リオ・パラリンピックに夫婦で出場!廣瀬悠さんと順子さん(2017/09/02 放送)
今週は、柔道家の廣瀬悠(ひろせ はるか)選手、廣瀬順子選手ご夫妻をお迎えしました。
昨年のリオ・デ・ジャネイロ パラリンピックに視覚障がい者柔道で出場したお二人。1979年生まれの悠さんは愛媛県松山市出身で、小学校2年生で柔道を始め、高校時代には県の代表としてインターハイにも出場します。
順子さんは1990年生まれ。山口県山口市出身で、小学生の時に柔道を始め、旦那さんと同様にインターハイへの出場経験がありますが、実は他のスポーツは苦手で体育の授業も大嫌いだったとか。「私はほかのスポーツが凄く苦手なので、他のスポーツとは違った楽しさがあって凄く好きです」「どっちかっていうと他にできることがなくて柔道っていう感じです」とおっしゃっていました。
悠さんは、高校2年生の時に緑内障を発症。医者からは柔道をとめられたそうで、今もあまりやってはいけないと言われているそう。それでもチャレンジを続ける理由については「やっぱり夫婦で金メダルを獲りたいからかな」とのこと。高校卒業後に就職してしばらくは柔道から離れていたそうですが、再び始めたきっかけについてはこんなふうに話してくれました。
「少しまた目が悪くなって盲学校に行くことになって。で、盲学校の担任の先生がパラリンピックの陸上でメダルを獲っている人で、その人が家庭訪問に来た時にトロフィーが並んでいるのを見て、廣瀬くんのレベルだったらパラリンピック出れるよって言われて。で、うちの親が北京に応援に行きたいって駄々をこねまして。それでやり始めました。親のためです(笑)。ホントはサボりたいし、逃げたいし、やめたいんですけど。人のためじゃないと動かないっていう」
「目の病気になった時にけっこう家で暴れまして。壁に穴を開けたりですね、遅めの反抗期というか、親に迷惑をかけたんで、ちょっと親孝行しようかなと」「それまではけっこう暴れてたんですけど、柔道で汗を流すようになってからはみるみる落ち着きまして(笑)」「親が凄く喜ぶんですよね。僕の前では自慢しないんですけど、いろんな人に会って凄く自慢しているのを見ると、あ、嬉しいんだなと思って」
一方、「私は今は視覚障害が残ってるんですけど、もともと膠原病で体の病気だったので、病気が治ってからは目が悪くても生きているだけで幸せ」というのは純子さん。目が悪くなっても柔道にチャレンジした理由についてはこんなふうに話してくれました。
「目が悪くなって周りの子と同じようにできなくて悔しかったとか、諦めることが多くなったので、もう1回昔みたいに一生懸命になれて自分に自信が持てるものが欲しいなと思って柔道を再開しました」「視覚障害になってからいちばん目が悪いことを忘れられる瞬間というか、昔と同じようにできるのが唯一、柔道っていう感じで、凄くそれが幸せです」
悠さんによると、視覚障がい者柔道と健常者の柔道との大きな違いは、組み手争いがなく、組んだ状態から始まるところだそう。「外国人の選手は力が強いので、腕力がないと自分の思ったような技をかけられないので、健常者の柔道に比べると力が必要かなと思います」。また、順子さんも「女子の選手もとても力が強くて、その力で負けてしまうと技がかけられないので」とおっしゃっていて、お二人とも筋トレにはかなり力を入れているようです。
2008年の北京パラリンピックに100キロ級で出場し、5位に入賞した悠さんですが、さぁ次はロンドンだ!とはならず、「もうやらなくていいな」と思ったとか。
「親は北京で応援に行って、ちょっとロンドンは遠いよって言ってたので、これでもう終わりだなと思ってました」「ほとんど練習していなくて試合だけ出ていました。会社で正社員で健常者の人と普通に働いていたので、練習する時間もないし、年齢も年齢ですし、仕事に集中しないと駄目だなっていうのがありました」
しかし、純子さんと出会ったことでそんな気持ちに変化が生まれたようです。2013年にアメリカの世界大会で知り合ったお二人は1年後に再会。付き合おうと言ったのは悠さんだったそうですが、プロポーズしたのは順子さんからだったとか。
「当時は私が東京にいて、悠さんが愛媛県で遠距離恋愛だったんですけど、“遠いのでお互い大変だし別れよう”って悠さんが言いだして、それが凄くイヤだったので、距離が問題なら愛媛に行くから結婚してくださいって言いました(笑)」
ちなみに、純子さんに悠さんのどんなところに惹かれたのか伺うと、こんな答えが返ってきました。「どこに行ってもみんなのムードメーカーだし、凄く優しいので、一緒にいたら楽しかなと」
純子さんが銅メダルに輝いたリオ・パラリンピックについては来週伺います!
昨年のリオ・デ・ジャネイロ パラリンピックに視覚障がい者柔道で出場したお二人。1979年生まれの悠さんは愛媛県松山市出身で、小学校2年生で柔道を始め、高校時代には県の代表としてインターハイにも出場します。
順子さんは1990年生まれ。山口県山口市出身で、小学生の時に柔道を始め、旦那さんと同様にインターハイへの出場経験がありますが、実は他のスポーツは苦手で体育の授業も大嫌いだったとか。「私はほかのスポーツが凄く苦手なので、他のスポーツとは違った楽しさがあって凄く好きです」「どっちかっていうと他にできることがなくて柔道っていう感じです」とおっしゃっていました。
悠さんは、高校2年生の時に緑内障を発症。医者からは柔道をとめられたそうで、今もあまりやってはいけないと言われているそう。それでもチャレンジを続ける理由については「やっぱり夫婦で金メダルを獲りたいからかな」とのこと。高校卒業後に就職してしばらくは柔道から離れていたそうですが、再び始めたきっかけについてはこんなふうに話してくれました。
「少しまた目が悪くなって盲学校に行くことになって。で、盲学校の担任の先生がパラリンピックの陸上でメダルを獲っている人で、その人が家庭訪問に来た時にトロフィーが並んでいるのを見て、廣瀬くんのレベルだったらパラリンピック出れるよって言われて。で、うちの親が北京に応援に行きたいって駄々をこねまして。それでやり始めました。親のためです(笑)。ホントはサボりたいし、逃げたいし、やめたいんですけど。人のためじゃないと動かないっていう」
「目の病気になった時にけっこう家で暴れまして。壁に穴を開けたりですね、遅めの反抗期というか、親に迷惑をかけたんで、ちょっと親孝行しようかなと」「それまではけっこう暴れてたんですけど、柔道で汗を流すようになってからはみるみる落ち着きまして(笑)」「親が凄く喜ぶんですよね。僕の前では自慢しないんですけど、いろんな人に会って凄く自慢しているのを見ると、あ、嬉しいんだなと思って」
一方、「私は今は視覚障害が残ってるんですけど、もともと膠原病で体の病気だったので、病気が治ってからは目が悪くても生きているだけで幸せ」というのは純子さん。目が悪くなっても柔道にチャレンジした理由についてはこんなふうに話してくれました。
「目が悪くなって周りの子と同じようにできなくて悔しかったとか、諦めることが多くなったので、もう1回昔みたいに一生懸命になれて自分に自信が持てるものが欲しいなと思って柔道を再開しました」「視覚障害になってからいちばん目が悪いことを忘れられる瞬間というか、昔と同じようにできるのが唯一、柔道っていう感じで、凄くそれが幸せです」
悠さんによると、視覚障がい者柔道と健常者の柔道との大きな違いは、組み手争いがなく、組んだ状態から始まるところだそう。「外国人の選手は力が強いので、腕力がないと自分の思ったような技をかけられないので、健常者の柔道に比べると力が必要かなと思います」。また、順子さんも「女子の選手もとても力が強くて、その力で負けてしまうと技がかけられないので」とおっしゃっていて、お二人とも筋トレにはかなり力を入れているようです。
2008年の北京パラリンピックに100キロ級で出場し、5位に入賞した悠さんですが、さぁ次はロンドンだ!とはならず、「もうやらなくていいな」と思ったとか。
「親は北京で応援に行って、ちょっとロンドンは遠いよって言ってたので、これでもう終わりだなと思ってました」「ほとんど練習していなくて試合だけ出ていました。会社で正社員で健常者の人と普通に働いていたので、練習する時間もないし、年齢も年齢ですし、仕事に集中しないと駄目だなっていうのがありました」
しかし、純子さんと出会ったことでそんな気持ちに変化が生まれたようです。2013年にアメリカの世界大会で知り合ったお二人は1年後に再会。付き合おうと言ったのは悠さんだったそうですが、プロポーズしたのは順子さんからだったとか。
「当時は私が東京にいて、悠さんが愛媛県で遠距離恋愛だったんですけど、“遠いのでお互い大変だし別れよう”って悠さんが言いだして、それが凄くイヤだったので、距離が問題なら愛媛に行くから結婚してくださいって言いました(笑)」
ちなみに、純子さんに悠さんのどんなところに惹かれたのか伺うと、こんな答えが返ってきました。「どこに行ってもみんなのムードメーカーだし、凄く優しいので、一緒にいたら楽しかなと」
純子さんが銅メダルに輝いたリオ・パラリンピックについては来週伺います!