虚弱児だった飯沼誠司さんがライフセーバーになるまで(2020/08/08 放送)
今週は、プロライフセーバーの飯沼誠司さんにリモート収録でお話を伺いました。
千葉の海を拠点にライフセーバーとして活動している飯沼さん。今年の夏は新型コロナの影響で海水浴場が開設されていないため、平日は都内で仕事をしながら週末に海で巡回パトロールをしているそうですが、今年は例年にない苦労も増えているとか。
千葉の海を拠点にライフセーバーとして活動している飯沼さん。今年の夏は新型コロナの影響で海水浴場が開設されていないため、平日は都内で仕事をしながら週末に海で巡回パトロールをしているそうですが、今年は例年にない苦労も増えているとか。
「例えば、社会人の方を含めてかなり多くの方も僕らのチームに参加してもらってるんですけど、会社がボランティア活動でもNGを出してしまったりとか。あとは家族の反対があったりとか、いろんな方がいるので」
「それぞれの自治体、県単位でのガイドラインがたくさん出てますけど、浜で2メートル確保しようとか、きちんと検温をしましょうとかっていうのはなかなか難しい状況でして。その中で特にライフセーバーとしても困っているのは、海水浴っていうエリアがないので、ライフセーバー自身の安全を守るためにも活動を救助する範囲が無限大になってしまうので…」
「我々は千葉なんですけども、海上保安庁などとの連携をきちんとやっていかなきゃなっていうことを考えてます」
日本人で初めてライフセーバーのプロになった飯沼さんは、1974年生まれの現在45歳。今は鍛え上げられた肉体の持ち主ですが、実は子供の頃はぜんそくで苦しんでいたそうです。
「かなり虚弱で、小さい頃の友達には今は人を助ける活動をしてるんだっていうことを疑われるぐらい弱くて…」「高校の時のあだ名は“もやし”ですからね(笑)。白くて細くて…」
「アレルギーとか喘息とか。ケガも多かったので、ホントに毎日、1週間の中で内科から外科からいろんなところにお世話になっていたような状況ですね」
そんな飯沼さんが3歳から水泳を始めたのは、ぜんそくのためだったそうです。
「心肺機能を鍛えるのと、あとは乾燥しないで湿気がある状態で息ができるので、発作が出にくいということだったんですね、当時は。今はどこまで医学的に進んでるかわからないですけど、当時はそういう説明を受けて」
そして、小学校2年生の頃から1日1万メートルも泳いでいたという飯沼さん。小学校5年でジュニアオリンピックに出場するなど、水泳の実力をどんどん伸ばしていきました。
「その間も日々発作に見舞われながら、それでも水泳だけはやめなかったんですよね。やはり周りに目標になる人がいたりとか、後は水泳って自分が本当に頑張れば自分に帰ってくるというか。0.1秒の争いですけど、それが凄く鮮明に現れる競技なので、僕自身には凄くわかりやすかったです」
「ガールフレンドがいた時も、付き合ってても1回もデートしてないって言われたぐらい、ホントに部活に集中していました。それが付き合ってるっていうのかはちょっとわからないですけど…。同じ地元で高校の駅もたまたま一緒だったんですけど、1回も学校に一緒に行ったこともなかったっていう」
高校卒業後は東海大学に進学した飯沼さんですが、その頃には競泳のタイムを伸ばすことに限界を感じていたそうです。
「自分自身でもう厳しいかなと思っていたんですが、やはり3歳から強くなるためにずっと続けてきたことなので、水泳からまったく離れるっていうことは選択肢になかったんですね」
「トライアスロンとかいろいろ考えたんですけど、トライアスロンは結構お金もかかりますので。1回門を叩いたんですけど、バイク(自転車)が100万円前後するとか、1回遠征に行くのに10万円かかるよ、とかって言われたので。当時、僕は親との話の中で、アルバイトをして学費を稼いで大学を出るっていう約束をしていたので、部活にそこまでお金を払えないなと」
そんな飯沼さんにとっての新たなチャレンジとなったのがライフセービングでした。
「海外の逞しいライフセーバーの人たちがもの凄い波を超えてレースをしているシーンとか、実際に荒れ狂った海で救助をしているシーンを見て、こんなに逞しい人がいるんだな、っていう憧れですよね」
「そこでライフセーバーになって僕も逞しくなりたいと。だから最初から人を助けようっていうことよりは、まずは自分が強くなるために目標として始めたっていうのがきっかけですね」
飯沼さんは大学のライフセービング部に入った頃のことをこう振り返ってくれました。
「まず最初に入ったらライフセーバーの資格を取らなきゃいけないんですよ」
「今は中学生から取れる資格と高校生から取れる資格もあるんですけども、当時はベーシック サーフライフセーバーっていう資格があって、人を救うために必要な要素をプールと海でやるっていう」
「当時はAEDとかの使い方はなかったので、心臓マッサージ、人工呼吸。あとは実際に水から人を引き上げて、砂浜まで安全な場所に持ってきてからのCPR(心肺蘇生法)の手順を習ったり。あとはレスキューボードを使って、意識がある人となかった人のそれぞれの載せ方ですね。それで安全に波に巻かれずに陸まで帰ってくる方法とか」
「1年目の5月6月で資格を取って。で、7月8月は丸々、夏のライフガード業務に入るわけですよ。で、我々は湘南界隈ですので、あの辺のビーチをひと夏やったチームでそのまま全日本選手権に出るんですよね」
飯沼さんは競技としてのライフセービングをこんなふうに説明してくれました。
「実際に溺者を見立ててどれだけ早く行って帰ってこれるか、そういう内容です。サーフレースっていう泳ぎだけのレースもあるんですけど、沖にブイが張ってあって、それを回って帰ってくる」
「で、よくテレビとかで取り上げられるのは、ビーチフラッグスですよね。砂浜で20メーター先のホースを…」「砂浜で足場が悪いところで瞬発力を鍛えるっていうトレーニングの一環でもあるので」
飯沼さんは、ライフセービング競技の中でも花形とされる『アイアンマンレース』(現在はオーシャンマンレース)をずっとやっていたそうで、全日本5連覇を達成したこともあるとか。
「(アイアンマンレースは)いわゆるトライアスロンの原型になっているスポーツでもあるんですけど、サーフスイム(泳ぎ)とパドルボード、あとはサーフスキーというカヌーですね。大きな波も上から超えていくような感じ。で、帰りに凄い大きな波をそれで乗りこなして帰ってくると」
ライフセービングのプロの世界では、たとえ嵐や台風が来ても絶対にレースをやるんだそうです。
「人を救うためという目標があって、そのレベルを上げるためにこのライフセービングスポーツっていうのは必要不可欠ですので。やはりどんな状況でもライフセーバーが行けるようにしようっていうのがコンセプトなんですよ」
「僕がライフセービングをちょうど始めた時に、世界では2分に1人、水の事故で死んでいるっていうふうに言われたんですよね。データがあって」「で、今はそれよりもうちょっと早くなって、1分45秒から1分30秒に1人、溺水で亡くなってるっていう状況になっているので…」
ちなみに、ライフセービングはオリンピックの種目ではありませんが、第2のオリンピックとも言われる『ワールドゲームズ』に入っています。
「『ワールドゲームズ』に入ってると、オリンピックに昇格というか進んでいく競技もありますので。ライフセービングとしては数年後にオリンピック種目になりうると思って今動き始めている部分もありますね」
「人を救う唯一のスポーツがオリピックになったら凄く意義があると思います」