田中雅美さんが岩崎恭子さんとのライバル関係を振り返る(2019/09/21 放送)
今週は、スポーツコメンテーターの田中雅美さんをお迎えしました。
1979年1月5日、北海道生まれで、平泳ぎの選手として活躍した田中さん。96年のアトランタ、2000年のシドニー、2004年のアテネと3大会連続でオリンピックに出場し、シドニーでは銅メダルを獲得しましたが、来年の東京五輪を前に改めてオリンピックについてこう話してくれました。
「自分もあんな舞台にいたんだって。引退してから15年経っちゃって、なんか不思議な感覚で見てます」「もう緊張感が凄いので、ホントに手足が震えましたね。指先の感覚がビリビリ、ジリジリみたいな。全身に感覚細胞がある感じがしました。その緊張感は2度と味わえないと思います」
そもそも田中さんが水泳を始めたきっかけはお母様の怪我だったとか。
「両親とも元々、体育の教員をやっていたので、スポーツ一家ではありました。でも父はバスケット、母は陸上だったので、水じゃなかったんですよね。でも母が陸上の練習の時にアキレス腱を切ってリハビリで水泳を始めて、そのリハビリに私が一緒に着いて行って…」
「父の転勤先の地域にスイミングクラブがあって、そこで競技水泳を始めることになったのが小学校2年生ですね」「すぐに平泳ぎでした」
「最初のうちは北海道で5,6番とか…だから普通よりもちょっと学校では速いかな。岩見沢市で速い選手、ぐらいだったんですけど、小学校高学年、中学校に入ると全国大会に行けるようになり…でも全国だと負けちゃう」
「当時って、今からもう2,30年ぐらい前ですけども、中学生が日本代表になる時代なんですよね。例えば、岩崎恭子ちゃん。恭子ちゃんは同級生なので、中学2年の時に恭子ちゃんが(オリンピックの)金メダルを獲った時は、私は先行レースにも出てないです。遅かったので。北海道の田舎スイマーで…」
当時の岩崎恭子さんについて「憧れですね。勝つとか負けるとかよりも雲の上の存在でした」とおっしゃっていた田中さんですが、やがて岩崎さんと同じ舞台に立てるようになり、そこで大きな転機が訪れます。
「中3になったらやっと決勝に残れるようになったんです。そしたらその決勝で泳いでるメンバーというのはもう凄い人たちで。恭子ちゃんもいれば、日本選手権と言って日本代表を選ぶような試合に出ている子たちもたくさんいる中で、ポツンと北海道出身の選手が、私が入ったわけです」
「で、東京にあるスイミングクラブのコーチが、あれは誰だ?と。あの選手をちょっと育てたいと言ってくださって。東京のスイミングクラブ、そして高校の先生が北海道に来てくださって、東京でやりませんか?と。中学3年生の秋頃にオファーを頂きまして」
「当時は悩みましたけどね。単身です。条件が決まっていて、高校はここ、スイミングクラブはここ。住むところは合宿所ではなくて、学校の先生のご自宅の一間でした。で、来ますか?来ませんか?って言われて」
「母は、自分が陸上で東京に出たりしたかった思いがあったので、行ってみなさいって言ったんですけど、父親はやっぱり娘なので高校までは北海道でやった方がいいって反対してまして…まぁ、夫婦喧嘩でしたね。離婚危機だったそうです(笑)。後で聞いたら言ってました」
「でも、両親に感謝するのは、最終的には自分の人生だから自分で行くか行かないかを決めなさい、って選ばせてくれたんですよね。で、思ったのは、やらないで後悔するよりまず行ってみたいって」「あんまり深く不安を考えるよりは、現地でどんなお友達と出会えるんだろう?とか、どんな練習なんだろう?とか、そういう方が興味があったみたいですね」
そんな経緯で東京に出てきた田中さん。高校1年の時の日本選手権では100メートルと200メートルの平泳ぎで2冠を達成し、いきなり大きな飛躍を遂げます。
「急に記録が200メートルで4秒か5秒ぐらい伸びて、100メートルでも2秒ぐらい伸びて。私が今、水泳界を見ててもなかなかないぐらいの伸び率で、急に優勝しちゃいました」
「土台はたぶん北海道というものもあったと思うんですけど、やっぱり東京に出てきたことによって、水泳に対しての意識が変わったっていうのと、練習もレースをするやり方を教わったんだと思うんですよね」
その頃の田中さんは学校に行く前に朝練をして放課後にもまた練習するという日々だったそうです。
「恵まれていたのは、高校のクラスメイトだったり、スイミングの友達が受け入れてくれてたので、楽しくやれてたんだと思います」「日曜は休みでした。…昼まで寝たりとか。あとは先生の家だったのでね。でも、ボーイフレンドが出来た時はボーイフレンドと映画を観に行ったりはしてたと思います」
さらに95年、高校2年の時には100メートル平泳ぎの日本記録を11年ぶりに更新。
「ただ、その時って周りに日本記録保持者がいすぎて。同世代に。(岩崎)恭子ちゃんもそうだし、ずっと一緒にやってきた中村真衣っていう背泳ぎの選手も持ってたし。周りにいすぎて、それを特別だと思ったことがない…でもこれが良かったんだと思います」「充実してたと言えばそうですけど」
そして、96年のアトランタオリンピックでは、高校3年生にして100メートルと200メートルの平泳ぎ代表として出場します。
「いろんなライバルもいたんですけど…(岩崎)恭子ちゃんも2回目のオリンピックを目指していて。で、恭子ちゃんと2人して代表に選ばれました」
「嬉しかったですね。(選考レースは)1番でした。ただ、いろいろ言われました。恭子ちゃんに勝ったということで取材して頂いたりしたんですけど、恭子ちゃんはオリンピックという舞台で最高のパフォーマンスをしてメダルを獲ってるわけだから、勝ったという意識がまったくなかったですね。まず代表に選ばれたというだけだったので…その感覚はずっと最後までありましたね」
1979年1月5日、北海道生まれで、平泳ぎの選手として活躍した田中さん。96年のアトランタ、2000年のシドニー、2004年のアテネと3大会連続でオリンピックに出場し、シドニーでは銅メダルを獲得しましたが、来年の東京五輪を前に改めてオリンピックについてこう話してくれました。
「自分もあんな舞台にいたんだって。引退してから15年経っちゃって、なんか不思議な感覚で見てます」「もう緊張感が凄いので、ホントに手足が震えましたね。指先の感覚がビリビリ、ジリジリみたいな。全身に感覚細胞がある感じがしました。その緊張感は2度と味わえないと思います」
そもそも田中さんが水泳を始めたきっかけはお母様の怪我だったとか。
「両親とも元々、体育の教員をやっていたので、スポーツ一家ではありました。でも父はバスケット、母は陸上だったので、水じゃなかったんですよね。でも母が陸上の練習の時にアキレス腱を切ってリハビリで水泳を始めて、そのリハビリに私が一緒に着いて行って…」
「父の転勤先の地域にスイミングクラブがあって、そこで競技水泳を始めることになったのが小学校2年生ですね」「すぐに平泳ぎでした」
「最初のうちは北海道で5,6番とか…だから普通よりもちょっと学校では速いかな。岩見沢市で速い選手、ぐらいだったんですけど、小学校高学年、中学校に入ると全国大会に行けるようになり…でも全国だと負けちゃう」
「当時って、今からもう2,30年ぐらい前ですけども、中学生が日本代表になる時代なんですよね。例えば、岩崎恭子ちゃん。恭子ちゃんは同級生なので、中学2年の時に恭子ちゃんが(オリンピックの)金メダルを獲った時は、私は先行レースにも出てないです。遅かったので。北海道の田舎スイマーで…」
当時の岩崎恭子さんについて「憧れですね。勝つとか負けるとかよりも雲の上の存在でした」とおっしゃっていた田中さんですが、やがて岩崎さんと同じ舞台に立てるようになり、そこで大きな転機が訪れます。
「中3になったらやっと決勝に残れるようになったんです。そしたらその決勝で泳いでるメンバーというのはもう凄い人たちで。恭子ちゃんもいれば、日本選手権と言って日本代表を選ぶような試合に出ている子たちもたくさんいる中で、ポツンと北海道出身の選手が、私が入ったわけです」
「で、東京にあるスイミングクラブのコーチが、あれは誰だ?と。あの選手をちょっと育てたいと言ってくださって。東京のスイミングクラブ、そして高校の先生が北海道に来てくださって、東京でやりませんか?と。中学3年生の秋頃にオファーを頂きまして」
「当時は悩みましたけどね。単身です。条件が決まっていて、高校はここ、スイミングクラブはここ。住むところは合宿所ではなくて、学校の先生のご自宅の一間でした。で、来ますか?来ませんか?って言われて」
「母は、自分が陸上で東京に出たりしたかった思いがあったので、行ってみなさいって言ったんですけど、父親はやっぱり娘なので高校までは北海道でやった方がいいって反対してまして…まぁ、夫婦喧嘩でしたね。離婚危機だったそうです(笑)。後で聞いたら言ってました」
「でも、両親に感謝するのは、最終的には自分の人生だから自分で行くか行かないかを決めなさい、って選ばせてくれたんですよね。で、思ったのは、やらないで後悔するよりまず行ってみたいって」「あんまり深く不安を考えるよりは、現地でどんなお友達と出会えるんだろう?とか、どんな練習なんだろう?とか、そういう方が興味があったみたいですね」
そんな経緯で東京に出てきた田中さん。高校1年の時の日本選手権では100メートルと200メートルの平泳ぎで2冠を達成し、いきなり大きな飛躍を遂げます。
「急に記録が200メートルで4秒か5秒ぐらい伸びて、100メートルでも2秒ぐらい伸びて。私が今、水泳界を見ててもなかなかないぐらいの伸び率で、急に優勝しちゃいました」
「土台はたぶん北海道というものもあったと思うんですけど、やっぱり東京に出てきたことによって、水泳に対しての意識が変わったっていうのと、練習もレースをするやり方を教わったんだと思うんですよね」
その頃の田中さんは学校に行く前に朝練をして放課後にもまた練習するという日々だったそうです。
「恵まれていたのは、高校のクラスメイトだったり、スイミングの友達が受け入れてくれてたので、楽しくやれてたんだと思います」「日曜は休みでした。…昼まで寝たりとか。あとは先生の家だったのでね。でも、ボーイフレンドが出来た時はボーイフレンドと映画を観に行ったりはしてたと思います」
さらに95年、高校2年の時には100メートル平泳ぎの日本記録を11年ぶりに更新。
「ただ、その時って周りに日本記録保持者がいすぎて。同世代に。(岩崎)恭子ちゃんもそうだし、ずっと一緒にやってきた中村真衣っていう背泳ぎの選手も持ってたし。周りにいすぎて、それを特別だと思ったことがない…でもこれが良かったんだと思います」「充実してたと言えばそうですけど」
そして、96年のアトランタオリンピックでは、高校3年生にして100メートルと200メートルの平泳ぎ代表として出場します。
「いろんなライバルもいたんですけど…(岩崎)恭子ちゃんも2回目のオリンピックを目指していて。で、恭子ちゃんと2人して代表に選ばれました」
「嬉しかったですね。(選考レースは)1番でした。ただ、いろいろ言われました。恭子ちゃんに勝ったということで取材して頂いたりしたんですけど、恭子ちゃんはオリンピックという舞台で最高のパフォーマンスをしてメダルを獲ってるわけだから、勝ったという意識がまったくなかったですね。まず代表に選ばれたというだけだったので…その感覚はずっと最後までありましたね」
オリンピック出場を決めた時はご両親も北海道から来てくれていたそうで、決まった瞬間は関係者のみなさんが万歳三唱する姿が見えたとか。
「今、自分が40になって、オリンピックに出るのがどれだけ難しいことかを客観的に見ると、恩返しが一つそこでできてたのかなと思います」
来週も引き続き、田中雅美さんをお迎えします!