NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest岸谷香さん

岸谷香さん

1996年5月31日、武道館公演をもってプリンセス プリンセスを解散。1996年結婚。1997年奥居香ソロとしてシングル「ハッピーマン」を発売し、ソロ活動をスタートさせ、2001年子供を授かったことをきっかけに岸谷香に改名。その後13年間は育児を中心とする生活が続いた。2012年、東日本大震災復興支援の為、16年振りにプリンセス プリンセスを一年限定で再結成。2014 年ソロの活動を本格的に新たにスタートさせている。

心の底から音楽が好き

2021/04/03
夢中になった音楽活動。
結婚・出産を機に少しずつ音楽から離れていった。

再び音楽に向き合うことになったのは、
ミュージシャンならではの感性だった。

「ある時、私の中にドレミファソラシドが薄くなってきたな、なんかなくなってきちゃったなって感じた時があったんですね。これはちょっとまずいって何か思ったんですね。それでちょっとリハビリしようかなみたいなことを思ったのは子供たちが小学校とか上がった時ですね」

ミュージシャンの1日が日に日に増えて行き、
2011年復活遂げる。

「それまでプリプリって自分のために音楽やってきたけど、今は違うなって2011年の時は思って、最初だからライブ行ってその義援金を寄付しようって話で始まったんですけど、だんだん話がなんか発展してきて CD ベスト盤みたいなの出すかとか、ライブだから最初武道館がいいんじゃないなんて、一年間だけの活動のつもりだったんだけど、結局2012年紅白まで。紅白も初出場だったんですよ」

復活から紅白まで駆け抜けた2011年から2012年。
岸谷にとって特別なものだった。
そして、この時の活動で改めて気づいたことがある

「心のそこから音楽が好き」

「ある時ふと2012年すごく笑ってたな私って思ったんですよ。子供達と生活しててもちろん楽しいし、可笑しいし、笑うこといっぱいあるんだけど、音楽があったからだと思ったんですよね。私やっぱり音楽好きなんだなーって、なんかこものすごい客観的に思い知らされて。触れて、音楽が好きだってことに気が付かせてくれたってのはすごく私の中の宝物だったなと思いました」
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感情を形に

2021/03/27
プリンセスプリンセスはライブを大切に活動した。

「当時80年代っていうのは、世で言うバンドブームで、世の中にたくさんバンドがあって、小さなライブハウスから、下積み経験みたいなのして行ってたくさんライブやって、やっと会場が大きくなって、やっとヒット曲が生まれる、そういう流れが普通だったんですよね。プリンセスプリンセスになってからも本当にしばらくは何だろう地味なライブ活動やってました。」

ガールズバンド初となる日本武道館とは?

「たまたまた私達が最初でやっぱりいかにライブを何て言うの発展させるか、いかにいいライブをやるか、見た人がよかったまた見たいっていうライブをいかにやるかってことしか考えてなかったですね」

その日本武道館公演の直後に名曲「ダイヤモンド」が生まれた。

「ダイヤモンドは最初の週でベスト10位に入ったんですね。奇跡的に毎週毎週ちょっとずつランキングが上がって行ったんですよね。ありがたいことにそれで最後1位になっちゃって、私たちがビックリでどうしたんだって感じでしたけど」

プリンセスプリンセスの曲が生まれるのは、ふとした瞬間だ。

「ダイヤモンドとかは曲が先だったんですけど、当時のボーイフレンドのお家にお正月はの遊びに行って、お年玉いただいたんですよ。なんかめっちゃ嬉しくって、そしたらもう嬉しくってもうスキップって感じで、家に帰る途中に出てきたのがもダイヤモンドでもイントロからそのままずっと出てきたんです」

当時のメンバーが感情のままに作った
プリンセスプリンセスの楽曲。
今一度、お聴きになってみてては?
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リスタートは楽曲づくりから

2021/03/20
オーディションに合格し、
岸谷香はバンド生活をスタートさせた。
ところが、思い描いたものではなかった。

「予想に反してアイドルバンドだったんで、本当に箸にも棒にも引っかからなくて誰もそんな可愛くもないし、そんでなんか事務所もクビになっちゃったんですね。高校生が学校の宿題出されたの必死でこなすみたいな感じで、曲を覚えたり、練習したりしてたんで、そこから集まったのもご縁だから、もうちょっとだけやってみる?ってことになって。で、自分たちがやりたかったような形のバンドをやろうと。クビになったいうのが大きなチャンスだった。人生ってそう思うと最悪の事態ってめっちゃチャンスだなって思いますね」

事務所をクビになり、バンドメンバーで1から始めた楽曲作り。
5人でリスタートしたバンド活動は関係者の目にとまりはじめる。

「女の子五人っていうのは当時あんまりもう数えるほどしかいなかったので、まあ女子っていうのがちょっと珍しかったっていうのがあると思うんですけど、そこでちょっと見てくれるっていう事務所があったりとか、変わったバンドがいるぞみたいな感じで、ちょっと見てくださって、なんとか引っかかったみたいな感じだったんですね」

実際に自分たちで作った曲を演奏することで
今までとは違う感情が芽生え始めた。

「これ以上好きなものに出会わないだろうっていうような認識はありましたね。それはいつだったかわからないいけど、自分達はとっくの前からいいでしょプリプリって思っていたんだけど、誰もいいと言ってくれなかった時代からたくさんの人がいいって言ってくれて、ライブたくさん来てくださって、そんな時にこれ以上自分が自分でいられる場所はないだろうって言うなことは思いました」
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最大のピンチが最大のチャンス

2021/03/13
岸谷香。
音楽の出会い母親の影響であった。

「母の趣味でアップライトピアノが生まれた時から家にあったんですね。2歳とか3歳の頃、母にピアノ教えてもらって、そこから、街のピアノの先生みたいな所に通って少しクラシックをやりました」

小さな頃から当たり前のように音楽があった岸谷香。
初めてバンドを結成したのは中学生のときだった。

「中学行った時に先輩からバンドでキーボードを弾いてくれて誘われたんですよ。何月何日の放課後、音楽室においでくださいみたいな感じで、それがYMOのコピーバンドだったんですけど」

進学校で、勉強しなければならない。
ただ、気に谷は音楽にのめり込んだ。
その結果、、、

「あの受験とかその付属だったんで、初めて高校生になる時に受験を経験して、なんかなんとかなんじゃないかなって甘くて、それで本当に高校受験失敗に終わってしまって、一応、幸い行くところはあったんですけど、家中、暗い雰囲気で、、、そんな中、おじさんが、いいじゃないか一校合格したらおめでとうじゃないか、お祝い買ってやるぞって言われて、ベースを買ってもらいました」

1年間友達とバンドをやりながら学校には通った。
すると1年生の終わりオーディションの募集要項みたいなポスターを見つけた。
チャンスと思位トライする。

高校生のノリで受けたのが、後にプリプリになる赤坂小町という
バンドの募集オーディションだった。

「今思うと人生で最高の最大の失敗がやっぱり、一番のチャンスだったっていうのは身をもって体験したなと思ってます」
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