崖っぷち30代。直木賞作家の東山彰良さんが小説を書き始めたきっかけ(2016/01/23 放送)
今週は、作家の東山彰良さんをお迎えしました。
昨年、『流』で直木賞を受賞した東山さん。中国大陸出身の両親の元、1968年に台湾で生まれ、初めて日本に来たのは5才の時だったとか。その後は台湾と日本を行ったり来たりしたそうで、9才からは福岡在住。先日も総統選挙のレポートを書くために1週間ほど台湾に帰っていたそうで、台湾について「やっぱり生まれたところなんで、僕にとってはソウルフードがあるところですかね。里心がつくのはやっぱり食べ物からなんですね」と話してくれました。
福岡の大学を卒業した東山さんは、日本の航空会社に就職。東京で働いていたそうですが、1年で辞めてしまったとか。
「学生時代、僕はずうっと旅をしてたんですよ。ま、そんなに長い旅ではなく、1ヶ月2ヶ月、一人で東南アジアをぶらぶらしてたんですけれども、わりとそれが自分の原風景になっていて、自分は大学を出たら長ーい旅に出る、って自分で勝手に思ってたんですね。で、就職をした後に、このまんま会社勤めをしていても自分の夢は叶えられないなと思って、それがストレスだったですね」
そして、会社を辞めた東山さんは、まずは福岡、その後は中国の大学の大学院に進んだそう。「会社を辞めたときはけっこう悲壮的な覚悟を持って、このままやりたいことができないんだったら、のたれ死んだ方がいい!ぐらいな勢いで会社を辞めましたね」。お母様は「逃げ込むような形で大学院に行ってもものにはならない」と反対したそうですが、お父様は「別に逃げてもいいんだ」と言ってくれたんだとか。
「それですっと気持ちが軽くなって。でも、実際に逃げてみてわかるのは、いったん逃げ出したら真面目に勤めるよりも一生懸命逃げないとたちまちにっちもさっちもいかなくなるんですよ」「それで父と距離が縮まったように思います。それまでは険悪と言ってもいいぐらいでしたね」
そんな大学院時代に、東山さんは19才の時から付き合っていた女性と結婚したそうです。「で、妻に子供ができたんで、それを指導教授に相談したら、単位だけ半年で取って、後は日本に戻って、働きながら論文を書き、1年に1回だけ見せに来い、っていう措置をとってくれたんですよ。中国の大らかなところだと思います」
昨年、『流』で直木賞を受賞した東山さん。中国大陸出身の両親の元、1968年に台湾で生まれ、初めて日本に来たのは5才の時だったとか。その後は台湾と日本を行ったり来たりしたそうで、9才からは福岡在住。先日も総統選挙のレポートを書くために1週間ほど台湾に帰っていたそうで、台湾について「やっぱり生まれたところなんで、僕にとってはソウルフードがあるところですかね。里心がつくのはやっぱり食べ物からなんですね」と話してくれました。
福岡の大学を卒業した東山さんは、日本の航空会社に就職。東京で働いていたそうですが、1年で辞めてしまったとか。
「学生時代、僕はずうっと旅をしてたんですよ。ま、そんなに長い旅ではなく、1ヶ月2ヶ月、一人で東南アジアをぶらぶらしてたんですけれども、わりとそれが自分の原風景になっていて、自分は大学を出たら長ーい旅に出る、って自分で勝手に思ってたんですね。で、就職をした後に、このまんま会社勤めをしていても自分の夢は叶えられないなと思って、それがストレスだったですね」
そして、会社を辞めた東山さんは、まずは福岡、その後は中国の大学の大学院に進んだそう。「会社を辞めたときはけっこう悲壮的な覚悟を持って、このままやりたいことができないんだったら、のたれ死んだ方がいい!ぐらいな勢いで会社を辞めましたね」。お母様は「逃げ込むような形で大学院に行ってもものにはならない」と反対したそうですが、お父様は「別に逃げてもいいんだ」と言ってくれたんだとか。
「それですっと気持ちが軽くなって。でも、実際に逃げてみてわかるのは、いったん逃げ出したら真面目に勤めるよりも一生懸命逃げないとたちまちにっちもさっちもいかなくなるんですよ」「それで父と距離が縮まったように思います。それまでは険悪と言ってもいいぐらいでしたね」
そんな大学院時代に、東山さんは19才の時から付き合っていた女性と結婚したそうです。「で、妻に子供ができたんで、それを指導教授に相談したら、単位だけ半年で取って、後は日本に戻って、働きながら論文を書き、1年に1回だけ見せに来い、っていう措置をとってくれたんですよ。中国の大らかなところだと思います」
東山さん「妻はその時、ちゃんとした職業があったんで、どちからと言うと僕が養ってもらってた、みたいな。肩身狭いですよ」。恵さん「僕も同じようなもんですけど。ずっと食わしてもらってたんで。これ、どうしようもない関係が出来上がりますよね」。東山さん「そうですね。のっぴきならないですね(笑)」
しかし、東山さんが何度、論文を書いて提出しても、先生に却下され続けたそうです。「それが1年たち、2年たち、3年たち、4年たち…30過ぎた辺りで、ついに、次ダメだったら時間切れでもう退学、っていうところまで追い詰められた状態で。論文がダメだったら就職する目処もなく…。当時、僕は通訳をしたり、皿洗いをしたりしながら生活費を稼いでたんですけど、それから抜け出す目処が立たなかったんですよ」
そんな東山さんが一念発起して小説を書き始めたきっかけは、2000年の7月に台湾に帰ったことだったとか。幼なじみの女性から台湾の人気ロックバンドのメンバーである旦那さんを紹介され、自分たちで中国語のロックを作ってきた彼らの苦労話を聞いているうちに「俺もなんかやんなきゃな」という気持ちがふつふつと湧いてきたそうです。
「12月のある夜、家族が寝静まった時に何の考えもなしにパソコンを立ち上げて書き始めたんです。ストーリーもなにもなく、とにかく書こうと思って。ホントに朝まで書いて、パソコンがフリーズして書いたものが全部消えちゃったんですよ。そうすると、ここで止めるのかなって思ったんですけど、やめもせず、ちょっと休んでまた最初から書き始めたんです。そのまま3ヶ月書いて、その作品でデビューできたんです」
作家になろうと思ったわけではなく、「無我夢中でしがみついた、すがりついたものが小説だったような気がします」という東山さん。「振り返ってみると、東京で1年間サラリーマンやってた時に、童話みたいなものは書いたことがあるんですよ。たぶんその辺ぐらいに芽が出だしたのかもわからないですね。文章に対する憧れというか」ともおっしゃっていました。
↓こちらは東山さんの直木賞受賞作『流』。