夏木マリさんが語る主演映画『生きる街』と芸名の由来(2018/03/03 放送)
今週は、夏木マリさんをお迎えしました。
夏木さんと言えば、今日3月3日から主演映画『生きる街』が公開中。この作品は、宮城県の石巻市で撮影された“家族とふるさとのお話”なんだそうです。
「ベースには、3.11の東日本大震災のお話が流れてるんですけども、私はその震災によって夫を失ってしまって、一人で友達の大きい家を借りて民泊をやってるおばちゃんの役なんです。娘と息子が一人ずついるんですが、彼らもその震災によってちょっと心を痛めていて、女の子は子供を埋めなかったり、男の子はちょっと自暴自棄になったりして…」
「で、その家族の話が続いていくんだけども、ある日、韓国から一人の青年が来て、そのことによって、ちょっとみんなの心が動き出したりするというヒューマンドラマです」。
震災を扱った大きなテーマの作品だけに、最初は勇気がいったという夏木さん。それでも出演を決めた理由について、こう話してくれました。
「だけど、みんなが忘れる頃にこの映画が出来るであろうから、それも一つ意味があるのかしらと思ったり…。まぁ、私、俳優としてはこういう普通のおばちゃんっていう役が少ないので(笑)、妖怪とかが多い(笑)。だから、こういう役もやってみたかったし、その2つの理由で勇気を持って飛び込みました」。
映画『生きる街』の撮影は2016年秋に行われ、夏木さんもホテルではなく民宿に泊まって、そこの経営者の女性にお話を聞いたりしたそうです。
夏木さんと言えば、今日3月3日から主演映画『生きる街』が公開中。この作品は、宮城県の石巻市で撮影された“家族とふるさとのお話”なんだそうです。
「ベースには、3.11の東日本大震災のお話が流れてるんですけども、私はその震災によって夫を失ってしまって、一人で友達の大きい家を借りて民泊をやってるおばちゃんの役なんです。娘と息子が一人ずついるんですが、彼らもその震災によってちょっと心を痛めていて、女の子は子供を埋めなかったり、男の子はちょっと自暴自棄になったりして…」
「で、その家族の話が続いていくんだけども、ある日、韓国から一人の青年が来て、そのことによって、ちょっとみんなの心が動き出したりするというヒューマンドラマです」。
震災を扱った大きなテーマの作品だけに、最初は勇気がいったという夏木さん。それでも出演を決めた理由について、こう話してくれました。
「だけど、みんなが忘れる頃にこの映画が出来るであろうから、それも一つ意味があるのかしらと思ったり…。まぁ、私、俳優としてはこういう普通のおばちゃんっていう役が少ないので(笑)、妖怪とかが多い(笑)。だから、こういう役もやってみたかったし、その2つの理由で勇気を持って飛び込みました」。
映画『生きる街』の撮影は2016年秋に行われ、夏木さんもホテルではなく民宿に泊まって、そこの経営者の女性にお話を聞いたりしたそうです。
「泊まらせてもらってよかったと思います。いろいろ5年間に起こった心の襞みたいなのを伺って、役作りに非常に役に立ちました。5年目に初めて震災の話をするとか、あの時どうしてたとか。あと、支援の格差によって、仲が良い大人同士が疎遠になっちゃったりとか。私たちが思いもしなかったお話を聞かせて頂いて、バックグラウンドに映ればいいかなぁと思いながらやってました」。
石巻市では、5年たってもまだ復興中であることを目の当たりにし、大きな地震が起こって撮影が中断したこともあったという夏木さん。この映画についてこんなこともおっしゃっていました。
「今回の映画は演じるというより、2週間石巻で撮影していて、街で生きてた感じ。『生きる街』というタイトルのように。千恵子として生きていたのを切り取ってもらったっていう感じがしてます」。
東京・池袋出身の夏木マリさん。この名前での活動を始めたのは1973年のことだそうで、芸名についてこうおっしゃっていました。
「この名前の由来が安っぽすぎて…つい最近まで好きになれなかったんですけど。45年前の6月に仕事を始めるんで、これから夏に向かうということで、夏に決めよう、夏決まり、夏木マリなんですよ」。
また、夏木マリとしてデビューする前にも、本名で2枚レコードを出しているそうです。
「ホントは音楽大学に行って資格取って、普通のお嫁さんになろうと思ってたから。どっかに勤める気持ちは全然なく、音楽教室の先生になるために受験してたの。そこの音楽学校の声楽の先生がなんか突然、歌謡曲を出すということで、若い子が私しかいなかったんでお声がかかって…」
「私、誘われると嫌って言えないタイプなんですよね。なんでもホイホイ着いていっちゃうタイプ。特に若かったし。それでそのままやったのが、本名で2枚出したやつです。中島淳子って本名なんですけどね」。
本名で出した2枚は売れなかったそうですが、同じレコードメーカーの違うディレクターから声がかかり、「家でブラブラしてるよりはいいかしら」と再デビューした時の名前が“夏木マリ”だったとか。
「だけど、今度は2度目だからあまり大人を信じず、なんかもうプロジェクトが出来ていたので、そのまま…髪はファラ・フォーセットのようにしろとか、メイクはソフィア・ローレンのようにしろとか言われ、振りつけが付き、事務所に行ったら夏木マリになってて、なんかもういい加減にやってましたね。スタートは」
「それで3曲ぐらいヒット曲がありつつも病気したんですよ。あまりに忙しくて食べない寝ない、で。それで、そっから“うなぎ下がり”って言ってるんですけど、8年ぐらいキャバレー周りをしてて、その後にミュージックホールと出会うわけです。レヴューショーですよね。歌と歌と踊りの間にコント赤信号さんとか出てたんじゃないかしら」
「よくインタビューで、8年もなんで辞めなかったんですか?って言われるんですけど、辞める気力もないぐらい力がないっていうか、不貞腐れてたっていうか。意思決定ができない8年間っていうかね(笑)。なんかちょっとキャバレー周りしてる私ってイメージと違うなと思ってたけど、どうしようか?っていうその突破する力がなかったですね。流されてた8年だったんですね」。
そんな夏木さんを変えたのは、ミュージックホールで踊っていた女性ダンサーたちのプロ意識の高さだったとか。
「お姉さんたちの存在が強烈でしたから。素晴らしいお姉さんたちでした。“好き”って素晴らしいことなんだなと思って。私も歌が好きなのになんでこんなに不貞腐れてるのかしら、って(笑)」。
そして、日劇ミュージックホールにお客さんとして来ていた映画監督の五社英雄さんから声がかかり、女優として映画『鬼龍院花子の生涯』(1982年)に出演。それまでも「歌手みたいな気分」で出た作品はあったそうですが、「ホントにちゃんと台本を読んでやった」映画はこれが最初だったそうです。
「その頃はあんまり考えてないんですよね。もう誘われるままにどんどん行くし(笑)」と夏木さん。実は、そもそも芝居にはあまり興味がなかったんだとか。
「どちらかと言えば嫌いな方でしたから。観に行ったことも一度もないし。ハッピーなことは、小劇場から新劇に行ったりして、蜷川さんとか…順番が良かったんですよね、演劇の」。
↓こちらは、2月に発売となった夏木さんの最新著書『好きか、嫌いか、大好きか。 で、どうする?』。