ゴルゴ松本さんが甲子園出場を振り返る!(2020/05/16 放送)
今週は、ゴルゴ松本さんにリモート収録でお話を伺いました。
先月53歳になったゴルゴさん。出身は埼玉県の深谷市で、熊谷商業高校の野球部に所属していたそうです。
「とにかく甲子園で野球がやりたいと。子供の時から夏の甲子園をよく見てたので」「50メートル5秒7で走ってました。高校3年生の時に」「とりあえずレギュラーを目指してたんですけど、まったくレギュラーになれなかったです、高校時代は」
「1年生で入ったとたん、あ、こういう人たちがプロに行くんだなっていう感じで。もうみんな体がデカイんですよ。で、僕は168センチの56キロぐらいしかなかった」
ただ、ゴルゴさんはそんな中でも決して心が折れることはなかったとか。
「負けず嫌いですね。とにかく小さいヤツがデカいヤツに勝つ方が気持ちいいじゃないですか。だからそういう気持ちで、身長とか体は関係ねえなと。やる気さえあれば逆転できるなっていうのは常にあったので」
「だって僕らが育ったのって昭和じゃないですか。アニメもスポ根がほとんどで、そういうのを見てますから、挫折しかけても乗り越えると成功があるんだ!っていうのを植え付けられてましたので」
当時から、言霊…言葉には魂が宿る、ということを実践して、“甲子園に出る”と書いた紙を部屋に貼っていたというゴルゴさん。その結果、見事に甲子園の土を踏むことができました。
「出たんです。3年生の春に。選抜なんですけども。で、ベンチにも入れたんです。背番号14番で」「(ポジションは?)コーチャーズボックスです、ハハハハ(笑)。内野の控え。15人しかベンチに入れないので、とにかく内野を全部できるように」
「僕はギリギリだったんです。(ベンチに)入るか入らないか。(名前を)呼ばれて嬉しかったですねぇ。入れないメンバーもいるので、心の中ではすげえガッツポーズしました。嬉しい顔をしないです」「負けた相手のことを思い、行動しなきゃいけないっていう」
野球に関しては甲子園で完全燃焼してしまったというゴルゴさん。その次の目標が芸能界だったとか。
「高校野球が終わってしまった…っていう脱力感っていうんですか。もうすべてが終わった感じになって。その後10年ぐらい僕は野球を一切見てないんです」
「大学を受けるんです。僕は行く気なかったです。芸能界にもう入りたかったんです。高校3年生の時には、とんねるずがテレビにバンバン出ていく姿を見て。ああいうふうになりたいと思って、芸能界!っていうのを18才の時には思ってたんですね」
「ですが、周りに流されて大学受験するんですけど、落ちるんです。ぶっちゃけ挫折じゃないんです。よし!大学行かなくてすんだぞ!ってなるんです。やる時はいっしょうけんめい勉強はしてたんですけど…」
「高3の時に三者面談で親父には(芸能界に行きたいと)言ったんですけど、何をふざけたことを言ってんだ?って。大反対です」
ゴルゴさんの実家は小さなスーパーだったそうで、大学に落ちたゴルゴさんはお兄さんと一緒にしばらく地元の大きなスーパーで修行をしていたそうです。
「で、3年後の21才の時に東京に出る、芸能界に!って言って家を出ました」「(実家は)兄貴が継いでいきますから、僕は東京に出る!って言ったら、親父が、お前の人生だから好きにしていい、ただ家族は大切にしろって」
ゴルゴさんが後にTIMの相方となるレッド吉田さんと出会ったのは昭和が終わる頃だったとか。
「レッドさんとは同じアパート。隣同士で。そこから銭湯でよく出会うようになって。野球の話になって。お互い甲子園出てるんで。レッドさんは2つ上なんですけど、甲子園出てるんです。そんなところで意気投合して、よく一緒に芝居とか勉強してたんですけど」
「たまたま僕が203で、レッドさんが隣の202に引っ越してきたんですよ」
ゴルゴさんとレッドさんは最初からお笑いをやっていたわけではなく、当初は小劇団で役者として活動していたそうです。
先月53歳になったゴルゴさん。出身は埼玉県の深谷市で、熊谷商業高校の野球部に所属していたそうです。
「とにかく甲子園で野球がやりたいと。子供の時から夏の甲子園をよく見てたので」「50メートル5秒7で走ってました。高校3年生の時に」「とりあえずレギュラーを目指してたんですけど、まったくレギュラーになれなかったです、高校時代は」
「1年生で入ったとたん、あ、こういう人たちがプロに行くんだなっていう感じで。もうみんな体がデカイんですよ。で、僕は168センチの56キロぐらいしかなかった」
ただ、ゴルゴさんはそんな中でも決して心が折れることはなかったとか。
「負けず嫌いですね。とにかく小さいヤツがデカいヤツに勝つ方が気持ちいいじゃないですか。だからそういう気持ちで、身長とか体は関係ねえなと。やる気さえあれば逆転できるなっていうのは常にあったので」
「だって僕らが育ったのって昭和じゃないですか。アニメもスポ根がほとんどで、そういうのを見てますから、挫折しかけても乗り越えると成功があるんだ!っていうのを植え付けられてましたので」
当時から、言霊…言葉には魂が宿る、ということを実践して、“甲子園に出る”と書いた紙を部屋に貼っていたというゴルゴさん。その結果、見事に甲子園の土を踏むことができました。
「出たんです。3年生の春に。選抜なんですけども。で、ベンチにも入れたんです。背番号14番で」「(ポジションは?)コーチャーズボックスです、ハハハハ(笑)。内野の控え。15人しかベンチに入れないので、とにかく内野を全部できるように」
「僕はギリギリだったんです。(ベンチに)入るか入らないか。(名前を)呼ばれて嬉しかったですねぇ。入れないメンバーもいるので、心の中ではすげえガッツポーズしました。嬉しい顔をしないです」「負けた相手のことを思い、行動しなきゃいけないっていう」
野球に関しては甲子園で完全燃焼してしまったというゴルゴさん。その次の目標が芸能界だったとか。
「高校野球が終わってしまった…っていう脱力感っていうんですか。もうすべてが終わった感じになって。その後10年ぐらい僕は野球を一切見てないんです」
「大学を受けるんです。僕は行く気なかったです。芸能界にもう入りたかったんです。高校3年生の時には、とんねるずがテレビにバンバン出ていく姿を見て。ああいうふうになりたいと思って、芸能界!っていうのを18才の時には思ってたんですね」
「ですが、周りに流されて大学受験するんですけど、落ちるんです。ぶっちゃけ挫折じゃないんです。よし!大学行かなくてすんだぞ!ってなるんです。やる時はいっしょうけんめい勉強はしてたんですけど…」
「高3の時に三者面談で親父には(芸能界に行きたいと)言ったんですけど、何をふざけたことを言ってんだ?って。大反対です」
ゴルゴさんの実家は小さなスーパーだったそうで、大学に落ちたゴルゴさんはお兄さんと一緒にしばらく地元の大きなスーパーで修行をしていたそうです。
「で、3年後の21才の時に東京に出る、芸能界に!って言って家を出ました」「(実家は)兄貴が継いでいきますから、僕は東京に出る!って言ったら、親父が、お前の人生だから好きにしていい、ただ家族は大切にしろって」
ゴルゴさんが後にTIMの相方となるレッド吉田さんと出会ったのは昭和が終わる頃だったとか。
「レッドさんとは同じアパート。隣同士で。そこから銭湯でよく出会うようになって。野球の話になって。お互い甲子園出てるんで。レッドさんは2つ上なんですけど、甲子園出てるんです。そんなところで意気投合して、よく一緒に芝居とか勉強してたんですけど」
「たまたま僕が203で、レッドさんが隣の202に引っ越してきたんですよ」
ゴルゴさんとレッドさんは最初からお笑いをやっていたわけではなく、当初は小劇団で役者として活動していたそうです。
「5年ぐらいあっちこっち小さいなところでやったりしながら、でもこれじゃ食えねえぞ…っていうので、(レッドさんに)お笑い、ちゅうのがある。一緒にやらないか?って誘われたんです」
「その時に、そうだ…とんねるずに憧れてたわけだから、バラエティ、お笑いの方のタレント、そっちになりたいんだ、って目覚めさせてくれたのはレッドさんなんですよ。レッドさんもお笑いをやりたかったんですよ」「気づくのが遅かったっていう言い方もありますけど(笑)。5年たってましたから」
1994年にTIMを結成したレッド吉田さんとゴルゴ松本さん。最初の2年ぐらいは大変だったそうで、「命」や「炎」といった漢字ギャグで人気となり、お風呂付きの部屋に住めるようになったのは98年ごろだったとか。
「ちょうどそういうタイミングの時に『ボキャブラ天国』っていう番組の勢いがあって、そこに出ることができたっていうのもありますよね」
「27で始めたので、レッドさんは29。食えるようになったのは30過ぎて、ですけど、タモリさんとか、たけしさんも30過ぎて売れたじゃないですか。そういう先輩たちもいてくれたので、まぁ年は関係ないなっていう思いもありました」
ちなみに、ゴルゴさんと恵さんは同じ事務所で、恵さんが3才年上。初めて会ったのはゴルゴさんが27才の時だったそうで、ゴルゴさんが恵さんの運転手をやったこともあったとか。
恵さんはその時のことを「恵さんにつかせてください!つって。ぜんぶ運転しますからって。現場をとにかく見させてください。お金入りません!って言ってさ。すっごい覚えてる」と振り返ってくれました。
ゴルゴさんはずっとチャレンジを続けてきたエネルギーの源についてこう話してくれました。
「僕は、逃げないこと、ですね」「自分がやりたいと思ったことはとことんやってみて…」「(野球は)高校の2年半しかやってないんですけど、あの時に燃え尽きたっていうのがあるので。燃え尽きるまでやりたいなっていうのはあったので、常に全力を出そうとは思ってやってましたけど」
「芸能界に関しては諦めたことはないですね」「なんとかなんとか生き抜いております」
そんなゴルゴさんは先月、Youtubeに『ゴルゴ松本 命の授業チャンネル』を開設しています。
「2月の後半からイベントの中止が…ほぼすべてなんですけども」「こうやって家にいるより、Youtubeでもいいからステイホームしてる誰かが見て、その人の力になれればいいかなと思って。マネージャーに掛け合って開設させて頂いたんですよね」
来週も引き続き、ゴルゴ松本さんにお迎えして、“命の授業”のお話などを伺います。
「その時に、そうだ…とんねるずに憧れてたわけだから、バラエティ、お笑いの方のタレント、そっちになりたいんだ、って目覚めさせてくれたのはレッドさんなんですよ。レッドさんもお笑いをやりたかったんですよ」「気づくのが遅かったっていう言い方もありますけど(笑)。5年たってましたから」
1994年にTIMを結成したレッド吉田さんとゴルゴ松本さん。最初の2年ぐらいは大変だったそうで、「命」や「炎」といった漢字ギャグで人気となり、お風呂付きの部屋に住めるようになったのは98年ごろだったとか。
「ちょうどそういうタイミングの時に『ボキャブラ天国』っていう番組の勢いがあって、そこに出ることができたっていうのもありますよね」
「27で始めたので、レッドさんは29。食えるようになったのは30過ぎて、ですけど、タモリさんとか、たけしさんも30過ぎて売れたじゃないですか。そういう先輩たちもいてくれたので、まぁ年は関係ないなっていう思いもありました」
ちなみに、ゴルゴさんと恵さんは同じ事務所で、恵さんが3才年上。初めて会ったのはゴルゴさんが27才の時だったそうで、ゴルゴさんが恵さんの運転手をやったこともあったとか。
恵さんはその時のことを「恵さんにつかせてください!つって。ぜんぶ運転しますからって。現場をとにかく見させてください。お金入りません!って言ってさ。すっごい覚えてる」と振り返ってくれました。
ゴルゴさんはずっとチャレンジを続けてきたエネルギーの源についてこう話してくれました。
「僕は、逃げないこと、ですね」「自分がやりたいと思ったことはとことんやってみて…」「(野球は)高校の2年半しかやってないんですけど、あの時に燃え尽きたっていうのがあるので。燃え尽きるまでやりたいなっていうのはあったので、常に全力を出そうとは思ってやってましたけど」
「芸能界に関しては諦めたことはないですね」「なんとかなんとか生き抜いております」
そんなゴルゴさんは先月、Youtubeに『ゴルゴ松本 命の授業チャンネル』を開設しています。
「2月の後半からイベントの中止が…ほぼすべてなんですけども」「こうやって家にいるより、Youtubeでもいいからステイホームしてる誰かが見て、その人の力になれればいいかなと思って。マネージャーに掛け合って開設させて頂いたんですよね」
来週も引き続き、ゴルゴ松本さんにお迎えして、“命の授業”のお話などを伺います。