田中理恵さんが遅咲きの体操人生を振り返る(2021/09/04 放送)
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今週は、体操元日本代表の田中理恵さんをお迎えしました。
まず田中さんは、東京オリンピックでの日本の体操選手の活躍についてこんなふうに話してくれました。
「いやぁ、すごかったですねぇ。(男子)団体では銀メダル獲得、そして橋本(大輝)選手が個人総合で金メダル獲ってくれて。で、(私の大学の)後輩の村上茉愛が床で銅メダルという、体操界の新たな1ページを作ってくれたので」
「(村上さんは女性では57年ぶりの銅メダル)そうなんです。でも、床の個人は初めてなんですよ。なので、ホントに嬉しかったのと、彼女はずっと小さい時から“床の天才”って言われてきたんですね。それがいろんな経験をして、体操に対する気持ちだったり向き合い方も変わってきて、ちゃんとメダルを獲ったっていうのが、なんかこう家族のように嬉しかったです」
田中さんは、1987年6月11日生まれ。和歌山県出身で、お父様が体操教室を開いていてお母様も体操選手という体操一家に育ったそうです。
「ホントに物心ついた頃には家の中に小さいトランポリンが2個あって、そのトランポリンをまたがないと隣の部屋に行けないとか(笑)。鉄棒があったりとか(笑)」
小学校1年生から真剣に体操を始めたという田中さん。お父様は子供のことを思って「家では体操の話をしない」というルールを作ってくれたんだとか。
「24時間体操のことを考えているとやっぱり疲れちゃうと。体育館に行くとお父さんは先生なんですね。でも家に帰ってくるとお父さん、っていうメリハリ、オンとオフっていうのを小さい時からつけさせたいっていう気持ちがあって。なので、家の中ではまったく体操の話はしないですね。そこが私にとってはすごく良かったんですよね。長〜く体操人生を楽しめ、もうそれだけでした」
「で、お母さんは笑顔でいなさい、笑ってる理恵が一番だから笑顔でいなさい、もうそれだけしか言われなくて。まずは楽しんでました」
そして、中学の時に全国選手権で個人3位に入った田中さんですが、高校時代には体操への気持ちが薄れてしまったそうです。
「(2004年の)アテネ・オリンピックを目指してたんですよ。絶対出るんだ!っていう気持ちで頑張ってたんですけど、その中学3年生の冬に、足首の遊離軟骨が出てきてしまって。やっぱりちょっと成長もあったので」
「体操競技って1日2日休んじゃうと感覚がちょっとブレてしまったりとかあるんですね。その足が痛くなってコンスタントに練習ができなくなった時に、体重が10キロ、身長も10センチ以上伸びちゃったんですよ。月経も始まって。で、女性らしい、お尻も大きくなる、胸も出てくる、これが受け入れられなくて。もうビックリしちゃったんですよ。ホントに幸せなことなんですけど」
「で、身長も10センチ伸びたら、もう技がぜんぶ一からやり直しなんですね。感覚が大車輪だけでも全然違ったんです。それを経験してしまってから、こんなに体操が楽しくない…。この体の変化に悩んだんですよね」
「普通の選手は徐々に身長も伸びていって、徐々に体重も増えていくんですけど、私の場合は怪我をしてストップしてしまったので、一気に増えたんですよ。それで自分の体操人生の計画っていうのが全部ズレてしまって」
「(アテネ五輪は)すぐもう諦めました。あ、もうムリだって」「ホントはいちばん高校3年間でグンッ!って日本代表に向かって伸びていくところを…まったく笑わなくなったんですね。ちょうど反抗期もあるんですよ、高校生の。いろんなことが気になったりとか。お友達も人生楽しんでるし(笑)」
それでも心のどこかに体操を好きだという気持ちがあってやめられなかったという田中さん。そんな中でも家族は見守ってくれたそうです。
「その時も、お父さんはいっさい怒らなくて。体操を楽しめって。長く体操人生を見なさいって。で、まずは怪我してる足首だったり、痛いところを治しなさいって。で、お母さんはずっと、笑ってなよ〜とか。なんで練習しないの!みたいなことを1回も言われたことがなくて」
「でも、高校3年生の時に1回、体操をやめたいと思ったんですね、初めて。で、お母さんに、もうやめたいって言ったら、どうぞやめてくださいって笑顔で言われたんですよ(笑)。で、明日からは通学路も変えて好きなことやってみなって言われて、1〜2ヶ月ぐらいちょっと休んだんですね。初めてお友達とカラオケ行って、いろんなもの食べて…とか(笑)ホントに女子高生がすることをやらせてもらった時にぜんぜん楽しくなかったんですね。あれ、これって楽しいのかな?って思って」
「で、兄と弟はもう日本代表に向かって一生懸命がんばってる。なんかこう兄弟も気になってきて、もう1回体操やりたいっていう気持ちになったので、お母さんに、やらせてくださいって言いに行ったら、はい!明日から行ってくださいってまた笑顔で言われて。余計怖くて(笑)。お父さんも…ま、高校の先生なので…やっぱり反抗期の生徒に対して怒っては意味ないっていうのもわかってくれてたみたいで」
「3兄弟ってケンカしたことないんですね。でも、その弟から怒られたんですよ。いつまでタラタラ練習やってんの?もっと真剣にやりなよって。グサッと心に刺さってしまって。そこから、一番強い日本体育大学に行こ!って心が決まりましたね。もう1回体操人生をやり直したいって。弟に感謝ですね(笑)」
そして、田中さんは日本体育大学に進学します。
「日体大に入った頃はオリンピック目指してなかったんです。もう1回、体操人生を楽しもう!で、まず足を治さなきゃいけなかったので、日体大に行って、その1年生の冬に足首の手術を思い切って決断しましたね」
「2年生はリハビリの年になったんですけど、この2年生の時期に体操人生が変わりましたね。初めて足にギブスまでして、ホントに練習ができないっていう時期を経験した時、仲間の練習を見て、置いていかれる…ってなんか焦ったんですよ。今までってそういう経験がなかったのと、和歌山にはあんまり私以外に強い選手がいなかったんですね」
「で、日体大に行くと、世界選手権の代表メンバー、オリンピックのメンバーっていう、こんなに頑張ってる人たちを目の前にした時に、負けたくない!っていう小さい時の負けず嫌いを思い出して」
「しっかり治してもう1回体操人生をやり直したいので、日体大のトレーナーの方とただただ練習するんじゃなくて、人の練習を見て頭に入ることもあれば、本を読んで精神的に成長するものもあるっていうのも聞いて。そっから全部いろいろやってみた時に、体操への向き合い方っていうのが変わりましたね」
そんな大学時代に田中さんのオリンピックに対する気持ちにも変化があったようです。
「まだまだオリンピックはホントにムリだってずっと思いながら…(その時は)21歳です…とにかく大学4年生、楽しい体操を取り戻そう!っていうのが目標だったので」
「2008年の北京オリンピックの予選会に出させてもらった時に、速報を見た時に個人総合8番だったんですよ。で、オリンピック選手は当時5人行けたんですね。あれ?あと3人抜かせば私オリンピックのメンバーじゃん…って思った時に、オリンピックは夢って思ってたのが目標にガラッと変わって」
「で、だいたい試合が終わった次の日はみんな休むんですけど、次の日から練習に行って、4年計画っていうのを立てたんですね」「2009年はまず大学のユニバーシアードの大会に出場する、世界大会。で、そのあと2010年はオランダの世界選手権。で、2011年は東京の世界選手権。で、2012年がロンドンのオリンピック。この1年をぜんぶ代表で出てやるんだっていう。夢だったオリンピックがもう絶対に出る!っていう気持ちに変わっていて、そっからまた体操に対する姿勢と私生活も変わりました」
体操界ではかなりの遅咲きだったという田中さん。日体大では監督やコーチにも恵まれたそうです。
「体操界では身長も体もしっかりしてる方なんですよ。で、その身長だったりダイナミックな演技をどう活かすか?って監督と話し合いをした時に、田中理恵は田中理恵の体操を作ればいいと」
「例えば、鶴見虹子選手って小さくて可愛かったじゃないですか。ここと比べてもなんにも意味がない。田中理恵は田中理恵、鶴見虹子は鶴見虹子。一人ひとりの体操を作っていくって考えた時に、じゃあ、あなたは減点の少ないダイナミックで大学生らしい大人の演技をしなさい、そこでポイントを稼いでいくのがいいっていうのを聞いた時に自信になったんですね」
「あ、この体でもいいんだ、あんな4回も回らなくていいんだ(笑)捻らなくていいんだっていう自信になったので。じゃ、キレイな体操を目指そう!っていう気持ちになりました。そっからがもう楽しくて楽しくて。ま、つらいこともありますけど」
来週も引き続き、田中理恵さんをお迎えします!
まず田中さんは、東京オリンピックでの日本の体操選手の活躍についてこんなふうに話してくれました。
「いやぁ、すごかったですねぇ。(男子)団体では銀メダル獲得、そして橋本(大輝)選手が個人総合で金メダル獲ってくれて。で、(私の大学の)後輩の村上茉愛が床で銅メダルという、体操界の新たな1ページを作ってくれたので」
「(村上さんは女性では57年ぶりの銅メダル)そうなんです。でも、床の個人は初めてなんですよ。なので、ホントに嬉しかったのと、彼女はずっと小さい時から“床の天才”って言われてきたんですね。それがいろんな経験をして、体操に対する気持ちだったり向き合い方も変わってきて、ちゃんとメダルを獲ったっていうのが、なんかこう家族のように嬉しかったです」
田中さんは、1987年6月11日生まれ。和歌山県出身で、お父様が体操教室を開いていてお母様も体操選手という体操一家に育ったそうです。
「ホントに物心ついた頃には家の中に小さいトランポリンが2個あって、そのトランポリンをまたがないと隣の部屋に行けないとか(笑)。鉄棒があったりとか(笑)」
小学校1年生から真剣に体操を始めたという田中さん。お父様は子供のことを思って「家では体操の話をしない」というルールを作ってくれたんだとか。
「24時間体操のことを考えているとやっぱり疲れちゃうと。体育館に行くとお父さんは先生なんですね。でも家に帰ってくるとお父さん、っていうメリハリ、オンとオフっていうのを小さい時からつけさせたいっていう気持ちがあって。なので、家の中ではまったく体操の話はしないですね。そこが私にとってはすごく良かったんですよね。長〜く体操人生を楽しめ、もうそれだけでした」
「で、お母さんは笑顔でいなさい、笑ってる理恵が一番だから笑顔でいなさい、もうそれだけしか言われなくて。まずは楽しんでました」
そして、中学の時に全国選手権で個人3位に入った田中さんですが、高校時代には体操への気持ちが薄れてしまったそうです。
「(2004年の)アテネ・オリンピックを目指してたんですよ。絶対出るんだ!っていう気持ちで頑張ってたんですけど、その中学3年生の冬に、足首の遊離軟骨が出てきてしまって。やっぱりちょっと成長もあったので」
「体操競技って1日2日休んじゃうと感覚がちょっとブレてしまったりとかあるんですね。その足が痛くなってコンスタントに練習ができなくなった時に、体重が10キロ、身長も10センチ以上伸びちゃったんですよ。月経も始まって。で、女性らしい、お尻も大きくなる、胸も出てくる、これが受け入れられなくて。もうビックリしちゃったんですよ。ホントに幸せなことなんですけど」
「で、身長も10センチ伸びたら、もう技がぜんぶ一からやり直しなんですね。感覚が大車輪だけでも全然違ったんです。それを経験してしまってから、こんなに体操が楽しくない…。この体の変化に悩んだんですよね」
「普通の選手は徐々に身長も伸びていって、徐々に体重も増えていくんですけど、私の場合は怪我をしてストップしてしまったので、一気に増えたんですよ。それで自分の体操人生の計画っていうのが全部ズレてしまって」
「(アテネ五輪は)すぐもう諦めました。あ、もうムリだって」「ホントはいちばん高校3年間でグンッ!って日本代表に向かって伸びていくところを…まったく笑わなくなったんですね。ちょうど反抗期もあるんですよ、高校生の。いろんなことが気になったりとか。お友達も人生楽しんでるし(笑)」
それでも心のどこかに体操を好きだという気持ちがあってやめられなかったという田中さん。そんな中でも家族は見守ってくれたそうです。
「その時も、お父さんはいっさい怒らなくて。体操を楽しめって。長く体操人生を見なさいって。で、まずは怪我してる足首だったり、痛いところを治しなさいって。で、お母さんはずっと、笑ってなよ〜とか。なんで練習しないの!みたいなことを1回も言われたことがなくて」
「でも、高校3年生の時に1回、体操をやめたいと思ったんですね、初めて。で、お母さんに、もうやめたいって言ったら、どうぞやめてくださいって笑顔で言われたんですよ(笑)。で、明日からは通学路も変えて好きなことやってみなって言われて、1〜2ヶ月ぐらいちょっと休んだんですね。初めてお友達とカラオケ行って、いろんなもの食べて…とか(笑)ホントに女子高生がすることをやらせてもらった時にぜんぜん楽しくなかったんですね。あれ、これって楽しいのかな?って思って」
「で、兄と弟はもう日本代表に向かって一生懸命がんばってる。なんかこう兄弟も気になってきて、もう1回体操やりたいっていう気持ちになったので、お母さんに、やらせてくださいって言いに行ったら、はい!明日から行ってくださいってまた笑顔で言われて。余計怖くて(笑)。お父さんも…ま、高校の先生なので…やっぱり反抗期の生徒に対して怒っては意味ないっていうのもわかってくれてたみたいで」
「3兄弟ってケンカしたことないんですね。でも、その弟から怒られたんですよ。いつまでタラタラ練習やってんの?もっと真剣にやりなよって。グサッと心に刺さってしまって。そこから、一番強い日本体育大学に行こ!って心が決まりましたね。もう1回体操人生をやり直したいって。弟に感謝ですね(笑)」
そして、田中さんは日本体育大学に進学します。
「日体大に入った頃はオリンピック目指してなかったんです。もう1回、体操人生を楽しもう!で、まず足を治さなきゃいけなかったので、日体大に行って、その1年生の冬に足首の手術を思い切って決断しましたね」
「2年生はリハビリの年になったんですけど、この2年生の時期に体操人生が変わりましたね。初めて足にギブスまでして、ホントに練習ができないっていう時期を経験した時、仲間の練習を見て、置いていかれる…ってなんか焦ったんですよ。今までってそういう経験がなかったのと、和歌山にはあんまり私以外に強い選手がいなかったんですね」
「で、日体大に行くと、世界選手権の代表メンバー、オリンピックのメンバーっていう、こんなに頑張ってる人たちを目の前にした時に、負けたくない!っていう小さい時の負けず嫌いを思い出して」
「しっかり治してもう1回体操人生をやり直したいので、日体大のトレーナーの方とただただ練習するんじゃなくて、人の練習を見て頭に入ることもあれば、本を読んで精神的に成長するものもあるっていうのも聞いて。そっから全部いろいろやってみた時に、体操への向き合い方っていうのが変わりましたね」
そんな大学時代に田中さんのオリンピックに対する気持ちにも変化があったようです。
「まだまだオリンピックはホントにムリだってずっと思いながら…(その時は)21歳です…とにかく大学4年生、楽しい体操を取り戻そう!っていうのが目標だったので」
「2008年の北京オリンピックの予選会に出させてもらった時に、速報を見た時に個人総合8番だったんですよ。で、オリンピック選手は当時5人行けたんですね。あれ?あと3人抜かせば私オリンピックのメンバーじゃん…って思った時に、オリンピックは夢って思ってたのが目標にガラッと変わって」
「で、だいたい試合が終わった次の日はみんな休むんですけど、次の日から練習に行って、4年計画っていうのを立てたんですね」「2009年はまず大学のユニバーシアードの大会に出場する、世界大会。で、そのあと2010年はオランダの世界選手権。で、2011年は東京の世界選手権。で、2012年がロンドンのオリンピック。この1年をぜんぶ代表で出てやるんだっていう。夢だったオリンピックがもう絶対に出る!っていう気持ちに変わっていて、そっからまた体操に対する姿勢と私生活も変わりました」
体操界ではかなりの遅咲きだったという田中さん。日体大では監督やコーチにも恵まれたそうです。
「体操界では身長も体もしっかりしてる方なんですよ。で、その身長だったりダイナミックな演技をどう活かすか?って監督と話し合いをした時に、田中理恵は田中理恵の体操を作ればいいと」
「例えば、鶴見虹子選手って小さくて可愛かったじゃないですか。ここと比べてもなんにも意味がない。田中理恵は田中理恵、鶴見虹子は鶴見虹子。一人ひとりの体操を作っていくって考えた時に、じゃあ、あなたは減点の少ないダイナミックで大学生らしい大人の演技をしなさい、そこでポイントを稼いでいくのがいいっていうのを聞いた時に自信になったんですね」
「あ、この体でもいいんだ、あんな4回も回らなくていいんだ(笑)捻らなくていいんだっていう自信になったので。じゃ、キレイな体操を目指そう!っていう気持ちになりました。そっからがもう楽しくて楽しくて。ま、つらいこともありますけど」
来週も引き続き、田中理恵さんをお迎えします!