池田信太郎さんが遅咲きのバドミントン人生を振り返る!(2019/11/16 放送)
今週は、元バドミントン日本代表の池田信太郎さんをお迎えしました。
2008年の北京オリンピックに男子ダブルスで出場し、2012年のロンドンオリンピックには、潮田玲子選手との“イケシオ”ペアとして混合ダブルスで出場した池田さん。1980年生まれで、バドミントンを始めたきっかけはお父様がバドミントンのコーチをやっていたことだったそうです。
「福岡県の遠賀郡岡垣町というところで生まれたんですけども、町でクラブを運営していた親父に教わったというか、自然にバドミントンが身近にあったっていう…」
小学校4年生の頃には福岡でトップ、九州大会でも3位に入るぐらいの実力だったという池田さん。中学からは全国大会があるので、必ず全国に行けると思っていたそうですが…
「中学に進むと成長期で、個人の体の大きさの差もけっこう出てきて、今までどちらかというと技術的なところに長けていた自分の能力が体の成長と共に他の大きな選手に負けてくるっていう現実があって。そこで思いの外ぜんぜん勝てなかったんですよね。で、中学は全国大会に行けずに終わってしまった…っていうのが僕の一番初めての挫折でしたね」
それでも池田さんは高校では絶対に全国大会に出て見返してやろうと思っていたとか。
「諦めなかったですね。やはり悔しいなっていう気持ちと、あと自分が強くなるかどうかはわかんなかったんですけど、その当時の監督に、お前がちゃんと練習すれば国内の同級生の選手にも絶対に負けないような実力があるからちゃんと努力しろ、みたいなことを言われた時があったんですよね。凄く凄く嬉しくて…」
そして、高校では見事に全国大会に出場し、大学は筑波大学に進んだ池田さん。しかし、その後の歩みは必ずしも順調というわけではなかったようです。
「思えば思うほど どんどんハマっていっちゃうんですよね。勝てない勝てない、どうしたら勝てるんだろう?っていうので、深いところに行っちゃって立ち直れなくなっちゃうっていうか…。やりたくない、はあまりなかったですね。まだまだいけるっていうのはずっと思ってました」
池田信太郎さんの弟・雄一さんもバトミントンの実力選手でしたが、実は、両親から期待されていたのは弟さんの方だったとか。
2008年の北京オリンピックに男子ダブルスで出場し、2012年のロンドンオリンピックには、潮田玲子選手との“イケシオ”ペアとして混合ダブルスで出場した池田さん。1980年生まれで、バドミントンを始めたきっかけはお父様がバドミントンのコーチをやっていたことだったそうです。
「福岡県の遠賀郡岡垣町というところで生まれたんですけども、町でクラブを運営していた親父に教わったというか、自然にバドミントンが身近にあったっていう…」
小学校4年生の頃には福岡でトップ、九州大会でも3位に入るぐらいの実力だったという池田さん。中学からは全国大会があるので、必ず全国に行けると思っていたそうですが…
「中学に進むと成長期で、個人の体の大きさの差もけっこう出てきて、今までどちらかというと技術的なところに長けていた自分の能力が体の成長と共に他の大きな選手に負けてくるっていう現実があって。そこで思いの外ぜんぜん勝てなかったんですよね。で、中学は全国大会に行けずに終わってしまった…っていうのが僕の一番初めての挫折でしたね」
それでも池田さんは高校では絶対に全国大会に出て見返してやろうと思っていたとか。
「諦めなかったですね。やはり悔しいなっていう気持ちと、あと自分が強くなるかどうかはわかんなかったんですけど、その当時の監督に、お前がちゃんと練習すれば国内の同級生の選手にも絶対に負けないような実力があるからちゃんと努力しろ、みたいなことを言われた時があったんですよね。凄く凄く嬉しくて…」
そして、高校では見事に全国大会に出場し、大学は筑波大学に進んだ池田さん。しかし、その後の歩みは必ずしも順調というわけではなかったようです。
「思えば思うほど どんどんハマっていっちゃうんですよね。勝てない勝てない、どうしたら勝てるんだろう?っていうので、深いところに行っちゃって立ち直れなくなっちゃうっていうか…。やりたくない、はあまりなかったですね。まだまだいけるっていうのはずっと思ってました」
池田信太郎さんの弟・雄一さんもバトミントンの実力選手でしたが、実は、両親から期待されていたのは弟さんの方だったとか。
「自分でも不思議だなと思うんですよ。お父さんにも言われるんですけど、ホントにお前は遅く来たなと。はじめ期待していたのは雄一だぞと。弟もインターハイを獲って、これはオリンピック行けるぞと。で、まさか僕が?みたいな(笑)」
「一回、弟とシングルの試合をやったことがあるんですよ。で、母ちゃんが応援に来てたんですよね。僕が筑波大学4年生かな。弟が高校3年生でインターハイチャンピオンで」
「うわ、これ負けれねえな…と思ったけど、結局、僕は負けたんですよ。でも、お母さんは弟の方を応援してたんですね。雄一!頑張れ〜!って。お前、兄弟でやってんのにそれはねえだろって(笑)」
そんな経験をしても、弟に対する嫉妬は「まったくなかったです」という池田さん。ある時期から「自分の置かれた環境は全てある程度受け入れる」ようになったそうです。
「スポーツ選手も、自分の成績以外のところで何か自分の不満だとか文句だとかを言うと、面白いことに返ってくるんですよね。与えられた環境もそうですけど、すべて受け入れて、そこで初めて自分の練習環境が整うというか」「そっちの方が自分も負担じゃないというか、自分の解釈で上手く物事を選ぶことができる」
そんな池田さんの考え方に影響を与えたのは大学時代の恩師だったとか。
「筑波大の時の監督が哲学者みたいな方だったんですね。僕が大学で練習している時に一番初めに言われたのが…ふつう練習する時にシャツを(ズボンから)出すじゃないですか。でも、筑波大のルールは、必ずシャツは入れなさいと。なぜならバドミントンは非常に歴史があって、紳士たるスポーツであると。だから、必ず服装はシャツを入れてプレーしなさいと」
「で、プレーをする時は、ポイントを獲ったとしても相手にガッツポーズをするような選手になるなと。なぜなら、相手を威嚇しなければならないような戦い方をするのであれば負けると。ガッツポーズもせずにしっかり自分の中で芯を作っていれば必ず勝てるから、そういう強い選手になりなさいと。僕のバドミントン観を凄く変えてくれたというか、バドミントン以上にいろんなことを教えてくれた先生でしたね」
来週も引き続き、池田信太郎さんをお迎えします。