吉田栄作さんがアメリカに渡った理由を語る(2021/04/17 放送)
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今週は、吉田栄作さんをお迎えしました。
1988年にデビューした吉田さん。芸能界を目指すようになったのは16歳の時だったとか。
「その時デートで、新宿センタービルっていうビルの50何階でお茶を飲んだ時にグラウンドレベルを見て。スクランブル交差点を行き交う人の小ささを見て、あ、自分もあの中の一粒だなと。で、いつかみんな死ぬし、人生は1回だから、自分が死んだ時に何か残る…(仕事をしようと)」
「それが、僕の場合はなぜか芸能界と直結しましたね。その次の日に部活をやめて。小5から始めたバスケ部を俳優になるんでやめますと。カッコいいことに憧れたんだと思います。カッコつけマンだから」
そんな吉田さんがデビューするきっかけを掴んだのは、高校卒業後にバイトしていた渋谷のカフェバーだったそうです。
「けっこう業界の人がランチとかディナーを食べに来るようなお店だったんですね。そこによくランチを食べに来てくれるお客さんで、吉田さんっていうスタイリストの女性がいたんですよ。で、あんた俳優目指してんだよね?これでも出てみたら?って1枚のチラシをくれたんです。それが、フジテレビが主催する『ナイスガイ・コンテスト・イン・ジャパン』っていうコンテストだったんですよ」
「結果、そのコンテストでグランプリを獲る。そこに東映のプロデューサーの方も来てまして、今ちょうど正月映画のヒロインの相手役を募集するオーディションをしてるんだけどキミも出てみないか?って言われて出たんですね。で、そこで決まったんです、デビューが。で、デビューするレコード会社の社長も偶然そこにいらしてたんですよ」
吉田さんは『ナイスガイ・コンテスト・イン・ジャパン』でグランプリに輝いた瞬間をこう振り返ってくれました。
「まさか、そのコンテストで自分がホントに頂点に立つとは思ってませんでした、正直。だけど最後、決勝でブワァンッてドラムロールの中でスポットライトが2個回るじゃないですか。その時に、自分じゃなくてもいいから一歩前に出てやれと思ったんですよ。で、ドンッ!ってなった瞬間に一歩前に出たら、僕に光が当たってたっていう感じです。ホントです。ビックリしましたよ」
「(一歩前に出たのは)友達とかが地元から観に来てくれたりしたんで、そいつらを笑かせればいいやと。僕も恵さんと一緒で、ちょっと人を笑かすことも好きなんですよ(笑)」
また、吉田さんはビッグウェーブに乗っていたデビュー当時の心境についてこんなふうに話してくれました。
「もちろんそりゃ嬉しいですよ。嬉しいけど、うわっ、なんかすげえぞ!っていう。僕サーファーなんで、それこそビッグウェーブってメチャクチャ怖いんですよね。でも、これ行くぞ!っていう時って気合入るじゃないですか。でも、どうなるかわかんないっていう」
「僕はもう高校時代から、俺は絶対やってやる!って言ってましたから(笑)。だけど、できるなんて思ってませんよ。全然。とりあえず言っとこうと。自分がホントにカッコ悪い、弱虫、ヘタレだってことは自分が一番わかってますから」
デビュー後はトレンディドラマや映画などで俳優として大活躍し、歌手としても大ヒットを飛ばした吉田さんですが、1995年にアメリカのロサンゼルスに渡ることを発表。突然のことに世間は驚きましたが、実はその何年も前から計画していたことで、時間をかけて準備をしていたそうです。
「(1991年に)僕は『もう誰も愛さない』っていうドラマで主演をやらせてもらったんですね。僕が22歳の時でした。その時に、自分が16歳で思い描いてた夢が全部叶ってたんですよ。それこそ紅白にも出れたし、ドラマで主演もできたし、とか。浜田省吾さんの音楽に感化されてね。『MONEY』って曲があって、いつか奴らの足元にビッグマネー叩きつけてやる!っていうような。そういうものが自分の中で満たされてたんですよね」
「自分の中では満たされた感がある時に、そのドラマの最終回で僕が演じた男が死んでいくんですけど、その死に場所が、西新宿の都庁のビルの一番下のグラウンドレベルで…」「僕が16の時に見た景色じゃないですか」
「で、その時に僕が最後に言った台詞が…これ、台本には当初なかった台詞で監督と一緒に考えさせてもらったんですけど、どこへ行こうかこれから…って台詞で最後死んでいくんですね。僕が16の時に見た所で僕の夢が叶って、僕の役は死ぬんですよ。だから、なんかもう夢がそこで終わるんですよね」
「その時に、何か自分を俯瞰で見た時に、なんかまだ自分の中では勉強不足だったりとか、だいぶ早くここへ来ちゃったぞ、っていう感が実はあったんです。あと、自分の名前っていうのがだいぶ自分から遠くへ行っちゃってるな、凄くかけ離れちゃってるなっていうのがあって。それをちょっと埋める時間を作んなきゃなぁって思い始めたのが(アメリカに渡る)4年前なんですよ」
「新聞で発表したりすると突然に思いますけど、周りの近いスタッフにはその頃から少しづつ…」
吉田さんは、自分の実態と虚像とのギャップを埋める場所としてロサンゼルスを選んだ理由をこう話してくれました。
「なぜなら、まず休むことが必要だと。僕は海も好きだし、サーフィンをするんで、あそこにはブルースカイとオーシャンがあるじゃないですか。で、勉強もしたいと。勉強できるじゃないですか。ハリウッドがあるんで。時間がたったら挑戦もしたいなと思ったんで。だから、休めて、勉強できて、で、いつか挑戦もできる、ぜんぶ揃ってるのが世界中であそこだったんですよ」
そして、それまでには得られなかった自由な時間を過ごしながら、吉田さんは少しずつ自分を取り戻していったそうです。
「まずアパート探しとか。車社会なんで車を…」「周りに日本人がいなかったんで、もう生活の中で英語を学べて…ホントに耳から聞いてね。だから1回まっ白くなりましたよね。習っては行ったものの」
「(アメリカにいたのは)トータルで3年だったんですけど、行く時はまず帰ってくることを考えてないんですよね。で、2年たった時に、NHKの岡崎栄さんっていう大監督さんがいらっしゃるんですけど、『流通戦争』っていうドラマがありまして、お前で撮りたいからちょっと帰ってきてくれないか?っていうような話があって、それで1回(日本に)帰ったんですけど、また(アメリカに)戻っちゃったんですよ」
「それで、向こうのアジアンチャンネルを見てると、大河ドラマとかをやってるんですよ。で、俺そういえば自分で一通りやった感があったけど、いわゆる時代劇とか大河ドラマとか、意外とやり残してきたこと、やってなかったこともまだまだあるんだなぁ…なんて思ってたら電話が鳴って。大河ドラマからのオファーだったんですよ(笑)。『元禄繚乱』っていう、中村勘三郎さん…当時は勘九郎さんでしたけど…が主演をやるっていう。なんか渡りに船ってこういうことかなぁと思って。じゃあちょっと(日本に)帰ってみるわって。で、時間は3年過ぎてました」
ちなみに、2019年のアルバム『We Only Live Once』に収録されている曲「砂漠に車を止めて」は、アメリカにいた時に出来たんだとか。「アメリカで住んでたウエストハリウッドのアパートで、ある時、夜中の2時、3時にぽっと起きて、あ!今、曲が出来る!と思って出来た曲」「僕のソウルソング、魂の曲としてそれからずっと大事に歌い続けている」とおっしゃっていました。
↓今年6月に、延期になっていた歌手デビュー30周年ツアー『We Only Live Once』を行う吉田さん。
来週も引き続き、吉田栄作さんをお迎えします!
1988年にデビューした吉田さん。芸能界を目指すようになったのは16歳の時だったとか。
「その時デートで、新宿センタービルっていうビルの50何階でお茶を飲んだ時にグラウンドレベルを見て。スクランブル交差点を行き交う人の小ささを見て、あ、自分もあの中の一粒だなと。で、いつかみんな死ぬし、人生は1回だから、自分が死んだ時に何か残る…(仕事をしようと)」
「それが、僕の場合はなぜか芸能界と直結しましたね。その次の日に部活をやめて。小5から始めたバスケ部を俳優になるんでやめますと。カッコいいことに憧れたんだと思います。カッコつけマンだから」
そんな吉田さんがデビューするきっかけを掴んだのは、高校卒業後にバイトしていた渋谷のカフェバーだったそうです。
「けっこう業界の人がランチとかディナーを食べに来るようなお店だったんですね。そこによくランチを食べに来てくれるお客さんで、吉田さんっていうスタイリストの女性がいたんですよ。で、あんた俳優目指してんだよね?これでも出てみたら?って1枚のチラシをくれたんです。それが、フジテレビが主催する『ナイスガイ・コンテスト・イン・ジャパン』っていうコンテストだったんですよ」
「結果、そのコンテストでグランプリを獲る。そこに東映のプロデューサーの方も来てまして、今ちょうど正月映画のヒロインの相手役を募集するオーディションをしてるんだけどキミも出てみないか?って言われて出たんですね。で、そこで決まったんです、デビューが。で、デビューするレコード会社の社長も偶然そこにいらしてたんですよ」
吉田さんは『ナイスガイ・コンテスト・イン・ジャパン』でグランプリに輝いた瞬間をこう振り返ってくれました。
「まさか、そのコンテストで自分がホントに頂点に立つとは思ってませんでした、正直。だけど最後、決勝でブワァンッてドラムロールの中でスポットライトが2個回るじゃないですか。その時に、自分じゃなくてもいいから一歩前に出てやれと思ったんですよ。で、ドンッ!ってなった瞬間に一歩前に出たら、僕に光が当たってたっていう感じです。ホントです。ビックリしましたよ」
「(一歩前に出たのは)友達とかが地元から観に来てくれたりしたんで、そいつらを笑かせればいいやと。僕も恵さんと一緒で、ちょっと人を笑かすことも好きなんですよ(笑)」
また、吉田さんはビッグウェーブに乗っていたデビュー当時の心境についてこんなふうに話してくれました。
「もちろんそりゃ嬉しいですよ。嬉しいけど、うわっ、なんかすげえぞ!っていう。僕サーファーなんで、それこそビッグウェーブってメチャクチャ怖いんですよね。でも、これ行くぞ!っていう時って気合入るじゃないですか。でも、どうなるかわかんないっていう」
「僕はもう高校時代から、俺は絶対やってやる!って言ってましたから(笑)。だけど、できるなんて思ってませんよ。全然。とりあえず言っとこうと。自分がホントにカッコ悪い、弱虫、ヘタレだってことは自分が一番わかってますから」
デビュー後はトレンディドラマや映画などで俳優として大活躍し、歌手としても大ヒットを飛ばした吉田さんですが、1995年にアメリカのロサンゼルスに渡ることを発表。突然のことに世間は驚きましたが、実はその何年も前から計画していたことで、時間をかけて準備をしていたそうです。
「(1991年に)僕は『もう誰も愛さない』っていうドラマで主演をやらせてもらったんですね。僕が22歳の時でした。その時に、自分が16歳で思い描いてた夢が全部叶ってたんですよ。それこそ紅白にも出れたし、ドラマで主演もできたし、とか。浜田省吾さんの音楽に感化されてね。『MONEY』って曲があって、いつか奴らの足元にビッグマネー叩きつけてやる!っていうような。そういうものが自分の中で満たされてたんですよね」
「自分の中では満たされた感がある時に、そのドラマの最終回で僕が演じた男が死んでいくんですけど、その死に場所が、西新宿の都庁のビルの一番下のグラウンドレベルで…」「僕が16の時に見た景色じゃないですか」
「で、その時に僕が最後に言った台詞が…これ、台本には当初なかった台詞で監督と一緒に考えさせてもらったんですけど、どこへ行こうかこれから…って台詞で最後死んでいくんですね。僕が16の時に見た所で僕の夢が叶って、僕の役は死ぬんですよ。だから、なんかもう夢がそこで終わるんですよね」
「その時に、何か自分を俯瞰で見た時に、なんかまだ自分の中では勉強不足だったりとか、だいぶ早くここへ来ちゃったぞ、っていう感が実はあったんです。あと、自分の名前っていうのがだいぶ自分から遠くへ行っちゃってるな、凄くかけ離れちゃってるなっていうのがあって。それをちょっと埋める時間を作んなきゃなぁって思い始めたのが(アメリカに渡る)4年前なんですよ」
「新聞で発表したりすると突然に思いますけど、周りの近いスタッフにはその頃から少しづつ…」
吉田さんは、自分の実態と虚像とのギャップを埋める場所としてロサンゼルスを選んだ理由をこう話してくれました。
「なぜなら、まず休むことが必要だと。僕は海も好きだし、サーフィンをするんで、あそこにはブルースカイとオーシャンがあるじゃないですか。で、勉強もしたいと。勉強できるじゃないですか。ハリウッドがあるんで。時間がたったら挑戦もしたいなと思ったんで。だから、休めて、勉強できて、で、いつか挑戦もできる、ぜんぶ揃ってるのが世界中であそこだったんですよ」
そして、それまでには得られなかった自由な時間を過ごしながら、吉田さんは少しずつ自分を取り戻していったそうです。
「まずアパート探しとか。車社会なんで車を…」「周りに日本人がいなかったんで、もう生活の中で英語を学べて…ホントに耳から聞いてね。だから1回まっ白くなりましたよね。習っては行ったものの」
「(アメリカにいたのは)トータルで3年だったんですけど、行く時はまず帰ってくることを考えてないんですよね。で、2年たった時に、NHKの岡崎栄さんっていう大監督さんがいらっしゃるんですけど、『流通戦争』っていうドラマがありまして、お前で撮りたいからちょっと帰ってきてくれないか?っていうような話があって、それで1回(日本に)帰ったんですけど、また(アメリカに)戻っちゃったんですよ」
「それで、向こうのアジアンチャンネルを見てると、大河ドラマとかをやってるんですよ。で、俺そういえば自分で一通りやった感があったけど、いわゆる時代劇とか大河ドラマとか、意外とやり残してきたこと、やってなかったこともまだまだあるんだなぁ…なんて思ってたら電話が鳴って。大河ドラマからのオファーだったんですよ(笑)。『元禄繚乱』っていう、中村勘三郎さん…当時は勘九郎さんでしたけど…が主演をやるっていう。なんか渡りに船ってこういうことかなぁと思って。じゃあちょっと(日本に)帰ってみるわって。で、時間は3年過ぎてました」
ちなみに、2019年のアルバム『We Only Live Once』に収録されている曲「砂漠に車を止めて」は、アメリカにいた時に出来たんだとか。「アメリカで住んでたウエストハリウッドのアパートで、ある時、夜中の2時、3時にぽっと起きて、あ!今、曲が出来る!と思って出来た曲」「僕のソウルソング、魂の曲としてそれからずっと大事に歌い続けている」とおっしゃっていました。
↓今年6月に、延期になっていた歌手デビュー30周年ツアー『We Only Live Once』を行う吉田さん。
来週も引き続き、吉田栄作さんをお迎えします!