「スキーなんかもういいや…」荻原次晴さんが目指した意外な職業とは?(2015/06/13 放送)
今週は、スポーツキャスターの荻原次晴さんをお迎えしました。
双子の兄、健司さんと共にノルディックスキーで活躍した次晴さん。スキーを始めたのは3才の時だったとか。「生まれが群馬県草津町で、温泉とスキーの街ですよね。で、うちの父親が元スキー選手だったっていうことも大きいと思います」。お父様は「オリンピックに出ろ」みたいなことは言わなかったそうですが、スキー場には熱心に連れて行ってくれたそうです。
「ゲレンデスキー楽しかったですねぇ。父親の背中を追って滑っていったんですけど、とにかく親父は元スキー選手ですから速いんですよ。で、僕ら双子、健司と次晴で親父の背中を追っかけて…という感じですね」
次晴さんにとってスキーが“競技”になったのは小学校5年生の時。それまでは器械体操教室に通っていたそうですが、先生があまりにも怖くて、ヤダなぁ…と思っていたところに、友人から「スキージャンプ楽しいからやってみない?」と誘われたそうです。最初はスキージャンプが「めっちゃくちゃ怖かったです」という次晴さんですが、それでも体操教室をやめるためにスキージャンプをやることにしたんだとか。
そんな経緯で地元のスキー少年団に入った次晴さんですが、健司さんの方はその後もしばらく器械体操を続けたそうです。「健司ってちょっとずるいとことあるんですよ。様子を見るんですよ。興味のあるものは次晴にやらせて、次晴が楽しそうとか、次晴ができそうだったら俺も後からやってみよう、みたいなタイプなんですよ。あれ、しっかりしてるんですよ。さすが長男、ずるいんですよ(笑)」と、お兄さんについて話してくれた次晴さんでした。
やがて中学生になり、団長に「群馬のお前たちはジャンプじゃ(北海道の選手に)敵わない。北海道の子供たちがあまり力を入れていない複合をやってみろ」と言われた荻原さんはクロスカントリーを始めることになったそう。ちなみに、その北海道の子供たちというのは、原田雅彦さんや船木和喜さん、葛西紀明さんといったお馴染みの名選手たちだったとか。
「元々、僕ら双子はジャンプが下手くそで、クロスカントリーも嫌々始めたんですが、意外とやってみたら健司も僕もクロスカントリー少しずつ上達していったんですよ」。次晴さんは中学1年の時に全国大会に出たものの、「ほとんどビリ」だったそう。一方、その時、全国大会に行けなかった兄の健司さんは、弟に先を越されたことが凄く悔しかったと後に語ったそうです。「それから健司は本気になりましたね。それで、中学3年の時に北海道で行われた全国大会、健司が1位、僕が2位でした」
そして、高校生になった荻原さん兄弟は、日本代表のジュニアチーム入り。「そうするとですね、JAPANってプリントされた日の丸が付いたウェアが届くんですよ。それに袖を通すのがずっと憧れで、いよいよ俺も日本代表だぜ、みたいな。両親喜びましたね」。しかし、高校2年生の時に出た初めての国際大会では、外国の選手のレベルの高さに圧倒されて凄く悔しい思いを経験し、そこでまた本気になった、とおっしゃっていました。
ところが、次晴さんは必ずしもスキーひとすじというわけではなかったようです。「クラブDJってカッコイイなぁって(笑)。僕、高校時代からですね、ヒップホップ、ラップ・ミュージックに凄い興味を持って、どっぷりハマっちゃって。大学が決まって、花の東京に行けるんだったら、そっちの世界を目指そう!と思って。(家族も)だいたいわかってました。お前はバカだなって言ってました(笑)」
「本気でDJやりたかったんです。ホントはソウルミュージック研究会とか、ヒップホップ研究会とか、そういうのに入りたかったんですよ。スキーなんかもういいや。俺、あっちの世界に入りてぇ…と思って」。大学時代はスキー部の寮に住んでいたそうですが、部屋にはレコードを回すDJ機材があったとか。「ですから、健司が日本代表で海外遠征に行く時に、ノンストップDJミックステープとか僕がいつも作って健司に渡してました」
双子の兄、健司さんと共にノルディックスキーで活躍した次晴さん。スキーを始めたのは3才の時だったとか。「生まれが群馬県草津町で、温泉とスキーの街ですよね。で、うちの父親が元スキー選手だったっていうことも大きいと思います」。お父様は「オリンピックに出ろ」みたいなことは言わなかったそうですが、スキー場には熱心に連れて行ってくれたそうです。
「ゲレンデスキー楽しかったですねぇ。父親の背中を追って滑っていったんですけど、とにかく親父は元スキー選手ですから速いんですよ。で、僕ら双子、健司と次晴で親父の背中を追っかけて…という感じですね」
次晴さんにとってスキーが“競技”になったのは小学校5年生の時。それまでは器械体操教室に通っていたそうですが、先生があまりにも怖くて、ヤダなぁ…と思っていたところに、友人から「スキージャンプ楽しいからやってみない?」と誘われたそうです。最初はスキージャンプが「めっちゃくちゃ怖かったです」という次晴さんですが、それでも体操教室をやめるためにスキージャンプをやることにしたんだとか。
そんな経緯で地元のスキー少年団に入った次晴さんですが、健司さんの方はその後もしばらく器械体操を続けたそうです。「健司ってちょっとずるいとことあるんですよ。様子を見るんですよ。興味のあるものは次晴にやらせて、次晴が楽しそうとか、次晴ができそうだったら俺も後からやってみよう、みたいなタイプなんですよ。あれ、しっかりしてるんですよ。さすが長男、ずるいんですよ(笑)」と、お兄さんについて話してくれた次晴さんでした。
やがて中学生になり、団長に「群馬のお前たちはジャンプじゃ(北海道の選手に)敵わない。北海道の子供たちがあまり力を入れていない複合をやってみろ」と言われた荻原さんはクロスカントリーを始めることになったそう。ちなみに、その北海道の子供たちというのは、原田雅彦さんや船木和喜さん、葛西紀明さんといったお馴染みの名選手たちだったとか。
「元々、僕ら双子はジャンプが下手くそで、クロスカントリーも嫌々始めたんですが、意外とやってみたら健司も僕もクロスカントリー少しずつ上達していったんですよ」。次晴さんは中学1年の時に全国大会に出たものの、「ほとんどビリ」だったそう。一方、その時、全国大会に行けなかった兄の健司さんは、弟に先を越されたことが凄く悔しかったと後に語ったそうです。「それから健司は本気になりましたね。それで、中学3年の時に北海道で行われた全国大会、健司が1位、僕が2位でした」
そして、高校生になった荻原さん兄弟は、日本代表のジュニアチーム入り。「そうするとですね、JAPANってプリントされた日の丸が付いたウェアが届くんですよ。それに袖を通すのがずっと憧れで、いよいよ俺も日本代表だぜ、みたいな。両親喜びましたね」。しかし、高校2年生の時に出た初めての国際大会では、外国の選手のレベルの高さに圧倒されて凄く悔しい思いを経験し、そこでまた本気になった、とおっしゃっていました。
ところが、次晴さんは必ずしもスキーひとすじというわけではなかったようです。「クラブDJってカッコイイなぁって(笑)。僕、高校時代からですね、ヒップホップ、ラップ・ミュージックに凄い興味を持って、どっぷりハマっちゃって。大学が決まって、花の東京に行けるんだったら、そっちの世界を目指そう!と思って。(家族も)だいたいわかってました。お前はバカだなって言ってました(笑)」
「本気でDJやりたかったんです。ホントはソウルミュージック研究会とか、ヒップホップ研究会とか、そういうのに入りたかったんですよ。スキーなんかもういいや。俺、あっちの世界に入りてぇ…と思って」。大学時代はスキー部の寮に住んでいたそうですが、部屋にはレコードを回すDJ機材があったとか。「ですから、健司が日本代表で海外遠征に行く時に、ノンストップDJミックステープとか僕がいつも作って健司に渡してました」
そんな中、兄の健司さんは1992年のアルベールビルと94年のリレハンメル・オリンピックで複合団体の金メダルを獲得します。「凄いんですよ。でも、凄いんですけど、凄いことになっちゃったんで、僕の人生が大変なことになっちゃったんです」と次晴さん。詳しくはまた来週伺います。お楽しみに!