大黒摩季さんが改めて語る「ら・ら・ら」(2016/09/03 放送)
今週は、大黒摩季さんをお迎えしました。
2010年から活動を休止していた大黒さんですが、いよいよ今年、活動を再開。7月に沖縄で開催したファンクラブのためのアコースティック・ライブが復帰後最初のステージだったそうで、その時のことをこう話してくれました。
「普通の生活から舞台に上がるっていうことで客席から出て行ったんですよ。コーラスのリフをメンバーと一緒に回しながら、握手しながら。で、最後、舞台上がる寸前にたじろいじゃって。沖縄のちっちゃいライブハウスだったんで、たかだか2,30センチの舞台の高さなんですけど、これ上がったら走り出しちゃうんだなぁ、一気に行くんだろうなぁと思ったら、2回しぐらい多くそこで歌っちゃって(笑)…」
休業していたこの6年について、「例えばバンドの方々みたいに自分たちの新しい人生のために解散するとかじゃなくて、病気で、好き好んで休んだわけじゃないので、最初の2年ぐらいは開き直れなくってウジウジしてたんですけど…」と大黒さん。そんな時、活動休止直前にコラボした吉川晃司さんが喝を入れてくれたそうです。
「腐ってないで乗馬行くぞ!とか言って連れて行ってもらったりとかして。で、ある時、殿(吉川さん)にジタバタするなと。みっともないからって。ウジウジすんなと。不安なのはわかるけど、ここは主婦と母の介護も含めてシッカリ女を生きろと。その方が絶対いい歌手になるし、お前のファンの人たちが好きなお前に逆になれると思う。ずっと壇上でアーティストやってると見えなくなってるものがいっぱいあるはずだからと。1回きっぱり人として生きてこい!って言われて」
「最初え〜って思ったけど、よし!なんかウジウジしてるの元々キライだからいいやって思って。じゃあ、それはそれなりに極めるぞ!と思ったから。日本中の主婦を尊敬しました。完全に音楽を聴く人になった。普通に昔の高校生の時の自分のようなやわらかーいハートで…」
2010年から活動を休止していた大黒さんですが、いよいよ今年、活動を再開。7月に沖縄で開催したファンクラブのためのアコースティック・ライブが復帰後最初のステージだったそうで、その時のことをこう話してくれました。
「普通の生活から舞台に上がるっていうことで客席から出て行ったんですよ。コーラスのリフをメンバーと一緒に回しながら、握手しながら。で、最後、舞台上がる寸前にたじろいじゃって。沖縄のちっちゃいライブハウスだったんで、たかだか2,30センチの舞台の高さなんですけど、これ上がったら走り出しちゃうんだなぁ、一気に行くんだろうなぁと思ったら、2回しぐらい多くそこで歌っちゃって(笑)…」
休業していたこの6年について、「例えばバンドの方々みたいに自分たちの新しい人生のために解散するとかじゃなくて、病気で、好き好んで休んだわけじゃないので、最初の2年ぐらいは開き直れなくってウジウジしてたんですけど…」と大黒さん。そんな時、活動休止直前にコラボした吉川晃司さんが喝を入れてくれたそうです。
「腐ってないで乗馬行くぞ!とか言って連れて行ってもらったりとかして。で、ある時、殿(吉川さん)にジタバタするなと。みっともないからって。ウジウジすんなと。不安なのはわかるけど、ここは主婦と母の介護も含めてシッカリ女を生きろと。その方が絶対いい歌手になるし、お前のファンの人たちが好きなお前に逆になれると思う。ずっと壇上でアーティストやってると見えなくなってるものがいっぱいあるはずだからと。1回きっぱり人として生きてこい!って言われて」
「最初え〜って思ったけど、よし!なんかウジウジしてるの元々キライだからいいやって思って。じゃあ、それはそれなりに極めるぞ!と思ったから。日本中の主婦を尊敬しました。完全に音楽を聴く人になった。普通に昔の高校生の時の自分のようなやわらかーいハートで…」
大黒さんはそんな日々の生活の中で音楽に助けられることがあったそうです。「例えば、旦那様に言いたくても言えないとか、寂しいのに寂しくないふりをしたりとか、生活の中の行き違いだったりとか、うちの母に対して良かれと思ってやったのに仇になったりとか、そうすると帰り道にベンチでぽちーんて落ち込んで…そんな時に助けてくれるのがやっぱり音楽なんだなぁ、みたいな」
また、大黒さんはご自身の音楽についてこんなことおっしゃっていました。
「最初のヒット曲を出させてもらった頃っていうのは、それまでの短い、たかだか23,4年の人生ですけど、その中での例えば不満だとか、孤独だとか、それこそ挑戦しながらの挫折だとか、いろんな負の気持ちをなんとかして自分の中で昇華するために音楽の力を借り、火の玉のようなフラストレーションみたいなものをロックで発散し、自分を救うために作ったものに似た人たちが共感してくれてヒットになったっていう」
そして、大黒さんの大ヒット曲「ら・ら・ら」にはこんな想いが込められているそうです。
「私の家はパン屋さんでママの実家は肉屋さんで、みんな商売やってたんで。いっつもギリギリだったんで、お母さんたちがいっつもキリキリしてたんですよ。お祖母ちゃんまでが。もうたまらなくなると、うちのママってうちのおじいちゃんのお墓で缶ビール飲みながら歌うんですよ(笑)。で、その時ちょっと笑うんですよ。だから、缶ビールと歌で笑うんだな女の人って、とちっちゃい時に思ってて。だから、鼻歌を歌うだけでなんとなく気が楽になるような歌を作ってあげたいって」
「女性を救いたいなんて思ったことはなくて、ママをまず笑わせたい、ばあちゃんを楽にしたいとか。で、それで『ら・ら・ら』みたいな。言葉があるとなんだっけ?って思うと一瞬引くじゃないですか。でも『ら・ら・ら』だと、世界中どんな女の人も自転車漕ぎながらでも歌えるなぁっていう」
活動休止中に音楽の専門学校で教え始めた大黒さん。「東京スクールオブミュージックってところで、名前にするとちょっと偉そうなんですけど、教育顧問プロフェッサーっていう、いわゆる教授みたいなものですね。最初の頃はちょっと特別講義とかをやってたんですけど、途中から生徒たちのスイッチが入って、摩季先生授業やってください!みたいになって。いわゆる声帯を育てる、みたいな」。今はm.c.A・Tさんなどを含む5人のチームで教えているそうで、保護者会に出ることもあるとか。
子どもたちを教えることについて「すっごいチャレンジですよね。だって母親じゃないから」と大黒さん。「元々、人と対峙できなくて喋りたくないから歌作って歌ってるじゃないですか、ミュージシャンって。だから最大限の引きこもりなんですよね。それが生徒っていう人と裸の心でぶち当たらないといけない、っていうのが大チャレンジですよ。踏み込んでからっていうのは毎日がチャレンジですね」なんておっしゃっていました。
「この子には今この言葉が必要なんだけれども、直接言ったらたぶん崩壊するからどういう言い方をするんだろうなぁ、って。でも、一人頭30分以上はかけられないので、30分の中でこの子の欲しいものをどれだけあげられるんだろう、って。で、親御さんには…親御さんは『夏が来る』世代なんで意外と話を聞いてくれるんですよ(笑)」
来週も引き続き、大黒摩季さんをお迎えして新曲「Higher↗↗Higher↗↗」のお話などを伺います。お楽しみに!