し見えてきたところで不安と希望とこう入りましたような戸惑いの時代だったかもしれませんね」
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芝居の世界の奥深さ

2023/08/12
高校卒業後の床嶋佳子は
上京して名門の松山バレエ団に入団する。

「初めての一人暮らしです。その日々はレッスン レッスンです。ダンサーっていうのは、だいたい 朝の10時からバレエレッスンで、バーに 
掴まって基礎レッスン。これは子供であろうと大ベテランであろうともダンサーの現役時代は変わらないんです。だいたい30分からちょっと40分ぐらいやりまして 今度はフロアでバーから離れて自由に動いていく動きを、先生たちがこういう風にやりなさいってのあの真似しながらパーっと踊っていくっていうこれがもう組み合わせになっているんです」

みっちり1時間半
バレエレッスンとフロアを組み合わせたレッスンを毎日行う。
それには理由があった。

「有名な言葉がありましてね ダンサーは1日休むと自分に分かり2日休むと友人に分かり3日休むと観客にわかるって言われているんですよ 筋肉っていうのは本当になまけますから究極の動きをするためには毎日毎日やらないとダメなんです。だから ダンサーって付き合い悪いんですよ 要するに 休みがないんです たくさん食べれらないから食事 行きましょう、なんてことはあんまりないですから 本当にストイックな世界ですですね」


1986年に全日本バレエコンクールのシニアの部で1位を獲得、
文部大臣賞を受賞した。
実質、日本のバレエのトップとなった。

「本当にはっきり覚えています。予選決勝とありましてね、予選の課題曲、それから決勝の課題曲で自由の創作バレエみたいなものを踊るんですけど、技術と表現力と両方がうまくいかないと優勝はできないと思っていましたから、かけるような気持ちでやりましたね」

その後、床嶋佳子に転機が訪れる。
1988年 日本 アメリカ ロシ 合作のミュージカル「12ヶ月のニーナ」の主演に抜擢をされた。

「バレエミュージカル だったんですね それでバレエが踊れて歌が歌えて お芝居ができる人を探していたんですが なかなかそういう人がいないで、じゃあバレエダンサーに歌を教える方が少しは早いんじゃないかということで私に白羽の矢が立ちまして、私はバレエだけでしたから、お芝居もしたことない歌も歌ったことないという状況でしたから 大変でした」

「12ヶ月のニーナ」はバレエ一一筋で生きてきた床嶋佳子にとって刺激的であった。

「このミュージカルは日米合作の上に日本の演劇界 オペラ会バレエ会 ミュージカル 会 いろんな人が集まって この作品をやったんですね 。いろんなものの考え方があるんだなぁと思って、それこそ10歳でロシアに行った時の衝撃と同じぐらい カルチャーショックだったんですね 面白いものだなっていうのが 私の中にすごく印象として ありましたね」

床嶋佳子が芝居に魅せられた理由とは。

「解釈の仕方とかバレエの場合は、ふりを渡されて踊るんですけれども、この世界は台本っていうものがありまして、その本を読み込むという世界があるんですね。で、この文字面だけじゃないこの世界の奥があるわけで そこを理解してあの広げていくっていうことの面白さっていうものに目覚めました。このミュージカルとの出会いで俳優への世界って面白いかもしれないとこう思ったんです」
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一生の宝物

2023/08/05
床嶋佳子。
その生まれは福岡県の福岡。

「活発だった印象ですね 結構みんな運動神経が良かったのでバレエに没頭するまでは海に泳ぎに行ったりとかいろんなところに両親が山に連れて行ってくれて、好きやったりとかいろんなことしてましたね」

床嶋佳子がバレエに出会ったのは6歳の時だった。

「テレビで白鳥の湖をやっていたらしくて バレエやりたいって言ったらしいんですね。それで母もそういうことが好きだったみたいでじゃあ行きましょうってことで 習い始めましたね 小学校1年生の時に1時間かけて通っていました。日本舞踊とかピアノとか選びなさい みたいな感じでやらせてもらったんですよ。
バレエってもすごくお金かかりますしね。習い事っていうのはちょっと考え直してもいいんじゃないみたいな親戚からのアドバイスもあったんですけどもう私の心は揺るぎませんでしたね」

そして、そのバレエが人生の分岐点となった。

「10歳の時なんですけど、これが決定付けたっていうのがあるかもしれないんですよ。バレエって言うと当時のソ連ってバレエが本当に盛んで、ソ連でいろんなバレエを見たり美術館とか芸術に触れたんですね。飛行機から見る景色 空港の景色 芸術の世界っていうものにカルチャーショックで、バレエっていうものがこういうものだっていうことを肌で感じて帰ってきているので、その衝撃がやっぱ大きかったので、もう本当にそこからはもう人生 バレエ一直線でしたね。だから帰ってきてからの作文に私の一生の宝物っていう作文を書いてました」

こうして床嶋佳子は一生の宝物を得たのであった。
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