野村忠宏さんが改めてオリンピック3連覇を語る!(2016/02/27 放送)
先週に引き続き、今週も柔道家の野村忠宏さんをお迎えしました。
初出場を果たした1996年のアトランタ・オリンピックで金メダルに輝いた野村さん。2000年のシドニー・オリンピックにも「多少波はありましたけど、ほぼすんなり」と臨めたそうで、シドニーの畳に立った時は「もうよっぽどのことがない限り、普通に試合をすれば金メダルを獲れる」と感じていたそうです。
初出場を果たした1996年のアトランタ・オリンピックで金メダルに輝いた野村さん。2000年のシドニー・オリンピックにも「多少波はありましたけど、ほぼすんなり」と臨めたそうで、シドニーの畳に立った時は「もうよっぽどのことがない限り、普通に試合をすれば金メダルを獲れる」と感じていたそうです。
「圧倒的というか絶対的な自信がありましたね」「よく言う、心技体、心と技術と体力、このバランスが抜群に揃ってたかなと」「だから自分はシドニーで優勝してカッコ良く辞めてやろうと」「一番良い辞め時はシドニー」と、シドニー後の引退も考えていたという野村さん。しかし、ここでは引退しませんでした。
「もうこれでこのプレッシャーから解放される、もう辞めようと思ったけど、実際辞めれなかったんですよね。これで引退します、って言葉が出せなかったんです。何か寂しさを感じたのか。シドニーが圧倒的すぎたから多少欲も出て来たと思うんですよ」
「けど、また4年間頑張ったからと言ってまた代表になれるかどうかもわからない。見えないものへのチャレンジ…けど、負けたら負けたでバッシングされるわけじゃないですか。アイツ弱くなったなぁって言われるのもやっぱりイヤだし、チャンピオンという肩書きを背負ったらやっぱり負ける姿を見られたくない」
どうなるかわからない4年後に対して、怖いという気持ちと挑戦したいという気持ちの間で揺れていたシドニー後の野村さん。そんな中、唯一相談したのは、所属するミキハウスの社長さんだったとか。
「もっと時間が欲しい。自分の心から決断したいからもうちょっと考える時間が欲しい。ただ、日本にいたら、その声っていうのは届くから…。それで柔道とか金メダリストっていうものを1回外せる場所で暮らしたいっていうので、社長に相談してアメリカに行かせてもらったんですよ。2連覇したご褒美と思って、会社で全部面倒見たるから行ってこい!ちゅって」
そして、アメリカへの留学、解放された生活を経験した野村さんは、今しかできないこと、自分にしかできないことを突き詰めた結果、現役続行とオリンピック3連覇への挑戦を決断。帰国してチャレンジが始まりますが、2年のブランクがあったこともあり、なかなか勝てなかったそうです。
「周りは、3連覇を目指して野村が帰ってきた!ってやっぱり凄い期待してくれたけど、負け続けることでアイツは終わったな…ってなったし、柔道連盟のコーチ陣からも、もう野村の代表はない、って言われたこともあったし…」
「負け続けてどこかで自分は変わらなければならない。このままじゃムリだ」と感じた野村さんは、心技体のうち、一番変えなければならないのは“心”だと気付いたそうです。
「負け続けてるくせに、2連覇した野村だ。カッコ良く勝たなきゃいけない、1本勝ちしなきゃいけないってね。やっぱ、そのプライドがあったんですよ。そのプライドが逆に自分の柔道を小さくして、マイナスに働いて、負けられない、負けたくない、負ける姿、投げられる姿を人に見られなくない…っていうので、守りの柔道しかできなくなってたんですよ」
「その時、96年に世界チャンピオンになってから初めて、負けていいや、って思うようになったんですよ。自分がもう一度強くなるためには、負けてもいいからまず今持ってる自分の力を試合で出し切ろう。ブサイクな柔道、負ける柔道であってもまず出し切る、そこから始めよう、そうしないと自分は変われないと思って。そうしたら、ちょっとずつまた自分が出せるようになってきて、結果もついてきたんですよ」
そして、2004年のアテネオリンピックに間に合った野村さん。年齢的にも下り坂で体力的に少し厳しいと思うところもあったそうですが、アテネの畳に立った時は、過去の3大会で一番“心”が充実していたとか。
「アテネの時は不思議な感覚で。今までは、畳に上がって相手と組み合って、よしいける!っていう感覚があったけど、アテネの時だけは相手と向き合った時点で、相手が全員小さく見えたんですよ。向き合った時点で、対戦相手が自分に対して怯えてるっていうふうに感じてたんですよ」
「俺は、お前らとは、柔道と今まで向き合ってきた時間も、乗り越えてきたものも違うっていうね。多少の体力の衰えとかをカバーする、凌駕するだけのチャレンジをしてきて、その中での心の強さっていうのがあったんでしょうね。もうこれは強さだけじゃなくて、歩き方とか礼の仕方とか、所作も柔道家としてきちっとしたものを見せていきたいなって思うだけの心の余裕もあったんですよ。だから、今考えても不思議なんですよね」
アテネで柔道史上初となるオリンピック3連覇を達成した野村さん。シドニーの時とは違い、アテネの後はすぐに現役として次に挑むことを決断したそうです。ちなみに、北京オリンピックが開催されるのは野村さんが33才の年。
「年齢的にも1年、2年って迷ってたら間に合わないっていうのもあったし…」「不安とかもあったんですけど、やっぱり自分にしかできないチャレンジ…しかも4連覇っていうのは夢だったからね、そこをチャレンジしたいというのもあったし、アテネへの過程で、見えないものへのチャレンジの中でいろんなものが見えたんですよね」
「苦しい思いしかなかったけども、それと向き合った自分、そこで知ったもの、経験したものって、やっぱり凄い自分に良いものを与えてくれたんですよ。その経験で自分の価値観とか競技観とかがガラッと変わったんですよね」
そして、北京オリンピックに向けて順調に準備を進め、「北京行けるな」と思っていたという野村さんですが、北京の前年、日本一になった後の代表合宿で大怪我…。実は野村さん、この代表合宿の前に軽い怪我をしていたそうですが、日本の柔道界を引っ張るご自身の立場もあって合宿を休むことができなかったそうです。
「この時、代表合宿に行かずに大事を取ってれば…とはね…。そこだけなんです。ホントに」。野村さんのこの言葉からは、今も残る後悔の気持ちが伝わってきました。
昨年、『戦う理由』という本を出した野村さん。高校時代にお父様から「しっかりと組んで1本を取る。そして世界に認めてもらえるような本物の実力のある柔道家になれ」と言われたそうで、「その柔道がチャンピオンとして多少はできるようになったと思うので」とおっしゃっていました。今は海外からも「教えに来て欲しい」という声があるそうで、「積極的に海外には出て行こうかなと思っています」と、今後のチャレンジについて話してくれました。
番組では、野村忠宏さんの挑戦に関するメッセージを色紙に書いて頂きました!こちらの色紙を1名様にプレゼントします。このホームページ右のメッセージフォームから「野村忠宏さんの色紙希望」と書いてご応募ください!