プロレスラーのオカダ・カズチカさんがレインメーカーになるまで(2018/12/22 放送)
今週は、プロレスラーのオカダ・カズチカさんをお迎えしました。
自らを“レインメーカー”と称するオカダさんは、愛知県安城市出身の31才。中学時代には野球をやっていて、陸上の100メートルでは愛知県で8位に入るなど、足も速かったとか。そして、プロレスに興味を持ったのも中学生の時だったとおっしゃっていました。
自らを“レインメーカー”と称するオカダさんは、愛知県安城市出身の31才。中学時代には野球をやっていて、陸上の100メートルでは愛知県で8位に入るなど、足も速かったとか。そして、プロレスに興味を持ったのも中学生の時だったとおっしゃっていました。
「兄がプロレスのゲームを借りてきてですね。ゲームからハマって、じゃあテレビで見てみようと思って。13才かそれぐらいの時からですね。」
陸上の特待生の話も来ていたというオカダさんですが、高校には行かず、プロレスの道へ進むことに。ウルティモ・ドラゴンという日本の覆面レスラーが設立した『闘龍門』というプロレス学校に15才で入学します。
「最初は高校だけは出てくれと言われたんですけど、その後はもう『わかった。好きにしなさい』って母親に言ってもらってですね。」
オカダさんは当時から、やると決めたことは必ずやる、そんな性格だったようです。
「昔から僕ってそういう感じなんですよね。小学校5年生の時も…僕の母親が五島列島出身なんで、僕も夏休みのたびに行ってたんですけど、『ここに引っ越したい!』ってなったんですよ。親はもちろん行けないじゃないですか。だったら、僕だけ親戚の家に居候というか。で、転校したんですよ。小学校5年から卒業まで、ですね。」
「そのことがあったんで、プロレスに行くってなった時も、こいつには何言っても…ってことで、好きにしなさいって言ったんでしょうね。」
オカダさんは闘龍門にいた当時のことをこう振り返ってくれました。
「すごく大変でしたね。雑用もそうですし。最初は神戸なんですよ。半年間、神戸にいてからメキシコに行くんです。」「寮に入ってるんで、食事はちゃんことかが出て食べるだけなんですけど、練習はキツかったですね。」
「メキシコには3年半行ってましたね。ハタチになる前までいたんですけど、デビューしたらギャラ貰えるんで…まぁ、ギャラ貰えるって言っても、僕のデビュー戦のギャラ、500円とかなんですけどね(笑)。お金が貰えるならいいですけど、タコスあるからこれみんなで食べて、みたいな時もありましたし。」
また、闘龍門に入った頃、こんな出来事もあったそうです。
「入ってすぐの時に、練習キツくてやめそうになったんですけど。その時、母親が『いつでも帰ってきなさい』みたいなメールをくれてたんですよ。で、『じゃあ、もうやめようかなって思う』ってメールしたんですね。そしたら『もう少し頑張りなさい』って来たんですよ。」
「あれっ?と思って。『いつでも帰ってきなさい』って言ってたじゃん、って(笑)。で、『じゃあ、わかった…』みたいな。そこからなんか、やめようって思わなくなりましたね。その時、母親が『帰っておいで』って言ってたら、そのままカズチカくんはやめて帰ってたかもしれないです(笑)」
メキシコの闘龍門にいた16才の時にデビューし、帰国後に、現在も在籍している新日本プロレスに移籍したオカダさん。「新日本プロレスの若い人たちとまた一緒に始めるんだったら」という話での移籍だったそうで、道場に入って基礎体力を鍛え、ちゃんこを作ったり、先輩の衣類の洗濯をしたり…と、またゼロからのスタートだったそうです。
「僕が入った時って、新日本プロレスはホント人気なかったんですよ。今は後楽園ホールが毎回のように超満員になるんですけど、当時は新日本プロレス史上最低なんじゃないかなって思うぐらい、お客さんが入らなかった時代なんですよね」
「で、それを俺がどうにかするしかないよね、って思ってたんで(笑)。新弟子が、一番若いヤツが『俺がどうにかしなきゃ!』みたいな(笑)」
そんなオカダさんが“レインメーカー”になるきっかけは、2010年の2月にアメリカへ行ったことだったとか。
「アメリカでは正直干されてました(笑)。なかなか試合が組まれなかったですね。行っても試合がなくてそのまま帰ってきたりだとか、そういうことが多かったですね。」
「僕はある意味、勉強になったことなんですけど、強いだけじゃダメなんですよね。『視聴率が取れなきゃダメだ』みたいな感じなんですよ。『どんだけ強くてもお客さんが呼べなかったら意味ないよね、視聴率取れなきゃ意味ないよね』っていうことで。」
「でも、それが最初、僕は意味がわからなかったんですよ。『強けりゃいいじゃん。面白い試合してりゃいいじゃん』って思ってたんですけど、『そんなのは別にいらないよ』『オカダは試合で何を伝えたいの?』って言われたんです。」
「『いい試合をして強さを見せつけたらいいじゃん』って、それはアメリカのプロレスじゃないんですよね。やっぱキャラクターとかそういうのがないとダメだと思って、それで生まれたのが“レインメーカー”なんですけど。」
アメリカで干された時は辛かったというオカダさんですが、今振り返ると「練習もたくさんできて、いろいろ考えることができたんで、そういう意味では良かったな」と思えるそうです。
ちなみに、オカダさんはご自身のニックネームで技の名前でもある“レインメーカー”の由来についてこうおっしゃっていました。
「お金の雨を降らせる、それぐらい俺が会社を潤わすよ、っていう。そういう人のことをレインメーカーって言うらしいんですよ。」
来週も引き続き、オカダ・カズチカさんをお迎えします。お楽しみに!