山本隆弘さんがオリンピックへ導いてくれた恩師を語る(2020/03/07 放送)
今週は、バレーボール元日本代表の山本隆弘さんをお迎えしました。
2008年には北京オリンピックに出場した山本さん。1978年、鳥取市生まれで、中学1年の秋からバレーボールを始めたそうですが、バレー部に入った理由は「一番楽そうだったから」だとか。
「野球とサッカーは小学校でやって、諦めて辞めたんですよ。で、なにか部活動に入らなきゃいけないっていう規則があったので。実は文化系に入ろうと思ってて、茶道部に入ろうかなと思った時に、ちょうどバレー部の子がバレー部に入ってくれと言ってきたんですよ」
「なんで?って聞いたら、俺しか部員がいないんだと。だから名前だけでいいから入って、って言われたんですよ。それに惹かれちゃって入ったんですよ。名前だけなんで、授業終わったら家に帰れるじゃないですか」
「部員は僕とそいつの2人でした。なんで1年生の時は練習してないです」
「3年生になったら部員が8人、9人ぐらいはいましたけど。バレー部が人気になったんですよ。練習しなくていい部だと。他の部活動を辞めた子たちがどんどん入ってきたという」
ちなみに、現在は2メートル3センチあるという山本さん。現役を引退してからも2センチほど身長が伸びたそうですが、中学時代は3年間で158センチから192センチになったとか。
「(身長が高いので)注目されまくったんですけど、ヘタクソすぎて、えっ?っていう。ただデカイだけ、みたいな感じでしたよ、バレーを本当にやっている子たちは」
それでも体の大きさで評価されていた山本さんは、バレーボールの名門・鳥取商業高校に進学。それから本格的にプレーするようになったそうです。
「中学校3年が終わって。で、身長が大きかったんで高校に声かけられて。土日は高校で練習してたんですよ」
「そこで、今まで我流でやってたプレーも基本的なことを教わるとできてくるじゃないですか。今まで凄く難しかったのに凄い簡単じゃない?みたいなところが出てきて、どんどん楽しくなっていったんですね」
192センチの長身かつ左利きということもあって、鳥取商業ではすぐにレギュラーとして使ってもらえたという山本さん。ただ、チームは鳥取県では勝てても全国ではなかなか勝てなかったとか。
「(高校3年生の時に)いちおう中国地方大会は勝ったんですよ。初優勝して。で、全国でもいちおう優勝候補になってたんですけど、くじ運が悪くて。九州ナンバーワンと当たってフルセットで負けるという」
山本さんが日本代表を目指すようになったのは、1年生の時からレギュラーで使ってくれた高校の先生の存在が大きかったそうです。
「俺がひいたレールに乗れ、っていう言葉をくれて…」
「その理由っていうのが、鳥取県で男子バレーで日本代表になった選手がいないから、192センチもあって左利きだから、なんとか代表まで上げたいと。それで、アンダーカテゴリーの代表とかにも入れてもらえてたんですね」
「(先生のおかげだということは)全然わかってました。自分の実力では到底ムリでした」「やっぱりそこで目指すべき人間がいるじゃないですか。そいつらになんとか追いつこうと思って」「上手くなりたかったです。いつかはコイツら抜いてやろうと思いましたもん」
高校卒業後は日本体育大学に進学した山本さん。しかし、大学2年生の時に一度バレーボールをやめたとか。
「大学って上下あるじゃないですか、当時は。自分の心の弱さでそれに耐えれなくて。ま、逃げたっていう感じですよね」
「で、大学には戻るつもりもなかったんで、高校の先生に、社会人でバレーボールをやりたいです、っていう話をしたんですよ。そしたら高校の先生は全部の企業に声をかけてくれたんですけど、どこの企業にも今すぐは取れないって言われたんですよ。大学との縁が切れてしまうから大学だけは出て欲しいっていう話で」
バレーボールをやめた山本さんは、半年ほどトラックの運転手として働いていたそうです。
「ハンドルを握りながら、トラックをやってる自分の5年後、10年後っていう未来図をイメージしたんですよ。そしたら大して変わんないんですよね。じゃあ、もしバレーやってたらどうだったんだろう?ってふと思ったんですよ。代表にも入れるかもしれないし、社会人でバレーやってる可能性も高いなっていう、いいことばっかり出てきたんですよ」
「で、当時、漠然とオリンピックに出たいっていう夢も持ってたんで、それも叶えることができるんじゃないかな?って」
そこで、勇気を振り絞り、頭を丸めて大学に頭を下げたという山本さん。ただ、最初のうちは門前払いで、チームメイトは口をきいてくれなかったとか。
「ま、それは自分が巻いた種なんでしょうがないっていうのもあったし、わかってたことなので。でもそこで、人生これ以上下はないなと思ったんですよ。今がどん底で後は上がるしかないな、というふうに吹っ切れたんで良かったかなと思いますよね」
「ボールも触らせてくれなくて、みんな帰った後に自分でできる練習を…2ヶ月ぐらいですかね。その時にちょうど同級生が痺れを切らして、パスの相手をするよ、って言ってくれて。そこで助けられたっていう部分はありますね」
「同級生は徐々に口をきいてくれるようになったんですよ。先輩にわかんないところで」
「そこで戻ってなかったら今がないですからね。今頃たぶん(トラックに乗って)道走ってますよ、ラジオを聞きながら」
大学を卒業した山本さんはパナソニックに入団。全日本の一員として出場した2003年のワールドカップでは、得点王、そしてMVPにも輝きました。
「でも、結果が9位だったんですよ。で、当時は最多得点王がMVPっていう規定があったので貰えましたけど、第9位の僕がとっちゃったので、それから規定が変わりました」
「チームのみんなが僕にトスを託してくれて打てたので、ホントにみんながとらせてくれた賞だったのかなと思いますけどね」
そして、2004年には日本初のプロバレーボール選手になった山本さん。オリンピックも期待されていましたが、日本の男子チームは2004年のアテネオリンピックに出場できませんでした。
「2003年のワールドカップでMVPとってるので、男子バレーは12年ぶりにオリンピック行けるだろうって、凄く注目されてた中で負けてしまったので、すごく自分自身も責任を感じて…。また、バッシングも凄く多くて、もう日の丸を背負っちゃいけないなと思って。やめようかな…っていうところまで行ったんですよ」
「で、バレーもやめようかなと思ったんですけど、プロ契約をしてすぐだったので、これでやめてしまうと、今後プロになりたいっていう選手が出てきた時にプロ制度は完全に作れなくなるなと思ったので、そこだけはなんとか残した中で代表はやめようと思ってましたね」
そんな山本さんに再びオリンピックにチャレンジする覚悟をくれたのは、高校時代の恩師だったそうです。
「ちょうどウチのホームゲームを見に来て、あいつの試合を観に来るのはこれが最後だからって言って鳥取に帰ったんですよ。なんでそんなこと言うんだろう?僕はもう代表に行かないって言ったから怒ってんのかな?って思ったんですけど、翌日から入院したんですね。実は末期の癌で…」
「で、行ける時には何回かお見舞いに行ったんですけど、3回ぐらい行った2週間後ぐらいに目を閉じてしまったんですけどね。その時に奥さんから聞いた話だと、あいつはまだチャレンジできる年齢だからチャレンジして欲しい、っていうのと、オリンピックに行ってる姿を応援したかったと。そういうことを言って目を閉じたんだよって言われたんですよ」
「家族への感謝の言葉とか自分の子供に期待する言葉で目を閉じるんだったらわかるんですけど、いち教え子にそこまでの覚悟を持って、俺がひいたレールに乗れって言ったんだな…っていうのを凄く感じて。やっぱり自分は戻らなきゃいけないと」「先生のためにも必ずオリンピックに出る、という覚悟に変わった瞬間でもありました」
来週も引き続き、山本隆弘さんをお迎えします!
2008年には北京オリンピックに出場した山本さん。1978年、鳥取市生まれで、中学1年の秋からバレーボールを始めたそうですが、バレー部に入った理由は「一番楽そうだったから」だとか。
「野球とサッカーは小学校でやって、諦めて辞めたんですよ。で、なにか部活動に入らなきゃいけないっていう規則があったので。実は文化系に入ろうと思ってて、茶道部に入ろうかなと思った時に、ちょうどバレー部の子がバレー部に入ってくれと言ってきたんですよ」
「なんで?って聞いたら、俺しか部員がいないんだと。だから名前だけでいいから入って、って言われたんですよ。それに惹かれちゃって入ったんですよ。名前だけなんで、授業終わったら家に帰れるじゃないですか」
「部員は僕とそいつの2人でした。なんで1年生の時は練習してないです」
「3年生になったら部員が8人、9人ぐらいはいましたけど。バレー部が人気になったんですよ。練習しなくていい部だと。他の部活動を辞めた子たちがどんどん入ってきたという」
ちなみに、現在は2メートル3センチあるという山本さん。現役を引退してからも2センチほど身長が伸びたそうですが、中学時代は3年間で158センチから192センチになったとか。
「(身長が高いので)注目されまくったんですけど、ヘタクソすぎて、えっ?っていう。ただデカイだけ、みたいな感じでしたよ、バレーを本当にやっている子たちは」
それでも体の大きさで評価されていた山本さんは、バレーボールの名門・鳥取商業高校に進学。それから本格的にプレーするようになったそうです。
「中学校3年が終わって。で、身長が大きかったんで高校に声かけられて。土日は高校で練習してたんですよ」
「そこで、今まで我流でやってたプレーも基本的なことを教わるとできてくるじゃないですか。今まで凄く難しかったのに凄い簡単じゃない?みたいなところが出てきて、どんどん楽しくなっていったんですね」
192センチの長身かつ左利きということもあって、鳥取商業ではすぐにレギュラーとして使ってもらえたという山本さん。ただ、チームは鳥取県では勝てても全国ではなかなか勝てなかったとか。
「(高校3年生の時に)いちおう中国地方大会は勝ったんですよ。初優勝して。で、全国でもいちおう優勝候補になってたんですけど、くじ運が悪くて。九州ナンバーワンと当たってフルセットで負けるという」
山本さんが日本代表を目指すようになったのは、1年生の時からレギュラーで使ってくれた高校の先生の存在が大きかったそうです。
「俺がひいたレールに乗れ、っていう言葉をくれて…」
「その理由っていうのが、鳥取県で男子バレーで日本代表になった選手がいないから、192センチもあって左利きだから、なんとか代表まで上げたいと。それで、アンダーカテゴリーの代表とかにも入れてもらえてたんですね」
「(先生のおかげだということは)全然わかってました。自分の実力では到底ムリでした」「やっぱりそこで目指すべき人間がいるじゃないですか。そいつらになんとか追いつこうと思って」「上手くなりたかったです。いつかはコイツら抜いてやろうと思いましたもん」
高校卒業後は日本体育大学に進学した山本さん。しかし、大学2年生の時に一度バレーボールをやめたとか。
「大学って上下あるじゃないですか、当時は。自分の心の弱さでそれに耐えれなくて。ま、逃げたっていう感じですよね」
「で、大学には戻るつもりもなかったんで、高校の先生に、社会人でバレーボールをやりたいです、っていう話をしたんですよ。そしたら高校の先生は全部の企業に声をかけてくれたんですけど、どこの企業にも今すぐは取れないって言われたんですよ。大学との縁が切れてしまうから大学だけは出て欲しいっていう話で」
バレーボールをやめた山本さんは、半年ほどトラックの運転手として働いていたそうです。
「ハンドルを握りながら、トラックをやってる自分の5年後、10年後っていう未来図をイメージしたんですよ。そしたら大して変わんないんですよね。じゃあ、もしバレーやってたらどうだったんだろう?ってふと思ったんですよ。代表にも入れるかもしれないし、社会人でバレーやってる可能性も高いなっていう、いいことばっかり出てきたんですよ」
「で、当時、漠然とオリンピックに出たいっていう夢も持ってたんで、それも叶えることができるんじゃないかな?って」
そこで、勇気を振り絞り、頭を丸めて大学に頭を下げたという山本さん。ただ、最初のうちは門前払いで、チームメイトは口をきいてくれなかったとか。
「ま、それは自分が巻いた種なんでしょうがないっていうのもあったし、わかってたことなので。でもそこで、人生これ以上下はないなと思ったんですよ。今がどん底で後は上がるしかないな、というふうに吹っ切れたんで良かったかなと思いますよね」
「ボールも触らせてくれなくて、みんな帰った後に自分でできる練習を…2ヶ月ぐらいですかね。その時にちょうど同級生が痺れを切らして、パスの相手をするよ、って言ってくれて。そこで助けられたっていう部分はありますね」
「同級生は徐々に口をきいてくれるようになったんですよ。先輩にわかんないところで」
「そこで戻ってなかったら今がないですからね。今頃たぶん(トラックに乗って)道走ってますよ、ラジオを聞きながら」
大学を卒業した山本さんはパナソニックに入団。全日本の一員として出場した2003年のワールドカップでは、得点王、そしてMVPにも輝きました。
「でも、結果が9位だったんですよ。で、当時は最多得点王がMVPっていう規定があったので貰えましたけど、第9位の僕がとっちゃったので、それから規定が変わりました」
「チームのみんなが僕にトスを託してくれて打てたので、ホントにみんながとらせてくれた賞だったのかなと思いますけどね」
そして、2004年には日本初のプロバレーボール選手になった山本さん。オリンピックも期待されていましたが、日本の男子チームは2004年のアテネオリンピックに出場できませんでした。
「2003年のワールドカップでMVPとってるので、男子バレーは12年ぶりにオリンピック行けるだろうって、凄く注目されてた中で負けてしまったので、すごく自分自身も責任を感じて…。また、バッシングも凄く多くて、もう日の丸を背負っちゃいけないなと思って。やめようかな…っていうところまで行ったんですよ」
「で、バレーもやめようかなと思ったんですけど、プロ契約をしてすぐだったので、これでやめてしまうと、今後プロになりたいっていう選手が出てきた時にプロ制度は完全に作れなくなるなと思ったので、そこだけはなんとか残した中で代表はやめようと思ってましたね」
そんな山本さんに再びオリンピックにチャレンジする覚悟をくれたのは、高校時代の恩師だったそうです。
「ちょうどウチのホームゲームを見に来て、あいつの試合を観に来るのはこれが最後だからって言って鳥取に帰ったんですよ。なんでそんなこと言うんだろう?僕はもう代表に行かないって言ったから怒ってんのかな?って思ったんですけど、翌日から入院したんですね。実は末期の癌で…」
「で、行ける時には何回かお見舞いに行ったんですけど、3回ぐらい行った2週間後ぐらいに目を閉じてしまったんですけどね。その時に奥さんから聞いた話だと、あいつはまだチャレンジできる年齢だからチャレンジして欲しい、っていうのと、オリンピックに行ってる姿を応援したかったと。そういうことを言って目を閉じたんだよって言われたんですよ」
「家族への感謝の言葉とか自分の子供に期待する言葉で目を閉じるんだったらわかるんですけど、いち教え子にそこまでの覚悟を持って、俺がひいたレールに乗れって言ったんだな…っていうのを凄く感じて。やっぱり自分は戻らなきゃいけないと」「先生のためにも必ずオリンピックに出る、という覚悟に変わった瞬間でもありました」
来週も引き続き、山本隆弘さんをお迎えします!
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