なるべくして芸事の道へ…三宅裕司さんの挑戦(2016/01/09 放送)
今週は、三宅裕司さんをお迎えしました。
三宅さんは1951年、東京の神田神保町の生まれ。お母様が日本舞踊の先生ということもあって、子供の頃から長唄や小唄、三味線などを習っていたんだとか。「日本舞踊の ゆかたざらい とかあると、恥かきたくないから一生懸命稽古して。で、終わると凄い拍手なわけよ。当然、子供だから。この拍手がやっぱりクセになったね」
お母様以外にも芸事に携わる親族が多いという三宅さん。従兄弟は20人以上いるそうで、お正月などの親戚の集まりで芸を披露したり、競い合ったりしながら、いろいろなものを培っていったそうでです。
三宅さんは1951年、東京の神田神保町の生まれ。お母様が日本舞踊の先生ということもあって、子供の頃から長唄や小唄、三味線などを習っていたんだとか。「日本舞踊の ゆかたざらい とかあると、恥かきたくないから一生懸命稽古して。で、終わると凄い拍手なわけよ。当然、子供だから。この拍手がやっぱりクセになったね」
お母様以外にも芸事に携わる親族が多いという三宅さん。従兄弟は20人以上いるそうで、お正月などの親戚の集まりで芸を披露したり、競い合ったりしながら、いろいろなものを培っていったそうでです。
「叔母がSKD(松竹歌劇団)にいたりとか、叔父が亀戸で芸者の置屋やってたり、そういうプロで芸事をやってる人たちを小さい頃に見ちゃうと、これどういう世界なんだと思っちゃうよね。振り返ると、あれ、俺はこうなるべくしてなるような環境だったんだな…っていうのを思うよね。みんなでクレイジーキャッツの新しく始まった番組を観たりとかね」
そんな環境で育った三宅さんは、高校時代に同級生と落語研究会を作って落語を始めたそう。そして「大学に行ったら加山雄三と植木等を足して2で割ったような学生時代を送りたい」と言っていたそうで、大学の落研では立川志の輔さんや渡辺正行さんなどが後輩だったとか。しかし、三宅さんは最終的に落語の世界には進みませんでした。
「やっぱり、正座してじっとして着物を着て、そして昔からの非常に伝統のある芸という世界が怖かったのかも知れないね。もっとやりたいことが、音楽とかいろんなことがあったんで、動き回って新しい何かを作りたい、みたいな」
「芸をやってる親だから全然納得してくれたしね。叔母はSKDで旦那さんは作曲家だし。芸者の置屋があって、三味線の音はいつも聞こえてるし。喜劇役者を目指したいんで、大学卒業してから後5年間、飯食わしてくれないかと。ま、いろんな親戚がいるし、1人ぐらいそういう馬鹿がいてもいいだろうっていう、非常に愛の溢れた、俺に気を使ってくれた一言で…後になってわかるんだけど、うちのお袋がそう言って許してくれたんだね」
そして、東京新喜劇という劇団の旗揚げに参加した三宅さんは、当時のことをこう話してくれました。「ところが、東京新喜劇っていうのはポール牧さんがもう作ってたんで、その名前が使えなくて、それで急遽、大江戸新喜劇って名前に変えるんだけどね。なんかヤバイなここ…と思ってね。そんなことも調べてないのかよって。でもね、1年ぐらいはやったのかな。まぁそれはそこそこ。もう最初から主役だから」
「お客さんがウケるツボみたいなのをどんどん身につけられてね。非常にその劇団にも感謝してるんだけども、1年ぐらいたった時に、ちょっと古いかなこの話題は…っていうね。それで、そこから15人を引き連れて、S.E.T.(劇団スーパー・エキセントリック・シアター)を作るんだね。で、その旗印が“ミュージカル・アクション・コメディ”と。自分がやってきたものを全部そこにぶちこんで」
そうやって、今や37年目を迎えた三宅さんの劇団スーパー・エキセントリック・シアター。“挑戦する劇団”というのが売りの一つで、 公演ごとに劇団員全員で何か新しいことに挑戦してきたそうです。
「例えば、30人で津軽三味線。あとはサーカスに修行に行って本当にサーカスの芸を舞台上でやる。で、綱を張って綱渡りをやったんですよ。で、それがストーリーにちゃんと組み込まれてるとかね。そういう意味で言うと、SETで一つ一つやってきたことが全部、挑戦だったと思いますね」
そんな三宅さんはまもなくライブが予定されています。題して、三宅裕司&Light Joke Jazz Orchestraライブ「日本人の心をswingしよう」。ブルーノート東京で、1月30日(土)、31日(日)の2日間。各曜日とも夕方5時からと夜8時からの2回公演で行われます。詳しくはこちら→ブルーノート東京のホームページをご覧ください。
来週も引き続き、三宅裕司さんをお迎えして、このLIVEについても伺います。お楽しみに!