バスケ少年だった林部智史さんが歌手を目指したきっかけ(2017/02/04 放送)
今週は、歌手の林部智史さんをお迎えしました。
“f/1のゆらぎ”と呼ばれるアルファ波の入った歌声が話題の林部さん。1988年5月7日、山形県新庄市生まれの現在28才で、昨年2月にシングル「あいたい」でデビューし、発売4ヶ月で有線全国ランキングで1位になるなどのロングセラーになっています。
幼稚園の時から歌が好きでずっと歌っていたという林部さん。いろんなスポーツに手を出すスポーツ少年でもあり、小学校の時からずっとバスケット・ボールをやっていたそう。バスケ選手を目指して、高校は山形県で一番バスケが強い山形南高校を受験しますが、進学校でもあったために一度は不合格。1年浪人して志望校に入学します。
「初チャレンジですね。(中学浪人は)僕の中で最初の大きい挫折と言ったらそうですかね」と林部さん。バスケでは最初の5人には入れず、“シックスマン”と呼ばれる6人目の存在だったとか。それでもインターハイやウインターカップに出場するなど山形県で一番強いチームのレギュラーとして活躍します。
高校卒業後は大学には行かず、お母様が看護系に勤めていることもあって看護学校へ。
「もうやりきっちゃったんですよね。高校3年生で引退して凄くホッとしました。辛すぎて。キツかったです、結局。浪人までして入って燃え尽きちゃいましたね」
「周りはもう大学受験に切り替えてやってるんですけど、大学で夢を持ったらいいじゃないか、とかいろいろ言われたんですけど、そういう考えができなくて。もうプロバスケット選手というのを自分の中で終わりにしたので、ホントに何をしたらいいのかわかんなくて。進学校なのに全然勉強しなかったです。挫折挫折とか言ってるんですけど、自分がだらしないだけなんですよ」
そして、林部さんは看護学校でも挫折を経験します。
「まぁ入ってこないんですよね。看護の勉強が。基本的に勉強が好きじゃなくって。実習っていって、病院に直接行ってやらしてもらって初めて知識がないことを知って勉強しようと思うっていう。2年生になった時に病院で患者さんを受け持つんですけど、亡くなってしまって、それで、なんだろうこの仕事…っていうふうにちょっとなってしまって。それから学校行けなくなりましたね」
「それを見て他の看護師さんたちは泣いてなかったんですよね。僕は凄い泣いてしまったんですけど。でも、悲しいから泣く、っていうところに看護師さんたちはいなくて。その上を行って、いろんな経験をして泣かない、っていうふうになったので。でも、その時の僕はもう違和感でしかなくて…」
「今思うと、逆に最期を看取らせていただいたっていう幸福感とかも看護師の方ってあると思うんですけど、その時は全然わからなかったので、最初のいっこでパーンッとやられてしまいましたね」
「両親からは凄く怒られました。で、僕はそれでバーンッとなっちゃって、もう家には帰らない!ってなっちゃったんですね(笑)」「で、姉が沖縄にいまして。僕のことを聞いて、沖縄に来いと。うちでちょっと居候しろと言ってくれて。で、心の改善プログラムを姉なりに作ってくれました」
お姉さんから住み込みのバイトを勧められた林部さんは、それからの2年間を全国各地の住込みバイトで暮らしていたそうです。
「リゾートバイトって言うんですけど、全国各地にあるんですよね。日本一周しようと思っていたので、沖縄行ったから一番上行ってみようみたいな(笑)」
そして、林部さんが歌手を目指すことになるきっかけも、リゾートバイトにあったとか。
「結局いろんな土地で僕は歌を歌ってたんですよね。必ず住み込みバイトでギターを持ってくる人がいたんですよ。で、夜は毎日飲み会みたいになって、ギターを弾いて僕が歌って…みたいな形がどこの場所に行っても出来上がるんですよね。で、これはやっぱり歌好きなんだなと再確認しました」
最終的に行き着いたのは、北海道の礼文島。そこで一番ギターが上手い人に出会ったという林部さんは、その人から「その声でなんで歌手にならないの?おかしい」と言われたそう。
「僕もちょうどその時、2年間その生活をしてたんですけど、限界じゃないけど、ちょっと先が見えないので、これじゃダメなんだろうなってちょっと思ってたんですよね。その時にちょうど重なって、その言葉が凄く心にしみて、歌手になってみようかなと。次の日にパソコンで調べました。歌手になるためには?って(笑)」
来週も引き続き、林部智史さんをお迎えします。お楽しみに!
“f/1のゆらぎ”と呼ばれるアルファ波の入った歌声が話題の林部さん。1988年5月7日、山形県新庄市生まれの現在28才で、昨年2月にシングル「あいたい」でデビューし、発売4ヶ月で有線全国ランキングで1位になるなどのロングセラーになっています。
幼稚園の時から歌が好きでずっと歌っていたという林部さん。いろんなスポーツに手を出すスポーツ少年でもあり、小学校の時からずっとバスケット・ボールをやっていたそう。バスケ選手を目指して、高校は山形県で一番バスケが強い山形南高校を受験しますが、進学校でもあったために一度は不合格。1年浪人して志望校に入学します。
「初チャレンジですね。(中学浪人は)僕の中で最初の大きい挫折と言ったらそうですかね」と林部さん。バスケでは最初の5人には入れず、“シックスマン”と呼ばれる6人目の存在だったとか。それでもインターハイやウインターカップに出場するなど山形県で一番強いチームのレギュラーとして活躍します。
高校卒業後は大学には行かず、お母様が看護系に勤めていることもあって看護学校へ。
「もうやりきっちゃったんですよね。高校3年生で引退して凄くホッとしました。辛すぎて。キツかったです、結局。浪人までして入って燃え尽きちゃいましたね」
「周りはもう大学受験に切り替えてやってるんですけど、大学で夢を持ったらいいじゃないか、とかいろいろ言われたんですけど、そういう考えができなくて。もうプロバスケット選手というのを自分の中で終わりにしたので、ホントに何をしたらいいのかわかんなくて。進学校なのに全然勉強しなかったです。挫折挫折とか言ってるんですけど、自分がだらしないだけなんですよ」
そして、林部さんは看護学校でも挫折を経験します。
「まぁ入ってこないんですよね。看護の勉強が。基本的に勉強が好きじゃなくって。実習っていって、病院に直接行ってやらしてもらって初めて知識がないことを知って勉強しようと思うっていう。2年生になった時に病院で患者さんを受け持つんですけど、亡くなってしまって、それで、なんだろうこの仕事…っていうふうにちょっとなってしまって。それから学校行けなくなりましたね」
「それを見て他の看護師さんたちは泣いてなかったんですよね。僕は凄い泣いてしまったんですけど。でも、悲しいから泣く、っていうところに看護師さんたちはいなくて。その上を行って、いろんな経験をして泣かない、っていうふうになったので。でも、その時の僕はもう違和感でしかなくて…」
「今思うと、逆に最期を看取らせていただいたっていう幸福感とかも看護師の方ってあると思うんですけど、その時は全然わからなかったので、最初のいっこでパーンッとやられてしまいましたね」
「両親からは凄く怒られました。で、僕はそれでバーンッとなっちゃって、もう家には帰らない!ってなっちゃったんですね(笑)」「で、姉が沖縄にいまして。僕のことを聞いて、沖縄に来いと。うちでちょっと居候しろと言ってくれて。で、心の改善プログラムを姉なりに作ってくれました」
お姉さんから住み込みのバイトを勧められた林部さんは、それからの2年間を全国各地の住込みバイトで暮らしていたそうです。
「リゾートバイトって言うんですけど、全国各地にあるんですよね。日本一周しようと思っていたので、沖縄行ったから一番上行ってみようみたいな(笑)」
そして、林部さんが歌手を目指すことになるきっかけも、リゾートバイトにあったとか。
「結局いろんな土地で僕は歌を歌ってたんですよね。必ず住み込みバイトでギターを持ってくる人がいたんですよ。で、夜は毎日飲み会みたいになって、ギターを弾いて僕が歌って…みたいな形がどこの場所に行っても出来上がるんですよね。で、これはやっぱり歌好きなんだなと再確認しました」
最終的に行き着いたのは、北海道の礼文島。そこで一番ギターが上手い人に出会ったという林部さんは、その人から「その声でなんで歌手にならないの?おかしい」と言われたそう。
「僕もちょうどその時、2年間その生活をしてたんですけど、限界じゃないけど、ちょっと先が見えないので、これじゃダメなんだろうなってちょっと思ってたんですよね。その時にちょうど重なって、その言葉が凄く心にしみて、歌手になってみようかなと。次の日にパソコンで調べました。歌手になるためには?って(笑)」
来週も引き続き、林部智史さんをお迎えします。お楽しみに!
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