大久保嘉人さんがサッカー人生を振り返る(2022/02/19 放送)
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今週は、サッカー元日本代表の大久保嘉人さんをお迎えしました。
1982年6月9日生まれの大久保さん。福岡県出身で、サッカーとの出会いは小学校1年生の時だったそうです。
1982年6月9日生まれの大久保さん。福岡県出身で、サッカーとの出会いは小学校1年生の時だったそうです。
「家族で小倉の方に旅行っていうか買い物に行ってたんですよ。その時に河川敷の下でサッカーをやってて。サッカーって言葉も知らなくて。あれは何?って聞いたらサッカーって言われたんで、ちょっと行ってみる!って言って、それがきっかけです。」
小さい頃から足が速く、小学校6年生の時には陸上の全国大会に出場したという大久保さん。
「身長は一番ちっちゃかったんですけど、足の速さだけでサッカーも陸上もいきましたね。運動会はもうかなりスターでした。ぶっちぎりか、最下位から1位まで抜くっていう。」
それでも陸上ではなくサッカーを選びます。
「もうその時は、サッカーでプロになりたい!って思ってたんで。5年生になった時にワールドカップがあったんですよ。(94年の)アメリカワールドカップが。それを見た時に、プロになってこのワールドカップに出たい!と思って。」
昨年秋に『俺は主夫。職業、現役Jリーガー』という本を発表した大久保さん。若くして亡くなったお父様はとても優しい方だったそうです。
「お父さんはそうなんです。僕だけにすごい優しくて。どこでも連れて行ってくれましたし。お母さんが厳しかったです。」
「自分がホントに親にやってもらったことを子どもたちに今、やってる感じで。あとは自分がやりたかったけどできなかったこと、親に向かって恥ずかしいことでも言う、っていうのが僕できなかったんですよ。だから子どもたちにはそうならないように接してます。」
小学校を卒業した大久保さんは、親元を離れて、長崎にあるサッカーの名門・国見中学へ進学。
「僕は逆に行きたくなかったんですよ。けど、お父さんから、1%でもプロになる可能性があるんだから行け、って言われて。それで、1%って今考えれば絶対ムリと思うんですけど、その時ちょっとなれるかなと思って行ったんですよ。けど、今親になったら…いやムリですね。(子供を)送り出せないですね。」
「不安の方が大きかったですね。県外からプロになりたくていっぱい来たんですよ、その年。で、みんなスカウトされて来てるんですけど、僕だけスカウトされてなくて」「(他の子たちが)ホントに上手すぎて、いや、これ、ついていけないかも…っていう。3ヶ月間はそう思いましたね。」
中学時代は、越境で国見中学に入った子供たちの親が共同で借りた家に住んでいたとか。
「8人ぐらいでしたね。共同生活で」「ご飯だけは、ご飯屋さんに頼んでそこに食べに行くっていう生活してて。」
ただ、一緒に暮らしていてもサッカーではみんなライバル意識が強かったようです。
「普段は仲いいんですけど、サッカーの時に、みんな5時に起きて、誰一人バレないように出ていくんですよ。起きたら誰もいないっていう。みんなそっと出ていくんですよ。僕の部屋を通らないように自分の部屋の窓から出るんですよ。だから音もしないし。」
そんな中、大久保さんはもうダメかもと思ったこともあったとか。
「中2の時ですかね。もう帰ろうかなって思ったり。で、ホントに帰りたくて、ちょっと自分の足を…ケガすれば帰れるんですよ、病院で。だから、自分の足の親指をダンベルでトントン叩いたら骨折したんですよ。それで帰ったんですけど、1回。でも、帰ったら帰ったで親に怒られるじゃないですか。お前は何をしてんだ?と。だから帰ったけどすぐ戻されましたね。」
「(サッカーで結果が出なくて)ホントにもう辞めて帰ろうっていうのはあったんですよ、友達と。けど、最後の最後に、やっぱり親からお金を出してもらって迷惑かけてるから、そういうことをしたらダメだなっていう話になって。だから俺たちもっと頑張ろうって。」
高校は、名将・小嶺忠敏 監督が率いていた国見高校に進学。
「足は速かったんですけど、身長がホントにもうちっちゃくて、ガリガリで。もう、ふっ飛ばされますし。(部員は)140人ぐらいですかね。(レギュラーはそのうちの)20人か18人ぐらい。」
レギュラーにはなるのは大変だったそうですが、2年生の時に大きなチャンスが巡ってきます。
「たまたま、同じポジションの1個上の先輩がちょっと問題を起こして、学校とサッカー部も辞めさせられたんですよ。で、1個空いたとこに、嘉人お前できるか?って言われて。僕やったことなかったんですけど、なぜか、はい、できますって言ってしまったんですよ。それで、ヤバい、これできなかったら、もうこの1試合で他の選手を使われるなと。だから恥ずかしいけどコーチに動き方を聞こうと思って。で、聞いて試合出たら、4点取ったんですよ、その試合で」
「そこからでしたね。やっぱ自信の付き方がすごくて。俺やれる!と思って。その夏ぐらいにはもうプロからオファー来ましたね。」
さらに、高校3年生の時には高校3冠を達成します。
「全国高校サッカー、インターハイ、あとは国体。ぜんぶ優勝しましたね。もう最高でしたね。なんか僕たちの年代、史上最弱って呼ばれてたんですよ。だけど、そんなのは言わせない!っていう。ホントにみんなが一つになって、久々に国見が復活したんで、もうホントにこればっかりは最高でしたね。」
高校を卒業した大久保さんは2001年、J1のセレッソ大阪に加入します。
「ようやくプロになれたって思ったんですけど、父がぜんぜん喜ばなくて。お前はここからがスタートなんだ、天狗になるな!ってもう毎日のように言われて。まだここから結果残して、Jリーグ、日本サッカー界に名を刻め!って言われたんで、そこに向けて頑張りましたね。」
「(父は)日本代表に選ばれても言ってましたから。天狗になるなとか、図に乗るなとか。もうずっと言われてました。」
そして、2002年にアテネ・オリンピックに向けた代表に入り、2003年にはA代表にも選ばれた大久保さん。ただ、Jリーグでも最初から活躍できたわけではなかったようです。
「Jリーグで1年目大ケガして。20試合ぐらいしか出てないんですけど、2年目(チームが)J2に落ちたんですよ。そこで移籍をしろって言う人もいたし…」
J2のセレッソに残留した大久保さんは当初、ベンチ外だったそうですが、ここでもチャンスが巡ってきます。
「5試合ぐらいで同じポジションの選手がみんなケガしたんですよ。で、嘉人しかいない。僕だけ元気で。嘉人スタメン!ってなって。で、その試合で2点取ったんですよ。そこから、あ、俺ホントやれるかも!って思って。J2で最後まで得点王争いしましたね。」
「(めぐり合わせは)ホントにすごく良かった。ホントに運を持ってるなっていうのがありましたね。」
1135本というJ1通算のシュート数記録を持っている大久保さん。シュートを打つ時は「自分の世界」という感覚になるんだとか。
「もう周りの応援の声も聞こえないですし。自分の世界で、シーンとした中で一人だけ動いてるっていう。スローモーションになりますしね。」
そして、シュートを打つ中では“ボールの軸足”を意識していたそうです。
「ボールは動いてるので、軸足をちゃんと思ったところに置けないと、ボールってなかなか力が伝わらないんですよ。だから自分の得意な軸足、置きどころっていうのを自分で持っていて、そこを常に意識してましたね。」
2005年からはスペインのマヨルカ、2009年にはドイツのヴォルフスブルクに在籍した大久保さん。海外リーグへの挑戦をこう振り返ってくれました。
「スペインにまず行った時は若かったんですけど、このままじゃ長くサッカーできないな、って思い知らされて。やっぱ自分のプレースタイルを変えないといけないな、と思わせてくれたんで。成功はしてないんですけど、行ったことで、やっぱいろいろなことをわからせてもらえて。だからホントに良かったなって思いましたね。」
また、海外移籍前に出場し、2ゴールを決めた2004年のアテネ・オリンピックについてはこうおっしゃっていました。
「おっきかったですね。昔は世界大会っていうのがあまりなかったんで。世界のスカウトに見てもらうこともあまりないですし。だからアテネ・オリンピックで絶対活躍してやる!っていうのはやっぱありましたね。」
昨年で現役を引退した大久保さんですが、ご自身のサッカー人生に悔いはないとおっしゃっていました。
「まったくないですね。これがホントに大久保嘉人だったんだって自分でも思えますし。ま、最高でしたね。もうまったく悔いないです。」
そして「大久保嘉人のサッカーを一言でいうと?」と尋ねると、こんな答えが返ってきました。
「ま、攻める、が一番みんなにはしっくりくるんだなと。攻めのサッカーでしたね、常に。それはブレないようにしてました。」
来週も引き続き、大久保嘉人さんをお迎えします!