恵俊彰さんのチャレンジストーリーとは?(2022/03/19 放送)
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2015年にスタートし、180人あまりのゲストの方々に挑戦について伺ってきたこの番組ですが、4月からは番組をリニューアル。恵俊彰さんが引き続きパーソナリティーを務めます。そして今回は、その恵さんご本人が、TOKYO FMの村田睦アナウンサーを聞き手に迎えてご自身のチャレンジストーリーを語ってくれました。
前回の東京オリンピックの年、1964年12月21日に鹿児島市で生まれた恵さん。実家は、伝統工芸である“大島紬”の会社を経営しています。
前回の東京オリンピックの年、1964年12月21日に鹿児島市で生まれた恵さん。実家は、伝統工芸である“大島紬”の会社を経営しています。
「イメージでいいますと『下町ロケット』的な。ああいう感じです。中小企業という。40人ぐらいですかね、会社の方がいらっしゃって、工場 兼 自宅みたいなものだったもんですから」。
「大島紬というのはですね、いくつもの種類のプロが必要なんですよ。染めたり、図案描いたり、織ったり、っていうことなんですけど、そこの職人さんたちがいっぱいいて。で、昼間はおふくろが職人さんたちのためにご飯を作って。女子の工員の方もお手伝いしてご飯作ってくれたりとか」。
「家族としては、お姉ちゃんが一人いて4人家族なんですけど、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんもいましたんで、そこに会社の方がいると、家の中というか敷地の中にホントにいろんな人たちがいっぱいウロウロしてるっていう」。
恵さんは、子供の頃についてこんなこともおっしゃっていました。
「大島紬というのは、今や産業というよりは伝統工芸品ということなんですけど、僕が育ってる頃はそうではなくて、しっかりした産業で。とても売れていた着物が紬だと思うんですけど。だから、なんとなく、ですよ。なんとなくそこに生まれてるんで、後継ぐのかな?みたいな空気もありつつ…」。
「父親はまったく子供に興味がない、典型的な昭和の。家には帰ってこない。で、大家族ですから、お祖父ちゃんがいて、お祖母ちゃんがいて。で、お祖父ちゃんはもう豚肉料理しか食べない、お祖母ちゃんは魚料理しか食べない。で、(母が)子供のご飯作る。その残りのおかずを自分がかきこんでる、みたいな。で、昼間は、職人のみなさん全員のご飯を作ったりとか。だから大変な母親を見ていたんですけど」。
小学校4年生の時には、アメリカに2週間ホームステイに行った経験があるという恵さん。「そういうのに親が行かせるような家庭だったんですよ。大きく育て!みたいな」。鹿児島大学の付属小学校を卒業した後は、附属中学校には進まずに別の中学に行ったそうです。
「中学校がラ・サールを受験して。落ちたら鹿児島大学の附属中学校には行けないんですよ。他校を受ける人はもう行っちゃダメよって。だから行けなくて。で、地元の子供たちが通うとこに行くわけじゃないですか。そうすると、中学校は友達が誰もいないわけですよ」。
「一人も友達いない中でどうしよう?みたいな感じだったんですけど、自分なりに仕掛けて笑いを取りにいくような、目立つようなことをいっぱいやってですね。手を上げてギャグ言う、みたいなこととか、なんかそういうことをいっぱいやって。で、なんか、あいつ目立ってんな、みたいな。で、なんとなく友達をジワリジワリと…だから中学校1年生からすごい楽しくて」
「で、なんとなくその流れの中で高校を選んで。友達がいっぱい出来たので、いっぱい仲のいい友達が行く(学校を)。ホントに高校時代も楽しくてですね」「そこで出来た友達もいまだにお付き合いずっとしてるんですけど」。
「ホントめちゃくちゃ勉強が厳しい学校だったんですけど、土曜日まで8時間授業みたいな。その合間を縫ってホントに遊び回って。で、とにかく運動会があったら運動会応援団に入って。応援団といいながら、なんかネタ作ってギャグやる、みたいな」。
「で、文化祭があると今度はバンドですよね。ベースができて、ドラムもできて、ギターもできて…みたいなヤツがバンマスになって。そいつが振り分けていくんですけど、学校でいちおう目立ってたから、お前来ると盛り上がるからって言われて。で、ドラムで入れてもらって。(ドラムを)叩いてたっていうか、その時だけですよ」。
実は、その時に恵さんがドラムを叩いた貴重な音源が残っていたそうで、今回の番組で少し流すことができました。
「今年の1月の7日だったっけな。友達が送ってくれたんですけど、もうホントに俺たちの青春の1ページ。田中くんっていう、今でも仲のいい大親友から送っていただいて」
「その時、玉川くんっていうギタリストがいて。吉松だったかな、ベース…こいつがまぁだいたいなんでもできるヤツなんですけど…と僕なんですけど。で、その玉川くんのお兄さんが大学生で、鹿児島大学の。要するにアパートを借りていて。で、玉川くんのお兄さんちでみんなたまってたんですよ」。
「いろんな問題は、玉川くんのお兄さんちのコタツの上にみんないったん預けて。で、みんなで、これがいいんじゃない?とか、ああした方がいいんじゃない?とか言いながら生きてましたね」。
恵さんが通っていた高校は、鹿児島で有数の進学校だったそうです。
「500人いたら500人、当然、大学に行くという学校でした。おそらく3分の2ぐらいは、地元の鹿児島大学、国立大学に行く。100人ぐらいが九州大学に行く。で、残りで、東京の大学とか、それぞれ全国の大学に行く、みたいな。そんな学校だったんですけど」
「当然、大学には行きたいんだけど、その頃になりますと、もう時は1980年代なんです。そうすると、お笑いブームみたいなのが起きてまして」
「そういう時に漠然と、たけしさんのオールナイトニッポン聞いたりとか、タモリさんのオールナイト聞いたりとか。もちろん毎日のように面白かった。所さんのオールナイト、中島みゆきさん、みんな聞いてましたけど、なんか東京行きたいわけですよ、やっぱり。とにかく東京だと、都だと」
「あそこに出ていかないと人生が始まらないんだ!ということで、大学受験を受かりもしない成績なのに、東京の大学に行きたい。で、親も、目指してるのであれば東京の大学を受けよ、と言って。で、現役の時には全滅して。卒業式の日に、駿台予備校という予備校の試験を受けに行って」。
そして、東京で浪人生活を過ごすことになった恵さんですが…
「親は期待して送り出したと思いますし。ところが、東京行っちゃったらダメですよね、僕みたいなタイプは」
「当時住んでいた京王線のある駅から御茶ノ水の駿台予備校に行くまでに、新宿で降りて。新宿でもうダメですよ。キョロキョロ…新宿ってアルタがあるんだよなぁと思って、毎日ここからタモリさんのハッピーアワー(笑っていいとも!)がお届けされてんだなぁと思うとちょっと歩いてみたり。まぁ、自分の中で“社会科見学”と呼びながらですけど。もう全然ダメ。勉強なんかとてもじゃないけどっていう感じでしたね」。
そんな恵さんの浪人生活は、数年間続いたんだとか。
「1年目ダメ、2年目ダメ。で、また2年目、代ゼミだなんだ受けて。予備校だけは受かってたんですよね」。
今回、恵さんの口から何度も出てきたのが、「不安はなかった」という言葉でした。
「なんかね、時代がすごくて。1980年代って、日本がアメリカの映画会社買ったりとか。だからもう迷いがないんですよ」
「で、僕らの頃に生まれたのが、フリーターとかいう言葉で。アルバイトの方が正社員よりも金が稼げる、みたいな感じもあったりなんかしてて。なんか不安がなかったんですね、たぶん。2浪してる、3浪してる、みたいなことでも全然、不安がなくて」
「でも、親は当然焦りますし、同級生たちも今度はもう大学を卒業するみたいなタイミングになってきた時に、そうだ、俺そもそもそうなんだよな、と思って。その、お笑いというかテレビ出たいんだよねっていうのがあったから東京行きたかったんだよなと」。
「で、友達が声かけてくるんですよ。あそこのオーディション受けにいかない?とか、劇団行ってみない?とか」
「今でこそ、お笑いって学校で。渡辺プロダクションも学校作っておりますし、吉本興業さんにもありますし、みんなそうなんですけど、当時なんかそんなん全然ないんで」
「オーディションはあったんですね。養成所みたいなところが。プロダクションが作っている。で、お金取りませんよ、みたいなのがあったんで、そこを友達と一緒にネタ作って受けて。そうすると引っかかったんで」
「それで、親にすいませんと。大学行くつって勉強ということでしたが、一切しておりませんと。で、実は夢がありまして、テレビとか出てみたいんだと。で、そういうオーディションに受かったので1年間通わせてくれ、みたいな」。
「もうだから家族会議。こういうことやりたい、つったら、そんなの上手くいくわけねぇ。今までずっと勉強するつって勉強もしてねえし。そんなの上手くいくわけなんかねぇんだ!って言って、親父はもうダメ!ですよね」。
そこから、恵さんは芸能界での挑戦に移っていきます。
「カッコよく言うとそういうことになりますよね。もうそこしかなかったんですけど、逃げ場所だったんですけどね」。
渡辺プロダクションに入っても不安定な日々だったそうですが、それでもやはり不安はなかったとか。
「これね、その時代を生きた人ならどこかわかると思うんですけど、就職することがすごいとかじゃなかったんですよ。就職することがむしろ“墓場”的な」「とっても日本中がウキウキしてたんですよ。“ウキウキウォッチング”だったんですよ。だから周り見てもなんの不安もないんですよ」
「今で思うような、3浪4浪でもう終わりだ人生、みたいな社会背景ではなかったっていうのは、まず一つ。それでも絶対売れるなんて保証はまったくないので、そこは不安になっていいとこじゃないですか。でも、これはね、楽しさが勝ってた、っていう言い方の方がいいと思うんですけど、毎日楽しかったんですよ。ネタ作って事務所行ったり、なんか営業やったり。楽しかったんですよ」
「だけど、同級生とか同期で入った先輩…年齢は上だったりするんですけど、やっぱり25ぐらいでみんな辞めていくんですよ。これが就職最後のラインだからって言って。大学を出てお笑い目指してた人とかね、自分より年齢上の人たちはみんなそこで辞めてってましたね」。
でも、そんな人たちを見ても、恵さんは就職を考えなかったんだとか。
「まったく考えないというか、不安じゃなかったんです。不思議なんですけど」。
来週も引き続き、恵俊彰さんのチャレンジストーリーをお送りします!