岩崎恭子さんが改めて語るバルセロナ五輪(2016/07/23 放送)
今週は、岩崎恭子さんをお迎えしました。
岩崎さんと言えば、1992年のバルセロナ・オリンピック。平泳ぎの200メートルで優勝し、「今まで生きてきた中で一番幸せです」という名言も生まれました。あれはちょうど14才になった6日後のことだったそうで、競泳史上最年少の金メダリストに。現在、岩崎さんには5才の娘さんがいるそうで、「今思うと、14才だったんだ。凄いな私って(笑)」「(当時も)もちろん凄いこともわかってたんですけど、今はまた違うように…母親目線で自分を見てしまったりとか(笑)」とおっしゃっていました。
岩崎さんと言えば、1992年のバルセロナ・オリンピック。平泳ぎの200メートルで優勝し、「今まで生きてきた中で一番幸せです」という名言も生まれました。あれはちょうど14才になった6日後のことだったそうで、競泳史上最年少の金メダリストに。現在、岩崎さんには5才の娘さんがいるそうで、「今思うと、14才だったんだ。凄いな私って(笑)」「(当時も)もちろん凄いこともわかってたんですけど、今はまた違うように…母親目線で自分を見てしまったりとか(笑)」とおっしゃっていました。
そして当時を振り返って、「(金メダルを獲ったという)実感はですね…徐々に徐々にですね」と岩崎さん。「達成感とかはまったくないですよね。やっぱりまだ14才ですので。とにかくビックリしたっていうのと、メダル獲るとこんなに忙しいんだ、とか。ふっとこう落ち着いてメダルを見るとかっていうこともそんなになく、という感じでしたので」と話してくれました。
競泳のオリンピック選考会は一発勝負。「やっぱりそこに合わせられなければオリンピックも調整できないだろうっていう考えなんですよね」。当時はまだ「派遣標準記録」というものはなかったそうで、92年はずっと上り調子だったという岩崎さんは選考会で2位になり、水泳連盟の中の会議で代表に選ばれたそうです。
岩崎さんのお姉さんも平泳ぎをやっていて、バルセロナの前年にインターハイで優勝した有望な選手だったそう。しかし、姉妹揃って泳いだオリンピック選考会でお姉さんは4位に…。「泣いて帰ったって言ってました」「今でもセンスは姉の方が良いとは思うんですけど」と岩崎さん。年齢的なこともあって、ご両親はお姉さんがバルセロナに行けなかったことがショックだったそうで、「姉がバルセロナに行って、アトランタに恭子が行ってくれたら嬉しかった」といったことを話していたとか。
バルセロナ・オリンピックの時は「当時の中では一番緊張していた」という岩崎さん。しかし、後から振り返ると「バルセロナの時って、なんであんな純粋に泳ぐことを一生懸命やろうとか、泳ぐことだけに集中できたんだろう?」と思うそうです。
しかし、18才で迎えた4年後のアトランタ五輪は、欲が出てくる一方で不安もあり、「とにかく泳ぐのが怖かった」とか。「経験すると怖さも生まれるんだって思ったりとか。いろんなことを考えられる年齢になったっていうのは思いましたね」「アトランタで泳ぎ終わった時に感じたのは、連覇する人とかどんな気持ちなんだろう?どんだけ凄いんだろう?って。それを一番に思いました」とおっしゃっていました。
岩崎さんの故郷・静岡県沼津市では、公立の小中学校に必ずプールがあるそうで、小学校に入った時に「泳げないよりは泳げた方がいいだろう」ぐらいの感じで水泳を始めたそうです。10才の時に出場したジュニア・オリンピックでは決勝には残れるぐらいの成績で、「全国には速い選手がいっぱいいるなぁ」と思ったとか。
「環境だったと思うんです。人間成長できる時期ってあるじゃないですか。人それぞれ違うじゃないですか。それがピッタリはまったのが中学2年生のバルセロナだったかぁっていうのは思いますね」
来週も引き続き、岩崎恭子さんをお迎えします。お楽しみに!