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第5話
「世界が終わった」
視界は暗闇。
夜が舞い戻ってきたように。
母を構成する一つの世界が、死と云う形をもって終焉を向かえる。
あたしは今、目を閉じて終わりを感じる。
でも、まだ終わりじゃない。
終わりが始まったにすぎない。
母の一部であるあたしは生きている。
灰色の世界は、あたしを酷く色濃く際立たせていた。
あたしが生きていることで維持され続ける世界に終わりを。
母の居ない苦痛から、責任から逃れるために世界の終わりを。
せめてもの償いに焼き焦がれる苦しみを。
あたしは神さまに願う。
ガスが充満していく。
それは音もなく気配もなく。
匂いも感じない。
ただ母の残した甘い香りだけが部屋を満たす。
「瑠璃」
母があたしを呼ぶ声が聞こえる。
それは優しく暖かい。
あたしは紅に染まった両手を垂らして力なく母の元に向かう。
真っ白で熱を持たない母の顔。
「ごめんね。ありがと」
あたしは母の頬にキスをする。
「母」の頬に。
あたしは子供になる。
まだ飾ることのなかった、あの頃のように。
おかあさん、あたし、おかあさんがだいすき。
だから、いっしょにしにたかったよ。
あさ、しぬんじゃなかったの?
なんかゆってよ。
まぁ、いいや。
いまからいくね。
まっててね。
あたしは深く深く息を吸い込んだ。
ガスの溜まっていく様子を思い描く。
火を着けた瞬間を思う。
怖れは無い、喜びも無い、極めて無の感情。
そろそろ溜まっただろうか?
あたしは、血の海を渡ってコンロに向かう。
……その前に。
その前に太陽が見たかった。
もう昨日の星空も月もどんな形だったか思い出せない。
だから太陽を見たかった。
あたしは僅かにカーテンを開ける。
柔らかで暖かい朝日が差し込む。
夏のギラギラした光はもうそこにはない。
それでもあたしには眩しすぎる。
あたしには夜の闇がお似合いだ。
この灰色の暗い世界が。
本当は窓を開けて風を受けたいけれど、そんなことしたらガスが逃げちゃう。
それに……登校中の生徒も見たくない。
楽しそうに馬鹿騒ぎをして、不毛すぎる会話を展開する彼らは太陽よりも眩しい。
昨日のテレビの話をして、放課後カラオケに行く予定を立てる。
著しく子供。
窓一枚隔てた、あっちの世界はあたしを受けれようとはしない。
だから、あたしは母の世界でしか生きられない。
低い唸るようなエンジン音――。
遠くをぼんやりと見つめていたあたしの前を、薄緑色のミニバンが通る。
一瞬、男の人の影が見えた。
おとうさん?
うちに用のある人間は、母の同僚の若山さんしか知らない。
ましてや、男なんて来た試しがない。
そうだ、やっぱり父しかいない。
あたしは再びアガサ・クリスティーになる。
父が、このタイミングで来るっちゅーのは、
やはり何か知っとるってことやな。
聞き出してやるのもいいだろー。
いや、けど、追い返したろ。
今のあたしに会話をする元気なんかない。
しかも、巻き込みたくないねん。
母と何があったか知らんけど、あたしは父になんか逢ったことないし、
あたしん中では「赤の他人」もしくは「写真の人」でしかないねん。
今更、親面下げて出てこられても、正直腹立つだけや。
せやから、さっさと追い返そーと思う。
あたしの自我が保てる間に。
自らを維持する為に心のバリアを張る。
とりあえず、この恰好で出る訳にいかへん。
「これは、もう着れんな」と脱ぎながら思う。
さよなら、ださださワンピさん。
おかあさんのお古のワンピース。
おかあさんの血だらけワンピース。
洗濯ぐらいじゃ落ちないから、ゴミ袋に直行する。
お気に入りやったのに。
あたしは不貞腐れて玄関にむかう。
ピンポン、ピンポンとしつこくチャイムが鳴る。
間のないチャイムに焦燥感。
「瑠璃ー」
ドアの向こう側からあたしを呼ぶ声がする。
篭った不明瞭……でも記憶にある声。
なんだろう?
あれ?
あれれ?
「瑠璃ー、居るんだろー?」
そうやってあたしを急かすその声……。
「おーい、森田瑠璃ー」
あーもう!
あたしは急いて玄関に走る。
絶対、うちになんか入れてやんない。
「瑠璃ー」
あーしつこい。
おそらくアガサの推理は外れた。
またしても。
ドアのチェーンを外し、鍵を開ける。
「森田…」
再びあたしの名を口にしようとする担任佐藤を睨みつける。
「なんすか?」
ガンミしたあたしを、佐藤は上から下まで眺める。
「おまえ……」
下着姿のあたし。
驚く佐藤。
「お前、本当に死のうとしたんか?」
佐藤の顔がサッと青ざめるって訳でもないが、表情が険しくなっている。
……ってか、そっちかい!
あり?
でもなして気付いたん?
ガスの臭いか?
でも、さっきガスの臭いなんてせぇへんかったけど?
「まだ出てんのか?それ」
指差す先はあたしの手首。
母の血がべっとりと付いたあたしの手首。
そーいや、そのままやったー。
っつーか、あたし何してんねん。
ガスが抜けてまうやん。
佐藤、お前邪魔や。
「そーです、死ぬんです、リスカです。はい、さいなら」
……リスカじゃないけど。
そう言って思い切りドアを閉める。
「ガッ」佐藤の足が挟まる。
ムッとして見上げた佐藤の顔は痛みに歪んでる。
「邪魔、どいて」
あたしは、これまた血だらけの素足で佐藤のでかい足をどけようと力を入れる。
「おまえ、さぁ」
ドアの隙間から、佐藤が睨みつける。
「おまえさぁ」
顔が赤い、眼が潤んでる、口元はピクピク。
「命くらい大切にしろやー!!」
怒鳴る。
思わず、あたし、足、退ける。
「なんなんだよ、俺が嫌いなら嫌いって言えよ!第一、こんな日に死ななくてもいいだろ!!お前一人で文化祭ぶっ壊す気かよ。これから文化祭は、森田瑠璃さんの命日ですってか?!ふざけんな、俺を首にしたいからそこまですんのか?ってか、俺がお前に何をしたよ?!俺は職員会議で問題になったから、健気に迎えに来てやったんだぞ!」
荒れ狂う河の如く、担任佐藤は能天気な性格から、本音丸出し怒涛憤怒の佐藤に豹変。
「ごめんなさい」
そう言ったのは、あたし。
あたし?
いやいや、何謝っとるん?!
あーもう、訳訳訳わからん。
ってか、職員会議でも「森田」扱いかよ。
「あー腹立つわー」
しまったとでも思ったのか、佐藤は語調を抑える。
あたしは、しょんぼりする。
何で謝ったんだぁ?
なんてこったい、やっちまったよ。
ってことで、隙ありっ!とばかりに、
ドアを思い切り閉める。
……がまたしても佐藤の足。
「おかあさんは?」
佐藤は静かに言った。
「今、居ない」
あたしも静かに言った。
ううんっと咳払いをすると佐藤は言う。
「いつ頃帰って来るんだ?」
帰ってなんか来ない、だからあたしが母の所へ行くんだよ、邪魔すんな。
って思いは胸に閉まって。
「知らない」
「だったら、着替えて来い。早く」
これは、しめた。
ドアを閉めるチャンス、ガスが逃げちゃう。
「解った」
そう言って一歩後ろに下がる。
ガチャ、佐藤は当たり前の様に玄関に侵入。
なんで入ってくんだよ……。
見えないように中指を立てる。
「お前、鍵掛けるだろ」
佐藤はあたしの心を読んだ。
あーもう最悪。
こうなったら、素直に着替えて、とりあえず学校行って逃げるしかない。
まぁ、行く途中でもいいけど。
今は無理だろう。
多分、出てけってゆっても聞かない。
運が悪ければ、また怒鳴られるだろう。
あたしゃ、気が滅入ってるんよ。
そんなに怒鳴られちゃあ、これから死ぬっつーのに疲れきってしまうよ。
「あーはいはい。着替えてきますよ」
「血、止まってんのかぁ?」
「ばっちりきっちり止まってますよ」
ってかリスカじゃねーし。
あたしは、佐藤に背を向けて言った。
母は未だに死んでいた。
あたしは現実に舞い戻る。
不自然でないように、リビングの扉を閉める。
隠蔽する。
此処は母とあたしの聖域。
佐藤なんかが入っていい場所じゃあない。
おかあさん、ちょっとだけ出掛けてくるね。
戸締りもちゃんと、「火の元」もちゃんと気を付けてくから。
あたしは、キッチンに行き蛇口を捻って、水を出す。
蛇口に残っていた温めの水が出て、それからすぐに冷たい水が出てきた。
奪われていく手の体温と共に、赤い血が薄まって流れていく。
それは渦を巻いて、排水溝に吸い込まれていく。
なんだか空しさが込み上げる。
手を拭く為のタオルを水に濡らして、足を拭う。
たちまち赤に染まって、濯いでは拭き濯いでは拭きと繰り返す。
足の血は暫く拭くと落ちて、それにも空しさを感じる。
あたしは、母の部屋に行き、あの「オンブルローズ」を持ち出す。
淡い白のボトルは、香りにそぐわずシンプルだ。
部屋に戻って着替える。
ターコイズブルーのTシャツに、ショートデニム。
全体的に露出度が高いけど、別に構わない。
だって、見る人なんて居ないもの。
そして、「オンブルローズ」。
綺麗になった手首と首筋に。
フローラルの爽やかな香りがする。
それは、母と違う香り。
でも時間がたてば、あの妖艶な香りへと変化するだろう。
あの、甘くむせ返ってしまうような死の香りに。
勘違い中の佐藤を刺激しない為、リストバンドを着けていく。
そして、あたしが玄関に行くと、不機嫌な顔で佐藤が待っていた。
ドアに寄りかかって、ムスッとしてる。
「おせぇ」
「悪いっちー」
あたしは、平然を装う。
というか「飾る」。
でも今日で飾るのも終わりだ。
あたしは、ビーサンを履く。
「そんなんじゃ、いかれねーぞ」
「なんで?」
「馬鹿。がっこ、裸足でいんのか」
「上履き置きっぱ」
「そーゆーことじゃなくて、上履き裸足で履くのかって」
「あ、なる」
あたしは、再び部屋に戻ってをニーソックスを履く。
「これなら良い?」
「ましになった」
あたしは、モノクロのハイカットを履いて、家を出る。
いってきます。
すぐ戻るね。
待ってて。いいでしょ?
あたしは、いつでもあんたのこと待ってたんだから。
帰ってくるよ。
もいちど言うね。
あんたは、母。
あんたは、友達。
第一ここは、あたしの家。
忘れちゃいないよ。
ただね、きっちり片をつける為にはこーするしかないの。
せんせ、唯一心配してくれた人だからさ、一応。
あたしは、灰色の世界に愛を送る。
あたしが、今、存在していることの証明として。
佐藤の車は、タバコ臭い。
すぐ降りられるように助手席にでも座ろうかと思ったのに、
菓子の袋が沢山乗せられていて、座れない。
「これ、どーすんの?」
「早く、後ろ乗れ」
命令口調である。
ったく、なんやの?
「へーへー」
あたしは、後部座席に移動する。
薄緑のミニバン、相変わらず佐藤らしい。
お互いシートに座ったところで「へんな色」と言うと、
「うるせー」と佐藤は応えた。
エンジンがかかる。
と、「花葬」がかかる。
ラルクアンシエルの「花葬」。
佐藤にしては、意外な趣味してるけど……。
「似合わねぇな!!」
後ろから、頭を叩いてやる。
「うっせえ!黙ってろ!」
しばらく黙って聞いていたら、悲しくなってきた。
あぁー、おかあさん。
あなたは、今一人なんだね。
「……変えて、この歌変えて」
あたしが、そう言うと意外と素直に曲を変える。
斉藤和義の「天使の遺言」。
まったく関連性が解らない。
「なんで、いきなり、アーティストもジャンルも変わるわけ?」
「さっきから、うるさいなー。これ俺のお気に入り集なの」
お気に入り集とか可愛いなと一瞬思って、前を見る。
あっという間に学校到着。
気分憂鬱、である。
車から降りると、学校があった。
何これ?と言いたくなるような騒がしさと熱気。
こんなに、活気付いてたっけ?
「ここ職員駐車場だから、お前は昇降口回れよ」
昇降口とか懐かしい。
ある意味、死語に近いものを感じる。
「みんな教室で待ってる」
見上げた窓に、生徒の姿。
楽しそうに会話をして、文化祭オーラを放っている。
担任は「あたしを学校に連れてくる」という任務を完了して、
さっさと学校に消えていく。
大量のお菓子の袋を抱えて。
あたしの任務は、遂行されていない。
というか、任務地にすら居ない。
空は、限りなく快晴の青空。
歓声やら雄叫びやらの騒がしい声。
太陽を反射する窓。
そして、あたし。
砂利の駐車場では、またあたしだけがくっきり浮いている。
どうやら、世界の終わりにはもう少し掛かるらしい。
アガサ・クリスティーであり、悲劇のヒロインであるあたしは、
主役なんてやるもんじゃないと後悔した。
演じるって大変だ。
演じること。
飾ること。
それは、生きること?
演じることに疑問を抱いたとき、あたしの糸が切れる。
「偽り」の糸が。
なんで、佐藤に対してあんな態度をとる必要があったのか解んないけど。
凄く、凄く、元気な振りしてた。
本当は、冷たくて、泣きたくて、叫びたくて……死にたかったのに。
あたしは、精一杯の力を使って「森口瑠璃」を演じてた。
なんでだろ。
もしも、これから警察に電話して、葬儀して、普通に学校に行ったなら、
あたしは普通に生活できるだろうか?
何事もなく。
永遠に偽り続ければ「生きていられる」だろうか?
永遠にアガサや悲劇のヒロインみたく演じていれば、生きていられるだろうか?
答えは「NO」
あたしは、あたしであって、自分自身を偽れない。
現にこうやって、さっきの偽りに気付いてる。
先生も学校も社会も偽ることは容易だろう。
でもね、この灰色の世界と紅いあたしだけは「偽れない」
いくら騙したって、騙してるあたしだけは見てる。
とてつもなく冷ややかな視線で。
そして、正直なあたしの答え。
死ぬこと。
あたしは、揺らがない。
母は優柔不断と言っていたけど、これは決定事項。
世界とあたしの最終判断。
そう。
あたしは、死ぬんだ。
リビングに横たわった母の隣で。
あたしは……死ぬんだ。
あしたのあたしは、もう居ない。
その言葉は、歓声やら雄叫びよりも強くあたしの心に響いた―。
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