父を出待ち…林家たま平さんが落語家になった頃を振り返る(2019/03/30 放送)
今週は、落語家の林家たま平さんをお迎えしました。
現在24才で二ツ目の林家たま平さん。お父様が9代目林家正蔵さん、叔父様が2代目林家三平さん、お祖父様が初代林家三平さんという落語一家に生まれ育ちました。
お祖父様はたま平さんが生まれた時にはすでに亡くなっていて、林家こぶ平だったお父様が林家正蔵を襲名したのはたま平さんが12才の頃だったとか。
「父が毎週のようにヒロミさんに叩かれてたんで、何が凄いのかちょっとよくわかんなかったです(笑)。毎週虐められてたんで、お父さん大丈夫かな?と思って見てたんですよ(笑)」
「でも、だんだん物心つくようになってきて…落語家じゃないですか。そこで高座の姿を見ると、やっぱりテレビタレントとは全然違うんですよ。僕はそこがカッコいいなと思って。」
たま平さんのお父様が林家こぶ平さんだということは周りの子どもたちも知っていたそうです。
「うちの父親が『モグモグGOMBO』で叩かれてたりすると、月曜日の小学校で毎回僕がおんなじようなことをやられるんですよ(笑)」「すこぉしだけ恨みました(笑)でもイジられるのも悪くないなと思って。これでみんな仲良くなれればって。」
「一番困ったのが運動会…小学校6年生の時に僕、リレーの大会でアンカーに選ばれたんです。落語で言うトリですよね。その時に一門の皆さんが応援に来てくださるんですよ。これが普通の格好で来ればいいのにみなさん着物で来るんですね。浴衣とかで。」
「それで、大音量で『坊っちゃん頑張れ〜』って言って。恥ずかしくて恥ずかしくて…。で、何も知らない低学年の子がそれ見てビックリしちゃって、『ママ見て!弱そうなお相撲さんがいるよぉ!』って言われて(笑)」
中学校は、受験で明治大学付属中野中学に進学。それはたま平さんご自身の意志で、「違う環境に行きたいと思って。いつまでも地元にいちゃダメだと。浅草を出たい、根岸を出たい…」という理由だったとか。
その頃は落語家になりたいという思いは「ちょっとだけありました」というたま平さん。お祖母様の海老名香葉子さんからは時折、落語家になることを勧めるような言葉があったそうです。
「たまに言うんですよ。節目節目とかに。例えば、中学校の時もずっとラグビーをやってて。で、父親であり師匠であるこぶ平…正蔵が中学校卒業して入ったので、そろそろ高校にそのまま行くか落語家になるか考えてみたら?みたいな、匂わすようなことをおっしゃってて。」
「僕もその時は落語をやって、日本舞踊もやって。で、片手間になっちゃうけど寄席も見に行こうと思って、何年かぶりに寄席を見たんですよ。その時に僕、心に衝撃が走ってしまいまして。あ、落語ってカッコいいな…って。ラグビーって15人でやるスポーツなんですけど、一人対お客さんって、こんなに厳しい世界だけどもこんなにカッコいい商売ないなと思って。」
ちなみに、たま平さんがラグビーを始めたのはこんな経緯だったとか。
「実は私、野球部に入ろうとしてたんですよ。入部の届けを出す時にあまりにも長い列ができてて、出遅れちゃったんで後ろの方に並んでたら、『こっちの方に野球部もう一つ作ったよ!』って言われて、『あ、じゃこれ書きます』って書いて。で、翌日のホームルームの時に『うちのクラスからなんと一人だけラグビー部が出た。海老名お前だ!』って言われて。」
「え、どういうこと?と思ったら、ラグビー部の人が野球部のアレを勝手に作っちゃって。嘘ついて…要は騙されて入ったんですよ。それで入って、いざ始めたら面白いのなんの。」
高校でも引き続きラグビーに打ち込んだたま平さんですが、卒業後に落語家になることは決めていたそうです。
「エスカレーター式の高校なんで普通にやってれば大学まで行けるんですよ。」「でも、高校1年生の時にいきなり進路相談みたいなのがあって、その時僕はすぐ“就職、落語家”って書きました。中学の時に決意しちゃったんで。」「大学に行くっていう選択肢は頭の中になかったですね。」
ラグビーでは結局、花園(全国大会)には行けなかったそうで、全国大会への夢が絶たれた後、年度が変わった4月に師匠(お父様)のところへ弟子入り志願に行ったとか。
「まず最初、新宿末廣亭の楽屋の前で出待ちをしましてね。坊っちゃんだから自宅でそういうことできるでしょ?と思われるのが嫌だったんで。普通の落語家さんはみんな出待ちをしていると。菓子折りかなんか持って。それで、僕も同じようにやろうということで、最初行ったんです。」
お母様にも誰にも相談せず弟子入り志願に行ったので、お父様は最初驚いていたそうです。
「ビックリしてました。目がこんな開いちゃって。でも、僕が『弟子入りお願いします』と言ったら最初は断られて。『そんなに甘い商売じゃない。思いつきでそんなこと考えているようだったらやめなさい』と。」
「で、翌日、国立演芸場の前で出待ちをして。その時にちょっと話をしようということで、近くの喫茶店で改めて『落語家になりたいです』とお話しして。『じゃあ、もっと詳しい話を聞きたいからこの後…師匠の家わかるかい?』って言われて、『自分の自宅です』って(笑)。それでそのまま根岸に戻って、改めて挨拶をして、晴れて落語家になりました。」
恵さん「じゃ、許可が出たのは自分ち?根岸?…じゃぁ最初から根岸で話したらいいじゃないですか!でも、その段取りが必要なんですよね。」
たま平さん「必要なんですよ。飛ばしちゃうとダメなんです。」
そして、お父様とは「親子の縁を切ってます」と、たま平さん。「最後まで師匠です。だから今父親がいないんです、僕。けど、おかみさんはお母さんでいてくれるんですよ」とおっしゃっていました。
来週も引き続き、林家たま平さんをお迎えします!
現在24才で二ツ目の林家たま平さん。お父様が9代目林家正蔵さん、叔父様が2代目林家三平さん、お祖父様が初代林家三平さんという落語一家に生まれ育ちました。
お祖父様はたま平さんが生まれた時にはすでに亡くなっていて、林家こぶ平だったお父様が林家正蔵を襲名したのはたま平さんが12才の頃だったとか。
「父が毎週のようにヒロミさんに叩かれてたんで、何が凄いのかちょっとよくわかんなかったです(笑)。毎週虐められてたんで、お父さん大丈夫かな?と思って見てたんですよ(笑)」
「でも、だんだん物心つくようになってきて…落語家じゃないですか。そこで高座の姿を見ると、やっぱりテレビタレントとは全然違うんですよ。僕はそこがカッコいいなと思って。」
たま平さんのお父様が林家こぶ平さんだということは周りの子どもたちも知っていたそうです。
「うちの父親が『モグモグGOMBO』で叩かれてたりすると、月曜日の小学校で毎回僕がおんなじようなことをやられるんですよ(笑)」「すこぉしだけ恨みました(笑)でもイジられるのも悪くないなと思って。これでみんな仲良くなれればって。」
「一番困ったのが運動会…小学校6年生の時に僕、リレーの大会でアンカーに選ばれたんです。落語で言うトリですよね。その時に一門の皆さんが応援に来てくださるんですよ。これが普通の格好で来ればいいのにみなさん着物で来るんですね。浴衣とかで。」
「それで、大音量で『坊っちゃん頑張れ〜』って言って。恥ずかしくて恥ずかしくて…。で、何も知らない低学年の子がそれ見てビックリしちゃって、『ママ見て!弱そうなお相撲さんがいるよぉ!』って言われて(笑)」
中学校は、受験で明治大学付属中野中学に進学。それはたま平さんご自身の意志で、「違う環境に行きたいと思って。いつまでも地元にいちゃダメだと。浅草を出たい、根岸を出たい…」という理由だったとか。
その頃は落語家になりたいという思いは「ちょっとだけありました」というたま平さん。お祖母様の海老名香葉子さんからは時折、落語家になることを勧めるような言葉があったそうです。
「たまに言うんですよ。節目節目とかに。例えば、中学校の時もずっとラグビーをやってて。で、父親であり師匠であるこぶ平…正蔵が中学校卒業して入ったので、そろそろ高校にそのまま行くか落語家になるか考えてみたら?みたいな、匂わすようなことをおっしゃってて。」
「僕もその時は落語をやって、日本舞踊もやって。で、片手間になっちゃうけど寄席も見に行こうと思って、何年かぶりに寄席を見たんですよ。その時に僕、心に衝撃が走ってしまいまして。あ、落語ってカッコいいな…って。ラグビーって15人でやるスポーツなんですけど、一人対お客さんって、こんなに厳しい世界だけどもこんなにカッコいい商売ないなと思って。」
ちなみに、たま平さんがラグビーを始めたのはこんな経緯だったとか。
「実は私、野球部に入ろうとしてたんですよ。入部の届けを出す時にあまりにも長い列ができてて、出遅れちゃったんで後ろの方に並んでたら、『こっちの方に野球部もう一つ作ったよ!』って言われて、『あ、じゃこれ書きます』って書いて。で、翌日のホームルームの時に『うちのクラスからなんと一人だけラグビー部が出た。海老名お前だ!』って言われて。」
「え、どういうこと?と思ったら、ラグビー部の人が野球部のアレを勝手に作っちゃって。嘘ついて…要は騙されて入ったんですよ。それで入って、いざ始めたら面白いのなんの。」
高校でも引き続きラグビーに打ち込んだたま平さんですが、卒業後に落語家になることは決めていたそうです。
「エスカレーター式の高校なんで普通にやってれば大学まで行けるんですよ。」「でも、高校1年生の時にいきなり進路相談みたいなのがあって、その時僕はすぐ“就職、落語家”って書きました。中学の時に決意しちゃったんで。」「大学に行くっていう選択肢は頭の中になかったですね。」
ラグビーでは結局、花園(全国大会)には行けなかったそうで、全国大会への夢が絶たれた後、年度が変わった4月に師匠(お父様)のところへ弟子入り志願に行ったとか。
「まず最初、新宿末廣亭の楽屋の前で出待ちをしましてね。坊っちゃんだから自宅でそういうことできるでしょ?と思われるのが嫌だったんで。普通の落語家さんはみんな出待ちをしていると。菓子折りかなんか持って。それで、僕も同じようにやろうということで、最初行ったんです。」
お母様にも誰にも相談せず弟子入り志願に行ったので、お父様は最初驚いていたそうです。
「ビックリしてました。目がこんな開いちゃって。でも、僕が『弟子入りお願いします』と言ったら最初は断られて。『そんなに甘い商売じゃない。思いつきでそんなこと考えているようだったらやめなさい』と。」
「で、翌日、国立演芸場の前で出待ちをして。その時にちょっと話をしようということで、近くの喫茶店で改めて『落語家になりたいです』とお話しして。『じゃあ、もっと詳しい話を聞きたいからこの後…師匠の家わかるかい?』って言われて、『自分の自宅です』って(笑)。それでそのまま根岸に戻って、改めて挨拶をして、晴れて落語家になりました。」
恵さん「じゃ、許可が出たのは自分ち?根岸?…じゃぁ最初から根岸で話したらいいじゃないですか!でも、その段取りが必要なんですよね。」
たま平さん「必要なんですよ。飛ばしちゃうとダメなんです。」
そして、お父様とは「親子の縁を切ってます」と、たま平さん。「最後まで師匠です。だから今父親がいないんです、僕。けど、おかみさんはお母さんでいてくれるんですよ」とおっしゃっていました。
来週も引き続き、林家たま平さんをお迎えします!