安東弘樹さんがフリーに転向した理由とは?(2019/09/14 放送)
先週に引き続き、今週もフリーアナウンサーの安東弘樹さんをお迎えしました。
高校・大学時代は弓道部で活動しつつ、家族を養う手助けとしてアルバイトに打ち込んだ安東さん。メディアを目指した最初のきっかけは小学生の時に太平洋戦争時の話を聞いたことだったそうで、就職活動ではいろいろなテレビ局を受けたとか。
「大学4年生になったばかりの時に日本テレビの“アナウンスセミナー”っていうのが学生課に貼ってあったんですよ。で、日本テレビさんに行きました。そしたらいっぱい人がいて、順番に呼ばれて、どうやら面接をやっています…。なんだこれは?と思いまして。僕以外は全員知ってたらしいんですけど、それはセミナーという名前の就職活動の面接で。それでなぜか通ってですね」
「自己紹介も体育会方式しか知らなかったんで、腕を後ろに組んで足を開いて、『オッス!自分、成城大学 体育会 弓道部 第24代主将 安東弘樹と申します!生活信条!』とか言って」「気づいたら27人ぐらいに選ばれていて。たぶん変わってたんでしょうね」「その後に他の局の面接もありまして。いくつか最終みたいなところに行って…」
そして、安東さんは1991年4月にアナウンサーとしてTBSに入社し、様々な番組で活躍。チャレンジ型の仕事も多かったそうです。
高校・大学時代は弓道部で活動しつつ、家族を養う手助けとしてアルバイトに打ち込んだ安東さん。メディアを目指した最初のきっかけは小学生の時に太平洋戦争時の話を聞いたことだったそうで、就職活動ではいろいろなテレビ局を受けたとか。
「大学4年生になったばかりの時に日本テレビの“アナウンスセミナー”っていうのが学生課に貼ってあったんですよ。で、日本テレビさんに行きました。そしたらいっぱい人がいて、順番に呼ばれて、どうやら面接をやっています…。なんだこれは?と思いまして。僕以外は全員知ってたらしいんですけど、それはセミナーという名前の就職活動の面接で。それでなぜか通ってですね」
「自己紹介も体育会方式しか知らなかったんで、腕を後ろに組んで足を開いて、『オッス!自分、成城大学 体育会 弓道部 第24代主将 安東弘樹と申します!生活信条!』とか言って」「気づいたら27人ぐらいに選ばれていて。たぶん変わってたんでしょうね」「その後に他の局の面接もありまして。いくつか最終みたいなところに行って…」
そして、安東さんは1991年4月にアナウンサーとしてTBSに入社し、様々な番組で活躍。チャレンジ型の仕事も多かったそうです。
「まずはスポーツのキャスターをやって。僕は実況バリバリというよりは自分でやってみるっていう方向に行ったので。例えば、ベイスターズのキャンプに行って、朝のランニングから練習最後のジャグジーまで全部お付きあいさせて頂いて。楽しかったです。内野ノックも外野のノックもやって。ティーバッティングもやって。マシンバッティングもバント練習も全部やって…」
「当時、石井琢朗さんがバリバリの時代で。琢朗さんがトス上げてくれたり。もうバットは血だらけです。皮が剥けて。真剣さが伝わると選手の皆さんも『どうせテレビだろ』みたいな空気じゃなくなってくるんですよ。ありがたいことに。で、その時に血だらけになった石井琢朗さんのバットを頂きました。これ安東さんが今日やった証なんで、って。いまだに実家に置いてあります」
2018年3月に27年間勤めたTBSを退社した安東さん。「子供が小学生2人、6年生と3年生でしたね。家の35年ローンも残ってました」という中で退社を決断した理由をこう話してくれました。
「(TBSでは)いわゆるプレイングマネージャーという…アナウンサーの仕事をしながら最大13人のマネージメントの仕事をやっていて」「その当時の部長から『お前は仕事を減らさないで、マネージメントをやりながらも現役でバリバリできるっていうモデルを作ってくれ』みたいなことを言われたんですけど…モデルを作れなかったですね」
「4つぐらいのレギュラー番組をやりながら空き時間にパソコンを使って自分の班のアナウンサーの発注を受け、スケジュールの相談をし、現場に戻して控室の相談をし…というのを13人分やっていたので、ホントにキャパシティーを超えてしまって」
「例えば、自分の仕事の台本を読む時間なんかないんですよ。3時、4時までずっとパソコンに向かってやってるような状況で、夏休みもずっとパソコン持って行って、食事の時以外は家族に背を向けながらずっとマネージメント作業をやっているっていうような状況だったので」
「精神的にも肉体的にも両立ができないんだったら両方に迷惑をかけるし、実際に現場の仕事のミスなんかもありましたので。じゃあもう辞めるしかないのかなと思って…」
「ただ辞めることに関して言うと、肉体労働をしてでも家族を養うっていう自信がどこかにあったんですよ。それまでは今までの実績というか、母親ですら養ってこられたっていうのもあったんで」「あと、退職金をある程度頂いたっていうのもありますけど。そういう意味で恐怖はなかったんですよね」
「かみさんは、僕が夏休みもずっとパソコンを打ってる時から『ねえ、いつ辞めるの?いつ辞めるの?』って。天真爛漫な妻に精神的に救われてる部分はあるのかなと思いますね」
安東さんは会社を辞めてフリーアナウンサーになったことで、仕事の幅が広がったそうです。
「車が好きなので、カー・オブ・ザ・イヤーの選考委員会もさせて頂いて。それを機に車の仕事も…社員時代にはなかなかできなかった仕事もできるようになりました」
また、この先やりたいことについて聞くと、こんな答えが返ってきました。
「お声がけを頂いて、その1つ1つをとにかくご迷惑をかけないようにしていく、っていうことを繰り返すしかないと思っています。何の司会をしたいとかそういうのがまったくないんですよ。1つ1つできるだけ期待に答えるか、たまには期待以上のものが出せたらいいなと思ってるんですけど、1つ1つありがたくその仕事を重ねていくっていうことしか今は考えてなくて。マツコ・デラックスさんには、それじゃダメって言われましたけど」
「お話が来たらとにかく全力で立ち向かいます」
最後に安東さんはご自身にとっての挑戦について「未知との遭遇ですかね」と話してくれました。
「演技をするっていうのも今までほとんどなかったので、挑戦ってその繰り返しなんだなって思いますね」
「高校1年で初めてアルバイトした時もまさに未知との遭遇で…」「初めて社会人としてお金を頂くっていう行為をした時の感覚もまったくあせずに覚えてるんですよ。もちろん期待というよりはその時は不安の方が多かったんですけど、その感覚を一切忘れていないので、よりフリーランスという形で未知との遭遇を繰り返していくのかなと思ってますね」
番組では、そんな安東さんの挑戦に関するメッセージを色紙に書いて頂きました!こちらを1名様にプレゼントします。このホームページのメッセージフォームから「安東弘樹さんの色紙希望」と書いてご応募ください!