ユージさんが『ごくせん』のオーディションを振り返る!(2022/02/05 放送)
Podcast
今週は、ユージさんをお迎えしました。
ユージさんは、TOKYO-FMをはじめ、JFN系列で平日朝に全国放送されているワイドプログラム『ONE MORNING』に出演中です。
ユージさんは、TOKYO-FMをはじめ、JFN系列で平日朝に全国放送されているワイドプログラム『ONE MORNING』に出演中です。
「月曜日から金曜日まで。毎朝6時から9時の3時間、生放送で」「いやぁもう、それこそ恵さんの背中を見ながら、参考にさせていただきながら、やらせていただいておりますよ」
「けっこう土曜日は子供の習い事のお迎えに行って、帰りの車でそれこそホントにこの番組(チャレンジストーリーズを)聞いてたりしてます。ホントですよ。純粋にこの番組聞かせて頂いてたので、めちゃめちゃ嬉しいです、今日は」
ユージさんは、1987年9月9日生まれ。アメリカのフロリダ州出身で、お父さんはハリウッド俳優、お母さんは日本人のモデル、さらに曾祖父さんはなんとドミニカ共和国の元大統領だったとか。
「ちょっとイヤらしい話ですけど、かなりセレブな家に生まれました…(笑)」
「僕が生まれる5年前にひいおじいちゃんは亡くなってしまったので、大統領時代を見たことは僕はないんですけども」
「フロリダのマイアミというところで。フロリダってけっこう熱帯雨林的な気候というか、急に雨が降ってきたりとか。でも、常に暑いエリアなんで、ハリケーンの被害もけっこう実は何度もあって。で、その時に自宅が吹き飛ばされてしまって。ま、家族全員無事だったんですけど、ただこれ、建て直してもまたこういうことって起こるよねってことで、もう引っ越そうかって言って、マイアミの高級ホテルに引っ越したんですね」
「で、それがペントハウスだったんですけど、そのペントハウスの下の階に当時ドン・ジョンソンっていう俳優さんが住まれてて。『マイアミ・バイス』っていう作品の主役のドン・ジョンソン。当時なんかもうホントにドン・ジョンソンはマイアミのスーパースターだったんですけど。唯一の自慢はドン・ジョンソンの上に住んでいたっていう(笑)」
ただ、そんなユージさんのお金持ち経験も5歳までだったそうで、そこからの反動はかなり大きかったとおっしゃっていました。
「僕、一人息子だったんですけど、父と母が離婚をすることになって。その際に親権争いになるんですよね」
「日本の場合は比較的、女性のほうが親権を取れる可能性が高いんですね。けど、アメリカの場合はどちらにも可能性があって。意外とお金を持ってる家のほうが有利だったりする場合があるんですね。そうすると、子供の未来を考えた時にお金がある家のほうがこの子は幸せに暮らせるんじゃないか、ってことも加味されるのを恐れて、母が、慰謝料も養育費も私はいりませんから連れて帰ります、って言って、日本に強制的に僕を連れて帰っちゃったんですよ。なかなか母親は一度言ったことを曲げないタイプの人なので」
「母親が日本に来てもノープランで僕を連れて帰ってきちゃったんで、仕事探しから始まるんですけど、ホントにどこに行っても、お母さんあれでしょ?お子さん一人いらっしゃるんでしょ?旦那さんいないんでしょ?うちに就職してもらってもお子さんが風邪ひいたら帰んなきゃいけないんでしょ?ちょっと困るなぁって言って、どこも受けてくれなかったらしいんですよ。ホント厳しかったらしくて」
「5歳とかなんで手を引っ張って。やっぱお金がないんで、家も探さなきゃいけないっていうので。相当苦労したと聞いてます」
日本に来たユージさんは、小学校2年生までインターナショナルスクールに通っていたそうです。
「僕…さっきからイヤらしい話が続いて申し訳ないんですけど…ちょっとだけ頭が良くて、1学年飛び級して(インターナショナルスクールに)入ったんですね。要は年齢よりも1個上の学年にいるので、周りの子たちは一歳上のお兄さんお姉さんたちだったんですけど」「ただ、中身が僕は子供だったんで、勉強ができても1時間、授業で座ってられなかったんですよ。幼稚園生の年齢なのにもう小学校に行ってたんで。だから先生に、他の子に迷惑をかけちゃうからやっぱり適正の年齢に戻ろっかって、小学校2年生の時に1学年下に戻ることを勧められたんですよ」
ところが、ユージさんは「1個下の奴らとなんかやってられっか!」と言って、学校を辞めたんだとか。
「ただ、(日本の学校に転校するにしても)学年の帳尻を合わせないと…日本の学校は年齢が決まってるから。そこで、アメリカに住むお祖母ちゃんの所に行って、1年間、学年を合わせるためにアメリカの小学校に通いました。要は、日本(のインターナショナルスクール)では飛び級して2年生まで行ってたんですけど、本来は1年生の学年なんで、アメリカに行ってもう1回2年生をやりました。で、日本に帰ってきた時にいよいよ3年生っていうことなんで、日本の学校では」
そんな経緯で小学校3年で初めて日本の学校に入ったユージさんですが、その時は日本語を一切話せなかったそうです。
「いやぁ、ホントに、なかなか過酷な…ま、でもお金もなかなかなかったので。(インターナショナルスクールは)高いんですよ。で、母親も相当やっぱ厳しかったみたいで。かなり大っきなチャレンジでした」
「で、小3の子どもたちっていうのはもう言葉もペラペラですから。その中にポンッと急に英語しか話せない僕が来て。で、まして僕、本名がトーマス・ユージ・ゴードンっていう機関車みたいな名前なんですよ」
「友達もすぐに出来たりとか、いい思い出もありますけど、ちょっとつらい思い出もたくさん」「やっぱり(名前のことで)イジられたりとか、言葉の壁で1年ぐらいやっぱ悩んだんで」
「(母の存在が寂しさを)埋めてくれました。あとは、母親がいない間は、当時リタイアをした おばあちゃんベビーシッターみたいなのがすごく安いお金で、シルバーヘルプみたいな感じで家に来てくれてたんですよ。ちなみに、その方は川村さんっていって今もう100歳超えて存命なんですよ。だから川村さんと母親に僕は育ててもらったという記憶です」
ユージさんが芸能活動を始めたのは中学生の頃だったとか。
「母親が元々アメリカでもモデルをやっていたので、日本に来ても別の仕事をしつつ、ちょっとアルバイト的な感じで、知り合いの事務所でモデル活動も続けてたんですよ。で、ある時、子役が必要だってなって。んで、子役が見つからなかったんで、お母さん、ご自身の息子さんは出られないんですか?って言われて。僕がちょっと子役モデルとしてお手伝いで出たら、そのまんま事務所に登録されてしまっていて。とは言っても、仕事はなかなかなくて。それが中学1年ですね」
「で、中学2年の時にオーディションを受けて。『アカルイミライ』という黒沢清監督の映画の」「オーディションもすごい人数の人たちで、僕は緊張していたんですけど、5人1組で部屋に呼ばれて。監督もプロデューサーもいて」
「今でも覚えてるのが、監督が、ちょっと今から5人で自由に好きなように演技して!って。もうお題も何もなく。はい、アクション!っていきなり言われたんですよ。僕たちは初対面の5人で、急に5人で、どうしようか?つって、もうなんか、めんどくさいよねー、もう俺たちやることないよねー、みたいな演技が勝手に始まってったんですね。その5人が合格したんですよ」
ユージさんが出演することになった『アカルイミライ』は、オダギリジョーさんと浅野忠信さんが主演した作品で、フランスのカンヌ映画祭にも出品されました。
「僕、中学2年でそれが人生初めての映像作品で。すごい申し訳ない言い方になるんですけど、芸能界チョロいな、ってちょっと思っちゃったんですよ。初めて受けたオーディションで、そんなに有名な人たちの中に挟まれていきなり出られる、芸能界って簡単に仕事が貰えるんだな、って実はそん時思っちゃったんですよ」
「しかも、その映画がカンヌ映画祭にまで出品されて。しかも、楽しかったんですよ。僕は最年少で、いろんな大人が僕をからかったり遊んだりしてくれて。僕はそこで一つ、役者になりたいっていう明確な夢が出来て。そこからでした、真剣に芸能界を目指し始めたのは」
ですが、芸能界は当時のユージさんが思うほど甘くはなかったようです。
「入り口が調子良すぎたので。勉強せずにオーディションも受かってたので、いっさい芸を磨く気もなく。で、そこからオーディションはたくさんお話は来るんですけど、何にも受からないんですよね。その映画に受かったことが奇跡で。そこから先はホントに何をしても受からなくて」
「で、もうホントに嫌になってきちゃって。もう悩んじゃって。もう僕はオーディションにも行きたくないって言って。で、オーディションをバックレてしまったりとか。みんなは、学校帰りにサッカーしようぜ!とか言ってんのに、僕はオーディションに行かなきゃいけないっていうので、なんかもうホントに受からないし、何が楽しいのかわからなくなってたんですよ」
「で、そのぐらいから、芸能界が楽しかった、あのキラキラの、僕に見えてた芸能界っていうのがちょっと違う景色に見え始めて。そのぐらいからもう挫折ですね。どっちかと言うと、友達と遊んでればもういいや、みたいな。一応、事務所には入っていたんですけど、やっぱり仕事も全然決まらないし、どんどん周りにヤンチャな友達も増えるし」
「(アカルイミライから始まったのに)今思うともう真っ暗ですね。暗黒の時代です」
そんなユージさんですが、その後、人気ドラマ『ごくせん』のオーディションに合格。
「僕は当時、恥ずかしながらその、パンチパーマだったんですよ、髪型が。なんか地元ではやっぱりその、(東京の)東村山という所なんですけど、東村山ってちょっとそういう古風な不良スタイルというか。だから、パンチパーマにジャージで、その時に受けた『ごくせん』のオーディションで初めて褒められたんですよ。君いいね!って。もうドラマ出て欲しい!って言われて受かったんですよ」
ところが、ここで思わぬアクシデントに見舞われます。
「ホントに僕も嬉しかったんですけども、ケガで急遽、出演ができなくなってしまったんですよ。で、出演ができなくなって急遽、代役が立てられることになり、これはもう芸能界は俺もうホント駄目なんだ…って。チャンスが来てもこういうことが起こるって、俺の責任でもあるけど、たぶん俺向いてないんだなと思って。本格的に芸能界を1回辞めることにしました、その時は」
「芸能界は向いてないんだと思いつつも、心のどっかではやっぱり僕にとっての希望の光でもあったんで。で、後にその『ごくせん』に出演した役者さんたちはどんどんみんなスター街道というか、その姿も見てて、おそらく自分でその明かりを閉ざしてただけで、たぶん火種は消えてなかったと思うんですよ。なので、ちょっと時間はかかりましたけど、その後、火が着くまではやっぱ辛かったです」
ユージさんは、恵さんの「挫折が自分を大きくするんでしょうね」という言葉を受けて、こうおっしゃっていました。
「僕もそう思います。僕は特に甘い考えを持ちがちの人間なので、痛い思いをして学ぶタイプの人間だと思います」
来週も引き続き、ユージさんをお迎えします!