NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest渡辺真起子さん

渡辺真起子さん

1986年よりモデルとして活動を始め、CM、雑誌、ファッションショーなどに出演。1988年、『バカヤロー!私、怒ってます』で映画デビュー。女優として『2/DUO』、『M/OTHER』、『殯の森』、『チチを撮りに』など多くの映画に出演し、数々の映画賞を受賞。その一方で国内外の映画祭で審査員をつとめるなど幅広い分野で活躍している。

演じる役割と観る役割

2019/10/05
モデル、女優として活躍する渡辺真起子さん。
数々の映画賞を受賞する一方で、
最近は国内外の映画祭で審査員を務められています。

前回は19歳でニューヨークに訪れ
世界というフィールドで自分に置かれた立ち位置を確認。
そんなお話を伺いました。

日本に戻り一から出直すことになった渡辺さん、
しかし、決して順風満帆ではありませんでした。

「自分がやりたいテイストの作品と、自分のスキル。うまくいかなくて暗黒時代に入っていくんです。あんなにやりたいやりたいって言って生きてきたのに才能ないかも…と。そんな中、バナナチップスラブっていうテレビドラマのオーディションがきたんです。それがニューヨークを舞台にしたドラマだったので、オーディションを受けて採用されました。大きな分岐点ですよね」。

芸能界に反対していたご両親の変化についても伺いました。

「海外の映画祭に招待されて大きな賞とっていただいたりとかしたときにはとても喜んでくれてましたね。母が少し亡くなる前に蜷川幸雄さんの大きな舞台が入っていて、最後の舞台あいさつカーテンコールのみたいなところで、真っ赤な花びらを演目にあわせて蜷川さんが降らしてくれたんですけど、とても誇らしげに立っている娘の姿がいるっているって泣いてくれましたね。父に関しても、2回目のカンヌのときには、河瀬直美さんの「殯の森」という映画で、グランプリをとるんですけど、少しうれしそうにしていました」

いまや、日本を代表する女優の1人として活躍されている渡辺さん。
その活動の一方で、映画祭の審査員としての目もお持ちです。

「審査をやろうか最初は迷いました。その作品の方の運命が、もしかしたら決まっちゃうかもしれない。、私やっていいのかな?と思ってたんですけど、どういう人たちが推薦してくれてるかっていうのを知ったことで、がんばらなきゃいけいなって思ったのと、あとは女優が席を持っているというのは大事だなことかもしれない。みんな出ることばかりに一生懸命になるけど、そうではなくて、他の人の作品もちゃんと見るようになるし、映画にかかわる役職として、誰かがやってたら、そのあとも続いてくれるんじゃないかな?という思いもあって」

お芝居が大好きな渡辺さん
渡辺さんにとって演じるってどういうことなのでしょうか?

「演じるって言うこと自体は、演技をするって言う事は物語を正確に伝えること、その情報を把握して確実に伝えることってのが仕事だと思うんですけれど、演技と言うことで考えると、お母さんが家の電話で声色を変えること。あれがお芝居の入り口にあって面白いなって。お医者さんはお医者さんらしく喋るとか。学校の先生は学校の先生のように喋るとか、お父さんはお父さんのように振る舞うとかすることがすごく面白いなと思って。演技の中でうまく繋がったらいいなと思っているんですけど。それがいいとか悪いとか正しいとか正しくないじゃなくて私はそれが一番面白いなーって思います」
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世界で知った自分の立ち居地

2019/09/28
18歳のとき、お芝居をするために飛び込んだモデルの世界。
2年後…ついにその時がやってきます。
映画「バカヤロー!〜私、怒ってます」でお芝居の世界に復帰。
メガホンを取ったのは中島哲也監督でした。

「”告白”とか”パコと魔法の絵本”などの大作を撮られていて。中島さんが演出されたコマーシャルで何本かご一緒させていただいたその流れで声をかけてもらいました。製作総指揮は森田芳光さん。よーし!お芝居するぞ!と意気込んだんですけど、あ、お芝居しなくていいから!って、私はどういうことなの?と、、、上手じゃないのに上手にやろうとしても面白くないでしょうって言うことだったんだと思うんです」

ただ…モデルの世界、そして思い描いていた自分の居場所、お芝居。
そこに加えて、渡辺さんに新たなステージが生まれました。

「19歳で初めて海外に旅行に行ったんです。初めてのニューヨーク。生まれて初めて親との離れたお友達の旅行で。初めての海外で、卒業旅行みたいな感じですね。。すごく衝撃的で世界って広いんだな!と素直に目からウロコが落ちた。次の年に私は1人で行く!って決めたんですね」。

19歳で訪れたニューヨーク。
世界というフィールドで渡辺さんが学んだこととは?

「厳しさにうなだれていました。英語もきちんとしゃべらなかっしゃべれないですしコミュニケーションも上手じゃない。あの頃は部屋で泣いてました。何もできず、電車もまともに乗れない、アナウンスを聞き取れない。で、結構くたびれ果てました。その街で暮らしながら街の人たちの表現をみてて、私がやってみたいお芝居って、もしかしたらこの人たちの身体言語とは違うかもしれないって思って、これはもしかして日本に帰って日本の人たちとやったほうが、自分の好きなものが、もうちょっと明確になるかもしれないなって。考えたんですね」

ニューヨークで見つけたのは
【自分の立ち居地】。

渡辺真起子さんの女優としての道は
ここから明確になって行ったのでした。

自分の居場所。自分の立ち居地。
様々な経験を通して自分の存在を磐石な物にして行くライフストーリー。
今に通じる渡辺さんの自信に満ち溢れた演技は、
こうした道を辿ってきたからこそのものなのでしょう。
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自分がそこに居たいという意思表示

2019/09/21
女優・渡辺真起子さんのライフストーリー。
高校に進学をするも、そこには演劇部がなく、
お芝居が大好きな渡辺さんがとった行動とは?

「町に出よう!いろんな人に出会って、ある意味遊んでいました。その一方で、オタクなので本屋さんとかに言ってタレント名鑑とかを買って、好きな女優さんとかが文学座に居たとか色んなことを調べ始めるんです。で、映画をいっぱい見たりだとか、ビデオレンタルが始まったころだったので、そのビデオを見たりしていました。遊びながらもたくさんの作品に触れていましたね。特にホラーブームだったのでホラー映画をかたっぱしから見ました。バスケットケースとかチャイルドプレイとかをとにかく見ていた。自分が憧れた作品は転校生とか、自分の同世代が見ていた作品を見ました。相米慎二監督の台風クラブとかも。見て…なんであの時、親をもっと説得できなかったのかと思いました。そういうストックを高校生の時にしていました。とにかく見た。お芝居をしたいという思いが募り、友達がモデルをしていて…そういう仕事があるんだ…とモデルの世界に飛び込んで行った。」

お芝居をしたいけど出来ない。
そんな中、出会ったのが「モデル」という職業でした。
なぜ、モデルという道を選んだのでしょうか?

「事務所に所属したのは18歳。知り合いのお姉さんが出版社につとめていて紹介されました。表に出ることは、すごくチャンスがあるかもと思いました。雑誌社とかに写真も送りましたね。無断に原宿をうろうろしてみたりとかも。運が良いことにラフォーレ原宿の前をあるいていたら、プチセブンのモデルをやりませんか?とスカウトされたんです。こういったことが高校生の時期に同時にたくさん起こっていた感じです。モデルをしていて、自分で信用を得るということを学びました。そして、自分自身を見せてゆくということを学びました。人に見られている自分を自覚するようになりましたね。バブルの時代だったのでオーディションもたくさんあったし、コマーシャルにも出演させてもらいました。」

お芝居、モデルという自分の居場所を見つけた渡辺さん。
リスナーのみなさんに自分の居場所を見つけるためにヒントを頂きました。

「そこに居たいという意思表示をする、口に出すのは恥ずかしいかもしれませんが思うことはできるはず」
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自主的に活動することで見つけた自分の居場所。

2019/09/14
数々の作品に出演する渡辺真起子さん。
演劇との出会いとは?

「小学校の時に、課外授業の演劇クラブに入ったんですけど、先生もお芝居未経験者。誰かに指導をされるというのではなく、みんなで何かを探して行くというような雰囲気になり、それがすごく楽しかったんです。そこからもう少し人を増やしてみよう。本当にお芝居をやってみよう、となったのが小学校高学年になってから。その時、楽しいことを仕事にした方がいいんじゃないかなと考えるようになりました。どんどん部員も増えて行き、最終的には学校の方から、節分の時期に何か演目をやってくれないかということになって、豆まきの物語を勝手につくって、衣装、演出、照明など全部手作りでやりましたね」

小学校時代に自分の居場所を見つけた渡辺さん。
中学高に入ると別のお芝居の現実が待っていました。

「中学時代のいわゆる演劇部にはあまりなじめなかったんです。なので…ちょっと嫌だなって思ってしまったんです。だから小学校時代と同じ演劇クラブというようなところに所属しつつ、スポーツの部活動に所属しました。そんな中、新聞か週刊誌で相米慎二監督の「ションベンライダー」のヒロインオーディション告知を見つけたんですけど、親の承諾を得られず断線することに。その後、出来上がったものを見た時、おしkして自分があそこに…と、挑戦できなかったことを激しく後悔しました。親を説得するって本当に厳しいものかと思いましたね」
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