アンディこと安東弘樹さんがスペインでの経験を振り返る!(2019/09/07 放送)
今週は、フリーアナウンサーの安東弘樹さんをお迎えしました。
恵さんとは30年来の付き合いで、TBS時代には『王様のブランチ』や『ひるおび!』などで共演していた安東さん。1967年10月8日生まれの現在51才で、子供の頃はスペインに住んでいたこともあるとか。
「父親が音楽が元々好きだったんですよ」「ある大学のオーケストラの創始者なんですけど…」「結婚後、まず日本の音楽大学に4年間行ったんですよ。その後に極めたいということでスペインの王立音楽院に留学したんです。で、それに付いていった。父親が子連れ留学したんです」
「学生だからお金がないので、スペインでは食生活も含めて大変だったですね。5才と6才の時です。小学校に入学する直前まで。いやぁ面白い経験でしたね」
「その時に両親がけっこうケンカしたりしてるのを覚えてて。弟をなんとか守んなきゃいけない!みたいな。弟も一緒に行ってたので。弟を食わせるにはどうしよう?とか考えてました」
恵さんとは30年来の付き合いで、TBS時代には『王様のブランチ』や『ひるおび!』などで共演していた安東さん。1967年10月8日生まれの現在51才で、子供の頃はスペインに住んでいたこともあるとか。
「父親が音楽が元々好きだったんですよ」「ある大学のオーケストラの創始者なんですけど…」「結婚後、まず日本の音楽大学に4年間行ったんですよ。その後に極めたいということでスペインの王立音楽院に留学したんです。で、それに付いていった。父親が子連れ留学したんです」
「学生だからお金がないので、スペインでは食生活も含めて大変だったですね。5才と6才の時です。小学校に入学する直前まで。いやぁ面白い経験でしたね」
「その時に両親がけっこうケンカしたりしてるのを覚えてて。弟をなんとか守んなきゃいけない!みたいな。弟も一緒に行ってたので。弟を食わせるにはどうしよう?とか考えてました」
「(スペインでの経験は自分の中で)大きいと思います。あと、女性が輝いていたんですよ。ちょっと大好きでした。一緒に遊んでいた女の子が…」
「スペインの女の子、7才とかでもうピアスとか付けてるんですよ。で、色が真っ白で、ブロンドみたいなので、目が青くて。僕の手を持って、トントントンとか切る真似したりするんですよ。お料理の真似をして、僕の手を掴んで。何かに見立ててるんでしょうね。トントントン、パクパクとか。はむはむされちゃったりするんですよ」
「女性って素晴らしい!ってその時にインプットされました」「妙な独立心とか女性に対する憧れとかは間違いなくスペインで育まれたんだと思います」
スペインから帰国後は広島に行き、両親の離婚後は横浜にあるお母様の実家に戻ったという安東さん。その頃のことをこう振り返ってくれました。
「スペインの女の子、7才とかでもうピアスとか付けてるんですよ。で、色が真っ白で、ブロンドみたいなので、目が青くて。僕の手を持って、トントントンとか切る真似したりするんですよ。お料理の真似をして、僕の手を掴んで。何かに見立ててるんでしょうね。トントントン、パクパクとか。はむはむされちゃったりするんですよ」
「女性って素晴らしい!ってその時にインプットされました」「妙な独立心とか女性に対する憧れとかは間違いなくスペインで育まれたんだと思います」
スペインから帰国後は広島に行き、両親の離婚後は横浜にあるお母様の実家に戻ったという安東さん。その頃のことをこう振り返ってくれました。
「長男だったので…」「妹も生まれ、やっぱり一番上っていう意識もありました」「祖父が弁護士をやっていて割と大きめの家だったので、そこの家に引っ越した時には精神的な余裕が生まれつつ…」「でも…祖父が小学校4年の時に亡くなってしまって、そこからは経済的にも大変なんだっていうのを感じながら中学、高校と過ごしていたので、何か自分が支えなきゃいけないなっていう意識は芽生えましたね」
そんな安東さんがテレビ局を目指したきっかけは、小学生の時に聞いた戦争時代の話だったそうです。
「当時の日本人が、嘘の放送を、負けてるのに勝ってるって放送を聞いて『もうちょっと我慢すれば勝てる』と信じてみんな邁進していったのを知った時に、これはマズいなと思って、メディアに行きたいなと思ったんです。伝える側に」「もしかして本当のことを伝えられないような状況だったとしても、少なくともホントのことがわかるのかなと思ったんですよ」
「そういう大上段に構えて放送局を受けたんですけど、アナウンサーでしか合格できなかったんですよ。一般職、記者とかディレクターも受けたんですけど、全局落ちました。で、アナウンサーで拾っていただいたっていう感じなので…」
安東さんは、プロ野球の阿波野投手などを輩出した横浜市立 桜丘高校出身。高校、大学時代は弓道部だったそうで、弓道を始めたきっかけをこう話してくれました。
「阿波野さんは僕が入学した時にちょうど卒業されたんですけど、野球部が凄くいっぱいいて前年に決勝まで行ってたんで、中学で野球部じゃなかった僕はお呼びでないなっていう感じになってしまったんです」
「でも、何にもやらないっていうのが概念として自分の中になかったので、何かやろうかな…って思った時に、桜丘高校っていうぐらいですから、桜が散るところに袴を着て弓を持ったカッコイイ先輩とカワイイ先輩がこっちに歩いてきて、『君、弓道やらない?』みたいなことを言われ、『ちょっと見てみます』って」
「また、弓道場の両側が桜だったんですよ。フワァって桜が散る中で弓を発して的に当たるとイイ音がするんです。パアンって。もう導かれるがままに、『入ります!』って」「いやぁ、もうキラッキラでしたねぇ」「(それまでは)知らなかったです、弓道というものも」
また、安東さんは弓道についてこんなこともおっしゃっていました。
「大学まで7年間やることになるんですけど、変なものに足を突っ込んでしまった、みたいなことを思ってたんですね。特に大学時代は思うようにならなくて。主将をやるんですけど、あんまり強い大学ではなかったので、いろいろ苦労もしながら…」
「弓道は当たるか外れるか、だけなんです。真ん中に近いとかは関係なくて。丸かバツか、なんです」「僕、主将だったので、一番最後に打つんですよ。そうすると勝負のかかる矢っていうのが出てくるんですよ」「いちばん後ろの人が外すか当たるかで勝ち負けが変わる、みたいな状況が出てくるんですね。もう逃げたい…って思いながら」
そして、大学卒業後はまったく弓道をやっていなかったという安東さんですが…
「TBSの『炎の体育会TV』という番組で弓道を23年ぶりにやったんですよ。最初はぜんぜんダメでしたけど、練習していくとだんだん感が戻ってきて、楽しかったですね」
「考えてみると、スポーツキャスター時代も、自分の体を使っていろんなものに挑戦するっていうことが多かったり…。アナウンサーとしてはそういう仕事をありがたいことに頂いてやっていたことが多かったかもしれないですね」
また、安東さんは大学時代についてこんなことも話してくれました。
「高校からアルバイトをやって、まぁ高校は公立だったので月6千円ぐらいだったんですけど、大学は当時の共通一次試験というのを受ける自信もなく私立に行ってしまったので。でも、奨学金をいろいろ頂けて。成城大学ってどちらかと言うと裕福な方が行く大学ですので。わたくしは家の所得が少ないものですから、大学の奨学金をもらい放題という」
「母親に生活力がなかったので、迷惑をかけたくないどころか母親を養わなきゃいけなかったので。これはけっこう…でもね、楽しかったんですよ。やることがいっぱいあるって人間そんなに悪いことじゃないというか」
「講義も出て、部活をやって、夜働いて…っていう生活が、寝不足ではあったんですけど、今思えば充実にもほどがあるっていうぐらい。だから僕、パチンコとか大学生が覚えるものを隙間がなかったんで一切やったことがないんです」
「でも、その中でも素敵な女性がいたり、付き合っていた彼女がいたり…」「女性を崇めているので。女性って僕にとってはみんな女神なんですよ。その中で選んだ好きな彼女もいて…」「その彼女に精神的に支えられて…」
来週も引き続き、安東弘樹さんをお迎えします!