前日の夜は、ほとんど眠れなかったという。
片平 里菜“始まりに”。
今後、多くの人々の耳に届くことになるのは、 この日の“声”に他ならない。
都内、某スタジオ。
レコーディング本番。
山田先生、喜多先生。そして、サポートメンバーの方々。
少しずつ見慣れてきた仲間たち、見慣れた風景。
しかし。
「緊張…… してます。」
明らかに、これまでと雰囲気が違う。
この日が“本番”なのは、里菜ちゃんだけではない。
ヴォーカル、ギター、ベース、ドラム。
曲を構成する全ての楽器の音の収録が、この日に行われる。
メンバーが集まる部屋から、ガラス一枚を隔てたその向こう。
まずは、リズム隊の音のレコーディングから。今はドラムの収録中。
コチラの部屋からは、かなり細かい指示が飛び交う。
「ちょっとリズムがズレたね。じゃあ、二小節目からもう一度…」
「うーん、さっきの方がよかったかな? もう一度やってみて。」
「よし、じゃあ一回聴いてみよう……」
スピーカー越しに聴こえてくる一音一音が、 山田先生の厳しい審査にさらされる。
“一音一音”という表現は、大げさではない。
プロのミュージシャンたちが、何度も何度も、 納得いくまで音を鳴らし続ける。
そして、録っては聴いて、違う鳴らし方を試してみる。
さらに、録っては聴いて……
気が遠くなるほど細かい作業を繰り返し、 この難関をくぐり抜けた“音”だけが、リスナーの耳に飛び込む資格を与えられる。
一見穏やかな、しかし、確実にヒリヒリとした空気の中、 レコーディングは続いていく。
「うーん…… もう一回。もう一回だけやってみよう。」
里菜ちゃんは、“緊張の糸”が張り巡らされたスタジオの中、 落ち着かない様子で、自分の出番を待つ。
「よし、じゃあ、ドラムはオッケー。続いては……」
続いては、山田先生の出番。
コチラも、先ほどのドラムと全く同じ作業。
音を鳴らしては、みんなで検証。以下繰り返し。
たまに笑い声が漏れ聞こえるが、緊張が途切れることはない。
作業は続く。納得のいく作品を生むために。
※ ※ ※ ※
数時間後。
いてもたってもいられなくなった里菜ちゃんが、スタジオの外に出て、 "声出し" を始めて少し経った頃ー
「よし、お待たせしました。」
ついに、里菜ちゃんの出番がやってきた。
「よしー。」
カチリとスイッチが切り替わったかのように、 表情が変わった。気がした。
※ ※ ※ ※
スピーカーから、里菜ちゃんの声が聴こえてきた瞬間に、 その場にいた全員の胸の中に、言葉にならない感情がよぎる。
一見、かわいらしい女の子が、心の奥底に秘めている“何か”。
繊細でありながら、街中の憂鬱や悲しみを、 丸ごとどこかにぶっ飛ばしていくような、とてつもなく荒々しいエネルギー。
"叫び”。あるいは“魂"。
とんでもなく男臭い言葉で表現してしまいたくなるような、 ブッチギリのパワー。
この声を聴いただけで、里菜ちゃんが、この日に賭けていた想いが伝わってくる。
今だから歌えること。今しか歌えないこと。
その感情が全て、とんでもない勢いで、スピーカーから放射される。
無言でみんながうなづいている。
もちろん、山田先生も。
「オッケイ!」
あっという間に、OKのサイン。しかし。
「いや、今のところ… もう一回歌っていいですか?」
下を向いて緊張していた少女はもう、ここにはいない。
山田先生が嬉しそうにはにかむ。
「うん、いいよ。気が済むまで歌って!」
「…はい!」
※ ※ ※ ※
怒濤(どとう)の一日が、終わった。
あとは、今日レコーディングしたこの音源を整えていく作業(マスタリング)を残すのみ。
里菜ちゃんは、まさしく“全て”を出し切った後のような放心状態。
「たった一ヶ月くらい前にこの話をいただいて、心が落ち着かないまま全てが終わって… 本当に あっという間でしたね。すごい時間でした。まだ、全然整理できていないですけど……」
ーいい作品に、なりそう?
「自分では… 正直、かなり満足しています。山田先生のおかげで、自分が元々思い描いていた情景が、当初のイメージ以上に浮き出てくる曲になったと思います。早く皆さんに聴いてもらいたい ですね。早く……」
ここで重大発表。
片平里菜“始まりに”。
3月5日月曜日。
SCHOOL OF LOCK!で宇宙初オンエア。
つづく