車いすバスケ界の“問題児”?鳥海連志さんの挑戦(2022/03/05 放送)
Podcast
今週は、車いすバスケットボール 男子日本代表、WOWOW所属 鳥海連志(ちょうかい・れんし)選手をお迎えしました。
昨年の東京2020パラリンピックで、日本勢初となる銀メダルを獲得し、さらにこの種目の大会MVPにも輝いた鳥海さん。先月には、これまでのご自身の体験を綴った著書『異なれ - 東京パラリンピック車いすバスケ銀メダリストの限界を超える思考 -』がワニブックスから出版されました。
昨年の東京2020パラリンピックで、日本勢初となる銀メダルを獲得し、さらにこの種目の大会MVPにも輝いた鳥海さん。先月には、これまでのご自身の体験を綴った著書『異なれ - 東京パラリンピック車いすバスケ銀メダリストの限界を超える思考 -』がワニブックスから出版されました。
鳥海さんは、1999年2月2日、長崎県長崎市生まれの23歳。生まれた時から、右手の指が4本、左手の指が2本、そして両足が変形した状態で、3歳の時には両足のひざ下を切断しますが、それでも保育園では元気いっぱいで駆け回っていたそうです。
「僕の中の常識が、右手が4本、左手が2本、で、足は切断しているっていうのが僕の中での当たり前だった…っていうところが、僕が障がいを背負ってると自分で自覚してないところだったのかもしれません」。
「もちろん、小学校に入って、自分でいろんなことを考えだした時期は、みんなと違うということは僕自身、自覚していましたけど、そんな時は、僕なりのやり方、連志なりのやり方というもので物事をクリアしてきた、っていうのが、僕の小学校時代とかですかね」。
鳥海さんは、著書『異なれ』の中の「工夫すればなんでもできる」という項目で、両親や保育園の先生方のバックアップには感謝しかないと書いています。
「僕が車いすバスケットボールをやる上でも、バスケット以外の生活をおくる上でも、何事にもチャレンジすることとか、僕なりのやり方で取り組んでみる、みたいなところは、未だに僕の根底として大切にしているところなので、ここ(保育園)での経験というのはかなり貴重だったかなと思います」。
一方で、『異なれ』には「できないことに意識を向けない」とも書かれています。
「バスケットのことに関しては、僕は熱量を持って課題として取り組みますけど、別にサッカーができなくても、野球ができなくてもどうでもいいや、っていうマインドですね」。
「変にネガティブにならないコツですかね、これは」「完全に開き直りですね(笑)」。
同時に、鳥海さんは小さい頃からお母様に「やれないことは手伝ってもらいなさい。そしてやってもらったら『ありがとう』と言いなさい」と教えられてきたそうです。
「母なりに、僕がこれから行きていく上で、助けてもらわないといけない場面は多いだろうと考えて、このことをずっと教えてくれてたのかなと思ってるんですけど。やっぱりこの歳になっても助けてもらうことは多くてですね。そのたびにちゃんと感謝を伝えるっていうのが常識、僕の中で当たり前になったことはホントに良かったなと思ってます」。
そして、恵さんが「鳥海さんのすごいところって僕いちばんここかなと思った」というのは、著書『異なれ』の「ハードルを低く設定する」という項目でした。
「もちろん、すごい高い目標は立てます。その上で、そこに向かう中のハードルは別に低いものを設定して、一つ一つクリアするという成功体験を実感していくことがなにより成長に繋がるかなと思ってますね。毎日毎日を無駄に過ごさない、みたいなところを見つめていた時に、毎日高いハードルを超えていくの大変すぎると思って」。
「日々成長するっていうのはなかなか実感できないもので、意外と、1回ゴミ拾いするとか、なんかそういう小さなことをやってる方が実は2ヶ月後、3ヶ月後に人として変わってたりする、みたいなとこが…」「そこを大切にしてきましたね」。
また、鳥海さんは「僕は僕自身に過度に期待しすぎない」とも書いています。
「それこそ『低いハードルを設定する』と繋がるんですけど、なにか当たり前のようにクリアできることに意識を向けることが基礎となりますし。その積み重ね、習慣づけをしやすいところだったりするんで。過度に期待せずに、僕はこれくらいできたらもう合格、っていう感覚を毎日実感することの方が僕は心地よかったですし、成長かなと考えました」。
「(自己肯定感は)かなり大きいと思います」。
鳥海さんは、ここに至るまでにいろんなチャレンジをして、失敗を重ねて、今の自分を作り上げてきたようです。
「そうですね。失敗はかなり、大きな失敗も、いろんな失敗してきました」。
鳥海さんが車いすバスケットボールと出会ったのは、中学1年生の時。
「ソフトテニス部に入りまして。そんなテニスをしている僕を見て、その当時の女子バスケ部の監督さんから、車椅子バスケって知ってる?っていうふうにお声がけ頂いて。で、そこから練習を見に行って、参加して、体験して、もうすぐのめり込みました。見学行ったその日にもう車椅子バスケットをするっていうふうに考えてました」。
そして、「九州ではある程度上位に入るチーム」という『佐世保車いすバスケットボールクラブ(佐世保WBC)』に入りますが、メンバーはみんな中1の鳥海さんよりもかなり年上だったとか。
「一番近くて10歳上でしたけど、一番年配の方で僕のお祖父ちゃん世代なんじゃないかと」「年上にどうコミュニケーション取っていいか?は最初とまどいました」。
でも、チームのみんなは鳥海さんを暖かく迎えてくれたそうです。
「練習前後でジュース買ってくれたりとか、一緒にご飯連れて行ってくれたりとか、練習会場に送り迎えをしてくれるとか。いろんな面でお世話になりました」。
鳥海さんの著書『異なれ - 東京パラリンピック車いすバスケ銀メダリストの限界を超える思考 -』には、コミュニケーションについてもっ書かれていますが、年上とも対等な関係性を作ることを意図する鳥海さんのコミュニケーションでは“タメ口”が大事なんだとか。
「ちょっとした生意気さみたいなものは、僕はすごい大切にしていて。先輩であろうとイジりたいし、イジられたいし。そういう関係でいたくて。すべて先輩に気を使った中でコミュニケーションを取っていく、みたいなことではなくて、なんでも言い合える関係性というところが、より質の高いプレーに繋がるんじゃないかと考えてますね」。
鳥海さんは、日本代表のエースで10歳以上年上の香西宏昭さんのことを“ヒロ”と呼んでいるそうです。
「僕最初、“ヒロさん”って呼んでて。そういう上下関係とかいらないからヒロって呼んでいいし、プレーのこと、ちゃんと要求するものは要求してきて、っていうことを合宿生活していく中で言ってもらって。そこから関係性も近くなりましたし。プレーの質もお互いが要求していくことで高め合っていけたのかなと思うと、やっぱりそういう先輩たちの後輩に対する気遣いも大きかったのかなと思います」。
鳥海さんは、著書のタイトルになっている言葉“異なれ”との出会いをこう振り返ってくれました。
「自分が関東に出てきて。高校を卒業して、バスケットにのめり込む中で、大学になかなか行けなかったんですよね」
「大学生活は充実できなかった時に、なにかしら学びは必要だなと思う中で、オリラジの中田(敦彦)さんが、“優れるな、異なれ”という言葉をおっしゃっていてですね。この“優れるな”って、何かに特化して誰かを追い求めても、その先頭はその追い求めてる人物であって、自分自身の道を歩んでいけば、その道の先頭は自分だと。自分が第一人者になれるんだ、ということをおっしゃっていてですね」
「僕自身、車いすバスケットボールをやっていく中で、他とは違うキャラクター作りっていうものにずっとこだわってまして。その中で“異なれ”という言葉は自分の中にすっと入ってきて。僕の中で大切な言葉として根付いたのが、この言葉との出会いですね」。
車いすバスケを始めて3年とたたずに長崎県の代表として全国大会に出場。さらに、高校1年で日本代表に選出された鳥海さん。
「驚きと、高いレベルでバスケットができるっていう喜び、この2つだけで満たされてましたね」。
実は、車いすバスケットボール界では、“問題児”と言われてきたんだとか。
「遅刻から始まって、タメ口」
「今まで車いすバスケットボールもどこか褒め合うスポーツだったんですよね。失敗しても、ナイスチャレンジ!とか、ナイスプレー!ナイスプレー!っていう言葉が多かったんですけど、スポーツのホントに高め合う存在・人間関係って、要求したり、なんでここパスくれないんだよ!とか、声掛けとか、コミュニケーションがある方がより高いレベルに行けると考えてたので、僕自身は不満をぶつけ続けました。なので、あのー、かなり回りからすると異端児でしたし、問題児だったのかなと(笑)」。
「怒られたりはないですね。そこ(さん付けで呼ぶか呼ばないか)はどこがアウトなラインなのかは見ていて。あ、ここまでいったら大丈夫かな、とかっていうのは探ってたりしましたね」。
来週も引き続き、鳥海連志さんをお迎えします。