2代目林家三平さんが落語の道に入ったきっかけ(2017/03/04 放送)
今週は、落語家の林家三平さんをお迎えしました。
1970年生まれの現在46才、昨年秋には第一子が誕生した三平さん。「可愛くて可愛くて目ん中に入れても痛くない、ってホントに入れたら痛かったっって。親父のギャグです、これ(笑)」「親父になりますね、オッサンにね。ビックリします。ちょっとずつ落ち着き始めてる自分」「守るものができたっていうチャレンジもありますね」なんておっしゃっていました。
初代の林家三平さんについて「うちの父はやっぱり背中は大きかったですね」と話してくれた三平さん。お父様はとても可愛がってくれて、幼稚園の送り迎えもしてくれたそう。そして、帰りは浅草の演芸場を回って、最後は一緒に銀座のクラブに行ったとか。
「4才か5才の時。そこでジンジャーエールを飲んでいた私がいたという」「とにかく年をとってからの子なんで。父が45の時の子供です。私も45の時にせがれが生まれてるんですよ。これも何かの縁というか、不思議なものを感じるんですよね」
そんなお父様が亡くなったのは三平さんが9才、小学校4年生の時。「いろんな方がご挨拶しに来てくれるんですが、それがうちの玄関から鶯谷の駅まで行列が出来たって言われてますね。その時のことを思い出すと、父は死んでいないっていうふうな気持ちしかなかったですね。だから半分記憶がないんですよ」と亡くなったことをなかなか受け入れられなかったそうです。
「そこでチャレンジがあったんです。海老名家は。林家一門もそうなんですけど、師匠が亡くなった場合っていうのはその一門はバラバラにならなきゃならないっていうのが。それを持って終了なんで、お弟子さんたちはいろんな師匠のところに預けさせられちゃうんです。真打ちの人は別個なんです。独立してるんで」
「で、どうしたかって言うと、うちはこん平を筆頭に固まりましょうって言ったんです。300年の歴史の中でそれが初めてなんです。その瞬間のいろんな落語協会とか落語会の方からの軋轢はものすごかったですね。誰も来ないんですもん」
古くからのしきたりを破ってまで一門でまとまった理由は、お父様が生前に、こん平さんを筆頭に頑張りなさい、という言葉を残していたからだったそう。
三平さんのお父様は太平洋戦争時、フランス文学を学ぶ学生で、学徒出陣で戦争に行ったそう。
「父は元々、文学者になりたかったんですよ。戦争があってからころっと変わった、そこで一回自分の心が亡くなったと思ったんじゃないですか。で、噺家という父(7代目林家正蔵さん)の背中を見て、これが日本には必要なんだ、笑いが必要なんだと思ったらしいんですよ」
三平さんが生まれ育ったのは、1945年3月10日未明の東京大空襲で大きな被害を受けた台東区根岸でした。その空襲で家族を亡くした三平さんのお母様は、後に慰霊碑を建立。今年も3月9日(木)の午前10時から上野公園で開催される慰霊祭「時忘れじの集い」には三平さんも出席されます。
1970年生まれの現在46才、昨年秋には第一子が誕生した三平さん。「可愛くて可愛くて目ん中に入れても痛くない、ってホントに入れたら痛かったっって。親父のギャグです、これ(笑)」「親父になりますね、オッサンにね。ビックリします。ちょっとずつ落ち着き始めてる自分」「守るものができたっていうチャレンジもありますね」なんておっしゃっていました。
初代の林家三平さんについて「うちの父はやっぱり背中は大きかったですね」と話してくれた三平さん。お父様はとても可愛がってくれて、幼稚園の送り迎えもしてくれたそう。そして、帰りは浅草の演芸場を回って、最後は一緒に銀座のクラブに行ったとか。
「4才か5才の時。そこでジンジャーエールを飲んでいた私がいたという」「とにかく年をとってからの子なんで。父が45の時の子供です。私も45の時にせがれが生まれてるんですよ。これも何かの縁というか、不思議なものを感じるんですよね」
そんなお父様が亡くなったのは三平さんが9才、小学校4年生の時。「いろんな方がご挨拶しに来てくれるんですが、それがうちの玄関から鶯谷の駅まで行列が出来たって言われてますね。その時のことを思い出すと、父は死んでいないっていうふうな気持ちしかなかったですね。だから半分記憶がないんですよ」と亡くなったことをなかなか受け入れられなかったそうです。
「そこでチャレンジがあったんです。海老名家は。林家一門もそうなんですけど、師匠が亡くなった場合っていうのはその一門はバラバラにならなきゃならないっていうのが。それを持って終了なんで、お弟子さんたちはいろんな師匠のところに預けさせられちゃうんです。真打ちの人は別個なんです。独立してるんで」
「で、どうしたかって言うと、うちはこん平を筆頭に固まりましょうって言ったんです。300年の歴史の中でそれが初めてなんです。その瞬間のいろんな落語協会とか落語会の方からの軋轢はものすごかったですね。誰も来ないんですもん」
古くからのしきたりを破ってまで一門でまとまった理由は、お父様が生前に、こん平さんを筆頭に頑張りなさい、という言葉を残していたからだったそう。
三平さんのお父様は太平洋戦争時、フランス文学を学ぶ学生で、学徒出陣で戦争に行ったそう。
「父は元々、文学者になりたかったんですよ。戦争があってからころっと変わった、そこで一回自分の心が亡くなったと思ったんじゃないですか。で、噺家という父(7代目林家正蔵さん)の背中を見て、これが日本には必要なんだ、笑いが必要なんだと思ったらしいんですよ」
三平さんが生まれ育ったのは、1945年3月10日未明の東京大空襲で大きな被害を受けた台東区根岸でした。その空襲で家族を亡くした三平さんのお母様は、後に慰霊碑を建立。今年も3月9日(木)の午前10時から上野公園で開催される慰霊祭「時忘れじの集い」には三平さんも出席されます。
87年の映画『ウォール・ストリート』に感化されて、国際経済を学ぼうと大学に入った三平さん。落語の道に進むきっかけは、大学時代のヨーロッパ旅行だったとか。スペインで日本の文化のことを聞かれた時に上手く説明できず、代わりに隣にいたフランス人の夫婦が浮世絵について説明してくれて恥ずかしい思いをしたそうです。
「で、フランス人のご夫妻に言われたのが、インターナショナルになるためには自分の国の文化を堂々と説明できなきゃ駄目だよ、って。そういうことを一切できなくて恥をかいて戻ってきて、日本の文化を何か1つでも伝えようと思って見たのが落語だったんですよ」
そんなきっかけで落語の素晴らしさに気づいた三平さんは、大学1年で林家こん平さんに弟子入り。現在の寄席には4,5人の前座さんがいるそうですが、三平さんが入った頃は昼夜で2人なんてこともあったとか。「だから働きづめですよね。なる人がいない時代ですから。大学とか行ってる時間がないんですよ。キツくてキツくて」
また、いざ落語の世界に入ると立場が一変。以前は初代・林家三平さんの息子ということで「お坊ちゃん」とチヤホヤしてくれていた人からも「おい!」と呼び捨てで呼ばれるようになり、着物をたたむのが遅いとお尻を蹴られたこともあったとか。「辞めることは簡単ですよ。でも、父の顔に泥を塗ることはできないと思ったんで続けられたんですね」
来週も引き続き、林家三平さんをお迎えします。お楽しみに!
