SCHOOL OF LOCK!未来新聞 2016年3月11日号

SCHOOL OF LOCK!未来新聞 2016年3月11日号
今の私は、無いはずだった未来を生きています。

一昨年の未来新聞の記事に、“新しい家に引っ越した時、私の中の震災はやっとひとつの大きな区切りを打てる”と書きました。
あの記事を書いてから2年、ようやく新しい家に引っ越し、休業中だった飲食店を再オープンさせることができました。昔からのお客さんも新しいお客さんも来てくれて、お酒を酌み交わす賑やかな夜もあります。現在私は地元でアルバイトをしながら、忙しい時はお店に立って手伝いをしています。周りも新しい家が立ち並ぶようになり、沢山あった仮設住宅も将来的には数か所に集約させるようです。

5年が経とうとし、最近、震災の風化についての話題をよく耳にするようになりました。
正直、私自身も震災からしばらくの記憶が薄れつつある実感があります。でも、忘れないように思い出すこと=同時にその時の痛みを思い出すこと、である気もします。
痛みを伴って記憶を思い出すくらいなら、無理をしてでも風化させないようとするのではなくて、あの日から地道に積み重ねてきた今の生活を大事にすることが大切だと、一つの答えのようなものを自分の中に見つけました。とはいえ、この文章を書いている私は津波を実際には見ていません。だからこんなにぬけぬけと記事が書けていると批判する自分もいます。罪悪感も少しあります。だけどもし見ていたら、立ち直るまでさらに時間がかかったかもしれないし、立ち直ることすらできなかったかもしれません。生まれ育った自分の家が流されていく様子を見ていたのなら、尚更。震災発生直後、空から牡丹雪がしんしんと落ちてくるのを見ながら「世界が終わる光景ってこんな感じなのかな」と思ったこと。一夜明けて、駐車場や田畑が全て湖のようになって、その水面に映った空の青。食糧や水や物資を探す為に歩き回った時の、津波を被った道路の土ぼこりの匂い。電気が復旧していない為真っ暗な街から見えた天の川。どれだけ時が経っても、きっと一生忘れられないものがいくつもあります。こうやって記事を書くことで、自分の中の震災を風化させず、痛みも少しは昇華できているのかもしれません。あの日からの記憶も感情も、ようやく少しは俯瞰的に見ることができている気がします。記事の冒頭に書いた言葉は、まさにその通りになったと思います。

3月11日が近づくにつれて、メディアも街もどこか震災の色を濃くさせていって、その日が過ぎると急激に薄れていき、そして何事もなかったかのように元の生活に戻ります。別にそれでもいいと思います。 ただ、私の住む街は3月11日になると突然現れる街なんかではなく、遠い昔から今もずっとそこにあって、沢山の人達が生活し続けているということをどうか知っていてほしいです。5年前の私は、未来なんか無いと何度も思いました。大変なことも苦しいこともあったけど、楽しいことも嬉しいことも、生きてて良かったと思えることもありました。

今の私は、無いはずだった未来を生きています。

ともぼー☆ 宮城県 21歳 女


あしざわ教頭が2016年2月にともぼー☆の元を訪れました。
その時のレポート「あしざわ教頭、宮城へ。」も併せてご覧ください。



未来新聞2015年3月11日号に寄稿してくれた記事
"仮設住宅を出る日"が、いよいよ実現味を帯びてきたのです。

昨年の未来新聞に記事を載せていただいた、ともぼー☆です。
記事を書いてから今日までの約1年間、大きな動きがありました。

この春に新しい家が完成します。
記事を書いて半年経った秋の中頃、家を建てる準備が始まったと母から連絡があり、冬になる頃には建設が始まりました。まさかこんなに早く家が建つことになるとは思いませんでした。
ぼんやりと想像していた”仮設住宅を出る日"が、いよいよ実現味を帯びてきたのです。
この記事を書いている間にも建設は着々と進んでいます。

今も時々、震災の夢を見ます。大音量で鳴り響くサイレンの中、津波から逃げる為に必死で高台へ走る夢。何度も大きな揺れに襲われる夢。車のエンジン音や重低音といった地響きに似た音が今も苦手で、体が思わず反応してしまいます。
3月11日が近づくにつれて繰り返しテレビから流れてくる震災の映像も見ることができません。
もしも、またあの時のような大きな地震が起こったら。あの時のような大きな津波が来たら。それが、あの時のように新しく建つ家に襲い掛かったら。そんな不安が一時も心の隅から離れずにいます。

昨年記事を書いた時に、私は「”被災地”ということで“可哀想”と思われることが嫌だ」「人に震災のことを話すのを躊躇ってしまう」と書きました。それは今でも変わりません。ですが、書いてから気づいたこともあります。
人に震災のことを話すのを躊躇ってしまうのは、震災の話をして相手に苦い顔をされるのが、煙たがれるのがとてつもなく怖かったから。ということです。痛みも悲しみも、全部をそのまま知ることは不可能です。もっと苦しんだ人を何人も見てきました。だからこそ、本当の気持ちを誰にも打ち明けられませんでした。打ち明けられなくて、上手く消化できなくて、どんどんこびりついて。とうとう気持ちが大きく折れてしまったこともありました。
ですが、徐々に本当の気持ちを言えるようになってきました。学校にいる時にやや大きな地震があった時に友達や先生が心配してくれたり、気持ちが大きく折れてしまった時には優しく受け入れてくれました。昨年書いた記事を読んでくれた友達もいました。それだけでもう嬉しかったのです。優しい友達や先生に恵まれて、本当に幸せだと思いました。
仮設住宅は、少しずつですが空き家が目立つようになってきました。
6月には津波の被害を受けていた区間が復旧して、電車が完全に通る予定です。街は新しく変わりつつあります。

私はこの春、専門学校を卒業します。卒業後は一旦実家に戻り、再開予定の両親の飲食店の手伝いをします。再開を待ち望んでくれている人達の為にも、精一杯頑張ります。
家族みんなが元気に引っ越すことが、今の一番の願いです。
ともぼー☆ 東京都 20歳 女



未来新聞2014年3月11日号に寄稿してくれた記事
仮設を出て、家族写真を撮って、新しい家に引っ越した時、
私の中の震災は、やっとひとつの大きな区切りを打てると思います。


仮設を出て、家族写真を撮って、新しい家に引っ越した時、
私の中の震災は、やっとひとつの大きな区切りを打てると思います。

生まれも育ちも宮城県石巻市です。私の家は、津波で跡形もなく流されました。
地盤沈下とその後の土地計画により、もうそこには住むことができないそうです。�
街には新しい家が続々と建ち始めていますが、家族は今でも仮設住宅に暮らしています。
仮設に入居できたのは、震災から半年が経った秋頃でした。

家を建てるには土地とお金が必要です。
我が家の例として、実家のあった土地を市が買い、そのお金で新しく家を建てるという流れになります。
新たに家を建てる土地は市の集団移転先によって決まります。家を建てるまで、遠く長い道のりです。
私は東京で一人暮らし。家族は地元で仮設暮らし。家族と離れ、上京する時はとても心が痛みました。
それでも、家族は温かく私を見送ってくれて、実家に帰った時は笑顔で迎えてくれます。

上京してもう少しで1年が経ちますが、
くだらない他愛もない話をして笑ってます。震災前と何ら変わりない日常です。
東京で生活しているとまるで震災なんてなかったかのように毎日が過ぎていきます。

ただ、時折震災の瞬間が鮮明にフラッシュバックします。
津波の夢を見た時は怖くて1日中動けませんでした。瓦礫とヘドロだらけの実家の夢も見ました。
せめて夢の中でだけでも震災前と変わらない風景であってほしかったのに。
また、あの時のような地震が起こったら、と考えてしまって苦しくなることもあります。

正直、この記事を書くことを悩みました。
というのも、“被災地”ということで“可哀想”と思われることが嫌だったからです。
そんな理由から自分の出身をちゃんと言えないこともありました。
今でも人に震災のことを話すのを躊躇ってしまうこともあります。

ですが、東京と地元を何度も行き来しているうちに、
両方の地で生活しているうちに強く思い始めたことがあります。

憂いたり、悲しむことも、大変なこともあるけれど、
それでもこの街には他の地で過ごす誰とも変わらない日常がちゃんと流れている。

悲しみが完全に癒えることはないかもしれないけれど、いつまでもずっと悲しんでいる訳じゃない。
“可哀想”だとはもうあんまり思ってほしくはありません。
むしろ、遊びに来てほしいと思ってます。新鮮な海の幸や美味しいものがたくさんあります。

店舗が大きな被害を受けてしまったけれど頑張って店を復活させた人や、
街を活気付けようと奮闘するボランティアの人がいます。音楽イベントやライブも盛んです。

私の実家も、震災前は飲食店をやっていました。
今は休業中ですが、ありがたいことに店の復活を待ち望んでいる人がいます。
新しく家が建ったら再開する予定です。

石巻へは、仙台から(車で)約1時間半という行くのには大変な距離ですが、
どうか遊びに来てもらいたいです。
大きく壊れて、そこから少しずつ変わっていく街の様子を見てもらいたいです。

先日、土地の移転先が決まったと家族から連絡がありました。
詳しい区画や買い取られる土地の金額、家が建つ時期はまだわかりません。
もしかすると、家が建つのは来年以降になるかもしれません。それでも、私にとっては大きな一歩でした。

父が「この仮設を出る時、家族写真を撮ろう」と言いました。
実家と呼ぶこの仮設も、いずれは出ることになります。そして取り壊されてなくなってしまうでしょう。
仮設を出て、家族写真を撮って、新しい家に引っ越した時、
私の中の震災はやっとひとつの大きな区切りを打てると思います。

東京都 19歳 女の子 ラジオネーム:ともぼー☆