ワールドカップ予選、指導者ライセンス…松木安太郎さんの挑戦!(2015/05/02 放送)
今週は、サッカー解説者の松木安太郎さんをお迎えしました。
松木安太郎さんは、1957年(昭和32年)、東京・日本橋生まれ。小学生の時に学校のサッカーチームに入ったという松木さんですが、そもそもサッカーを始めた理由は、サッカーそのものに魅力を感じたというよりも、友達がみんな同じユニフォームを着てサッカー部にいたから、だったそう。ちなみに、ディフェンダーだった松木さんですが、小学生時代のポジションはゴールキーパーで、大会で毎回のようにベストイレブンに選ばれるようになっていったとか。
ちなみに、松木さんは当時のゴールキーパーというポジションについてこんなことをおっしゃっていました。「自分がもしサッカーのことをよくわかってたとしたら、そりゃ点取り屋の方がカッコイイからそっちやらしてくださいよ、っていうんでしょうけど、そりゃまったくわかんないから(笑)。そこ、僕ね、自分の人生の中でけっこう救われてるところありますよ」
その後、プロリーグを目指すチーム、読売サッカークラブに入った松木さん。読売クラブは当時まだ出来たばかりで、松木さんの会員番号は7番。当時まだ小学生だった松木さんですが、読売クラブでは高校生や中学生と一緒にプレーしていたそうで、自分より上手い人たちと一緒に練習することでさらに上手くなっていったそうです。「僕のサッカー観というか、サッカー人生の中で、あそこのクラブに行ったっていうのは…自分にとっては大きな飛躍に繋がっていくクラブチームでしたね」
そして、松木さんは小学生当時からすでにプロを目指していたとハッキリおっしゃっていました。「いやぁ、僕は世界目指してましたからねぇ。プロになりたいと思ってました」
松木さんが読売サッカークラブのトップチームでデビューした翌年、読売クラブは2部リーグから1部に昇格。キャプテンになった1983年以降は、チームは当時の日本サッカーリーグ優勝3回、日本サッカーの頂点である天皇杯優勝3回と躍進します。
「自分でビックリするぐらい体が動いたり、キレが良かったり、それだけ練習しましたしね。それと同時に自分も日本代表の選手に選ばれたり…」と、その頃について話してくれた松木さん。86年のワールドカップ、メキシコ大会への挑戦では、アジア予選の決勝で敗れて2位になりますが、当時のアジア枠は1つだったために本戦出場はならず…。当時の日本代表には、松木さんの他、岡田武史さんや木村和司さん、水沼貴史さん、柱谷幸一さんもいたそうです。
そして、松木さんが現役を引退したのは32才の時だったそう。「今考えると早くてね。自分自身もやれたと思ってるんですけど…(三浦知良選手は)いいっすよね、やれる場があるっていうのはね(笑)。僕らの頃は何にもチームがないじゃないですか。しかも、プロ契約をしている選手がそのチームから離れて他のチームでプロ契約をするっていうのは、なかなか海外に行かないと無理なことでした。ただ、そこで自分としてはコーチの免許だとか、勉強をして、逆にサッカーというものをずっと続けていきたいな、という風には思ってましたから」
そこで、松木さんは、現役時代のうちに指導者ライセンスを取るという挑戦をしたんだとか。「現役時代の選手がライセンスを取りに行くなんて、当時、考えてる選手いなかったから…。僕はそれやらしてもらいましたからね。この仕事続けたいし…仕事っていうか、この世界から離れるのが…怖いわけですよ。他のことできないし。ですから、なんとかやっていこうと。で、自分も選手として晩年だし、若い選手も入ってくるし…」
「今考えるとね、それ(ライセンスの取得)をやらなかったら、もっと現役やってたかもしれない、っていうことなんですよ。二兎を追う者は…って言うじゃないすか。そこでもしかすると、自分の人生の中で、サッカーという関わり方をどうしても切らしたくないと。これ、プロのリーグだったら、例えば、コーチになろうとか、どっかのチームに移って選手でやろう、とかっていう選択肢があるんだけども、僕らの時代はまったくないですから。たかだか日本代表で何試合か出て、リーグ戦で優勝経験がある程度の選手でしたから。だからやっぱり、終わると共にそういう世界っていうのははないんだろうな、って思ってましたからね」