ファンキー加藤さんが語るソロ活動という挑戦(2016/05/28 放送)
今週は、ファンキー加藤さんをお迎えしました。
加藤さんが音楽に目覚めたのは、グループ・サウンズ世代で昔バンドを組んでいたというお父様の影響が大きかったそう。家の中にはいつも音楽が流れ、当たり前のようにギターが置いてあるという環境で、加藤さんはお父様にギターを教えてもらったとおっしゃっていました。
そして、中学校2年生の時に同級生とBOOWYのコピー・バンドを始めた加藤さん。当時のことを「その頃、BOOWYは解散してたんですけど、まだその余熱というか余韻が凄くあって、バンドやるんだったらユニコーンかブルーハーツかBOOWYかみたいなそういう時代でした。中でも僕はBOOWYが好きだったんで」と話してくれました。
ブルーハーツには歌詞に励まされ、BOOWYには理屈を超えたカッコよさを感じたという加藤さん。FUNKY MONKEY BABYSで初めて武道館ライブを行った時、加藤さんはボウイ時代の氷室京介さんが言った名MC「ライブハウス武道館へようこそ!」を引用したんだとか。
何かを好きになると、見る側ではなくやる側に行きたくなるという加藤さんは、こんなことをおっしゃっていました。
「僕、昔からそうで、小学校の時、マンガが好きになった時に見る側じゃなくて書く側になるって。で、中学の時、僕、音楽と同時にプロレスも大好きで、プロレスも結局、見る側じゃなくてやる側になる、つって、毎日、腕立て伏せ100回と腹筋100回、スクワット200回とか、もう徹底的にやりこんじゃう人なんですよ。中学校の時は、昼はバンドの練習して、夜は筋トレやっていう、ずっと突き詰めていったら長渕剛さんにたどり着くような(笑)そんな日々を過ごしてましたね」
音楽に関してジャンルで区分けすることはなく、昔から雑食だったという加藤さん。FUNKY MONKEY BABYSを始めた時は「ちゃんとお茶の間で流せる、いわゆる“お茶の間ミュージック”をやっていこう。世代、年齢、性別を問わない音楽」と話していたとか。「それをわかりやすくいうとJ-POPというものになるのかもしれないですけどね」
また、加藤さんはライブについてこんなことを話してくれました。「僕は、ライブをしてる時が一番生きているということを実感できる瞬間ですかね。あれに勝るものはないですよね。興奮、感動、熱狂…自分が自分じゃなくなるというか、本当の意味でファンキー加藤のスイッチが入る瞬間っていうのもライブの時しかないですよね」「怖さもあります。怖さはライブ前まであります。ステージに上がっちゃえば、もう喜びと興奮とっていう…楽しいだけですね」
そんなファンキー加藤さんを始めとするFUNKY MONKEY BABYSのメンバー3人は東京都の八王子市出身ですが、加藤さんは地元についてこんなことを話してくれました。
「八王子市民はですね、不思議なものであんまり東京都民としての自覚持ってないんですよね。ただ、23区の人に、八王子って…みたいな感じで言われるとそれはそれで腹立つんですよ。凄く地元愛が強くて、だけど東京の色には染まらねえぞ、みたいな、そういう反抗心も持ってます。東京都なのに。都民としての自覚ないんで。例えば、新宿とか渋谷に遊びに行く時には、都内に遊びに行く、みたいな言い方するんですよ」
しかし、加藤さんによると、最近の八王子は元気がないんだとか。「大学の街なんで若者は多いはずなんですけど、八王子で遊ばないんですよ。みんな横浜に行ったり、立川、町田…」。加藤さんも昔は横浜のクラブによく行っていたそうで、恵さんに「ホントは八王子イヤなんじゃないんですか?」とツッコまれると、「ヤだってことは…元々、観光大使ですよ!北島三郎さんと一緒に高尾山で豆まいたんですから!」と返していました。
加藤さんが音楽に目覚めたのは、グループ・サウンズ世代で昔バンドを組んでいたというお父様の影響が大きかったそう。家の中にはいつも音楽が流れ、当たり前のようにギターが置いてあるという環境で、加藤さんはお父様にギターを教えてもらったとおっしゃっていました。
そして、中学校2年生の時に同級生とBOOWYのコピー・バンドを始めた加藤さん。当時のことを「その頃、BOOWYは解散してたんですけど、まだその余熱というか余韻が凄くあって、バンドやるんだったらユニコーンかブルーハーツかBOOWYかみたいなそういう時代でした。中でも僕はBOOWYが好きだったんで」と話してくれました。
ブルーハーツには歌詞に励まされ、BOOWYには理屈を超えたカッコよさを感じたという加藤さん。FUNKY MONKEY BABYSで初めて武道館ライブを行った時、加藤さんはボウイ時代の氷室京介さんが言った名MC「ライブハウス武道館へようこそ!」を引用したんだとか。
何かを好きになると、見る側ではなくやる側に行きたくなるという加藤さんは、こんなことをおっしゃっていました。
「僕、昔からそうで、小学校の時、マンガが好きになった時に見る側じゃなくて書く側になるって。で、中学の時、僕、音楽と同時にプロレスも大好きで、プロレスも結局、見る側じゃなくてやる側になる、つって、毎日、腕立て伏せ100回と腹筋100回、スクワット200回とか、もう徹底的にやりこんじゃう人なんですよ。中学校の時は、昼はバンドの練習して、夜は筋トレやっていう、ずっと突き詰めていったら長渕剛さんにたどり着くような(笑)そんな日々を過ごしてましたね」
音楽に関してジャンルで区分けすることはなく、昔から雑食だったという加藤さん。FUNKY MONKEY BABYSを始めた時は「ちゃんとお茶の間で流せる、いわゆる“お茶の間ミュージック”をやっていこう。世代、年齢、性別を問わない音楽」と話していたとか。「それをわかりやすくいうとJ-POPというものになるのかもしれないですけどね」
また、加藤さんはライブについてこんなことを話してくれました。「僕は、ライブをしてる時が一番生きているということを実感できる瞬間ですかね。あれに勝るものはないですよね。興奮、感動、熱狂…自分が自分じゃなくなるというか、本当の意味でファンキー加藤のスイッチが入る瞬間っていうのもライブの時しかないですよね」「怖さもあります。怖さはライブ前まであります。ステージに上がっちゃえば、もう喜びと興奮とっていう…楽しいだけですね」
そんなファンキー加藤さんを始めとするFUNKY MONKEY BABYSのメンバー3人は東京都の八王子市出身ですが、加藤さんは地元についてこんなことを話してくれました。
「八王子市民はですね、不思議なものであんまり東京都民としての自覚持ってないんですよね。ただ、23区の人に、八王子って…みたいな感じで言われるとそれはそれで腹立つんですよ。凄く地元愛が強くて、だけど東京の色には染まらねえぞ、みたいな、そういう反抗心も持ってます。東京都なのに。都民としての自覚ないんで。例えば、新宿とか渋谷に遊びに行く時には、都内に遊びに行く、みたいな言い方するんですよ」
しかし、加藤さんによると、最近の八王子は元気がないんだとか。「大学の街なんで若者は多いはずなんですけど、八王子で遊ばないんですよ。みんな横浜に行ったり、立川、町田…」。加藤さんも昔は横浜のクラブによく行っていたそうで、恵さんに「ホントは八王子イヤなんじゃないんですか?」とツッコまれると、「ヤだってことは…元々、観光大使ですよ!北島三郎さんと一緒に高尾山で豆まいたんですから!」と返していました。
FUNKY MONKEY BABYSは、八王子のお寺の長男であるDJケミカルさんが実家を継ぐということで2013年に解散。ファンキー加藤さんはソロ・アーティストしての活動をスタートさせます。
「いつかお寺を継ぐっていうのはみんな心のどっかで抱えていたままの活動だったので、ま、10年だし、最後に東京ドームっていうなかなか取りづらい会場が押さえられたので、じゃ、ここをファンモンとしてのゴールテープにしようか、っていうことで解散させて頂きました」
ソロ活動という新たなチャレンジ…10年間3人で活動していたので、最初は3分の1からのスタートという意識で不安もあったそうです。
「自分の手の中にあるものは音楽しかなかったんで。ま、ラストチャンスじゃないですけど、最後にもう一度歌ってみたいなっていう気持ちはありましたね。解散した日から凄く不安になっちゃったんですよ。自分が何者でもない自分になっちゃったことが。だから、何も決まってない状態で、もう勇み足なんですけど、ソロデビューします!つって宣言してみたりとか。とにかく有言実行じゃないけど、先に言い続けて…そんなソロ活動の始まりでしたね」
FUNKY MONKEY BABYSはデビュー当時、テレビにも出られない、宣伝費も少ないという状況の中、全国のCDショップを100店舗近く回ってインストア・ライブを行い、CDを手売りしていたそう。そして、グループが解散してソロ活動を始めるにあたり、原点回帰ということで、加藤さんは再びインストア・ライブのツアーを実施。「無料ライブってやっぱり意外と怖いもので、凄いクリアーに見えちゃうっていうか。ただ、ホントありがたいことにたくさんの方が来てくれて…」とおっしゃっていました。
来週も引き続き、ファンキー加藤さんをお迎えして初主演映画のお話などを伺います。お楽しみに!