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第4話
なんで?
なんで?
なんで?
……どうして?
あたしの頭は錯乱していた。
目の前の赤い水溜りの中心に母が横たわっていた。
胸に包丁を突き刺して。
母が死んでいた。
「お母さん、お母さん、お母さん」
掠れて声が出ない。
素足が水溜りに触れる。
温度を失ったそれは無情にも冷たい。
ぴたぴたと水を打つ音が、頭にこだまする。
あたしはかかんで、固まって虚ろな眼の母に触れる。
母は死んでいた。
「お母さん!」
そう呼びかけ揺り動かすものの返事がない。
天井を見つめて包丁を握り締めている。
……呼びかける手に力が入らない。
片手を血の床に着く。
血はフローリングの溝を通って、部屋を侵食している。
母の白く塗られたような頬に手をあてると、まだ温かいようで。
「瑠璃」
そう言い出しそうだった。
しかし、もう生きていると思えないのは、白すぎる身体と刺さった包丁がそうさせる。
生きている証拠が少なすぎる。
いつも付けていた「オンブルローズ」の香りだけが母の生きた証。
挑戦的な母の甘い香り。
あたしの知る「母の香り」
いや、今となってはこれは死の香りに等しいのかもしれない。
「おかあさん」
あたしは呼び続ける。
ぼんやりとした頭で。
なんで死んだの?
あたし独り置いて。
なんで死んだの?
なんで……
「殺してくれなかったの?」
心は憤怒と嫌悪と悲しみとで埋めつくされる。
憎しみの感情が部屋全体を包み、あたしは「肉」になった母の首を絞める。
同時に虚無感。
母の世界から、母自身が居なくなって取り残された孤独感。
あたしは、今荒れ狂う感情を物になった母にぶつける。
「おかあさん」
呼ぶ度に解らなくなる。
自分は何者なのか?
死が目の前に存在する今、あたしの生は浮き彫りにされる。
「嫌。嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、いやぁーっ!!」
叫ぶ。
母の手のひらをこじ開けて、包丁を手に取る。
自分の喉元にその切っ先を向ける。
包丁の背が濁った光を放つ。
手が震える。
「死ぬの!あたしは……死ぬの!!」
限りなく堅い決意。
息が切れる。
あたしは、孤独に耐えられない。
だから死ぬ。
おかあさん、あたしも行くよ。
……死のう。
唯一残った命は、もはや苦痛でしかない。
死のう、それで全てが終わるなら。
手の震えは次第に収まる。
呼吸も回復する。
過呼吸になりかけたようで、視界が暗い。
その視界に、母が映る。
苦しんで死んだ形跡の無い、笑みを浮かべたようにも見える母の死に顔。
安らかで美しいと思ってしまう。
きっと、あたしはこんな風に死ねないだろう。
しかし何故どうして、こんなにも美しいのだろう?
まるで……「ユディト」のようだ。
グスタフ・クリムトの「ユディト」の絵。
残酷さの中に薫る官能的で美しい恍惚とした表情の絵。
妖艶さと死が混在する表情をした母。
いや、母ではなく「女性」なのだと感じた。
今も香る「オンブルローズ」が母を中心に渦巻いている。
なんで母は死んだのだろう?
今更そんなことを思う。
本当にあたしの所為だったのかな?
今、母の死体に向かい、あたしを置いて先に逝ったこの現状を思う。
あたしは、死を目の前にして何故か「冷静」になっていた。
あたしは、死を極めて第三者的に捉えている。
無慈悲だったのかもしれない。
他人事だったのかもしれない。
非現実的すぎたからかもしれない。
あたしは、母の死に対して無関心だったのかもしれない。
ううん。
なんで死んじゃったんだろう。
死ぬなよ。
なんて思ってた。
「寂しいよ……」
死体を見ても泣けなかったあたしは、一緒に居ない母を想って泣いていた。
おかあさん、あたしは貴女が大好きです。
貴女が死んだとゆう事実より、貴女が居ないとゆう事実が痛いです。
おかあさん。
あたしの歌が聞きたくないのですか?
あたしと買い物したくないのですか?
あたしが嫌いなのですか?
あたしを愛してはくれなかったのですか?
ここで、あたしは罪悪感に囚われる。
母を「この世」に繋ぎとめられなかった後悔の感情。
とめどなく流れる涙は、血の海に落ちる。
ごめんね、おかあさん。
母が死んだキッカケは、あたしじゃなかったかもしれない。
けど原因はあたしだ。
あたしが母を殺したんだ。
ごめんね、おかあさん。
ただ、それだけ伝えたくて。
真っ赤なあたしに希望の光は差さない。
伝えたい言葉も届かない。
言いたいことは、何時も伝わらないんだ。
あたしは、なんでなのか知ってる。
「偽るから」
ごまかしてしまうから、飾ってしまうから伝わらない。
いつからあたしは自分を飾るようになってしまったのだろう。
化粧をするようになって、関西弁を使って。
その結果、いつも大事な物を失うんだ。
しかも、たちの悪いことに、あたしは学習能力ないから。
だから、また繰り返す。
そして、たったひとりの母を失った。
飾るようになってしまったから。
飾ることは、本来の自分を遠ざけて拒絶することだ。
遠いと声も届かない。
小さく呟いた「一緒に居て」も「大好き」の気持ちも、遠ければ伝わらない。
あたしは臆病と困惑が邪魔をして、素直な想いを飾ってしまったんだ。
母には「生きて」欲しかった。
一緒に居て欲しかった。
ただ、それだけだった。
おかあさん、あなたが大好きだから。
ボロボロと落ちる涙を止めることができないまま、よろよろと立ち上がる。
残念だけど、生きてなんかいられない。
そんなに強くない。
母よ、後を追います。
あたしは、ガスの元栓を開ける。
着火スイッチを押す。
青い火がくるりと灯る。
弱火にして息を吹きかけると、簡単に消えた。
あたしの命も簡単に消えてしまうだろう。
でも、でもね。
あたしの母への想いは消えないよ?
いつも座らない3つ目の椅子に座って、バラバラになった写真を見つめる。
パズルのように繋げるけど、残念なことに修復できなくて。
それは、母と父、母とあたしのようで。
あーぁ。
あたしは溜め息をつく。
段々とガスが充満してきて、そのうち気を失うだろう。
だから朦朧としてきたとこで火をつける。
ばぁーん!!
きっとあたしは直ぐに死なないだろう。
直ぐに死んじゃいけない。
焼かれて焼かれて苦しんで悶え死ぬのが相応しいんだ。
暫くぼぉっとしていると、椅子の上の封筒が視界に入る。
淡いピンクの封筒。
直感で母が遺した物だと気付く。
糊付けもされていない封筒の中に2枚の紙。
僅かに母の曲がった字が見える。
あはは。
あたし期待してる。
あたしを許す言葉が書かれてるんじゃないかと。
弁解やあたしへの愛が書かれてるんじゃないかと。
残り少ない時間の中、静かに開く。
瑠璃へ
こんにちは。いかがお過ごしでしょうか?
いつもは言葉に出来ないことを書きます。
どのような場面で渡してるのか解りませんが、事情を説明して、
これを渡していることと思います。
まぁ、袋閉じみたいなものだと思ってね。
これから、死ぬわけですけど、
正直言ってごめんなさい。
あたしは、臆病なんです。
今まで、あんたを養っていく為、仕事場では突っ張ってきたあたしだけど、
実は弱いんです。
だから、死んでもらいます。
でも、いいよね。
説明通りあんたには関係ないかもしれないけど……関係してるか。
とりあえず、あたしにはもう瑠璃しかいないから。
瑠璃にもあたししかいないし、ほっとけない。
だって、あたしは「お母さん」
あんたは「子供」
一緒に死にましょう。
それでも、あたしは罪悪感でいっぱいです。
生きることへの冒涜です。
ごめんなさい。
最近は軽々しく死んじゃう人が居るね、と話してたあたしが、
こんなことになってしまって、しかも瑠璃を巻き込んで。
本当にごめんなさい。
意地っ張りのあたしは、ごめんなさいが言えないので、お手紙にしました。
お父さんの時も、こうすれば良かったかも。
それが、まず一つ目―。
それとありがとう。
あたし、16年間いつも瑠璃が居たんで頑張れました。
生きていられました。
あんたを見てると……お父さんを思い出します。
でも、もう嫌。
だから、今までありがと。
あと一緒に死んでくれてありがと。
あたしは今どんな顔をしてますか?
笑ってるかな、泣いてるかな。
教えて欲しいです。
最後に恥ずかしいけど、ごめんね、ありがとう。
母より
……なんやの?
わからんよ。
あたし生きてますが何か?
わかんない。
事情説明してからにしてよ。
何も解らへん。
この手紙は一体何の為に在るの?
何も意味ないし。
ってか、書いたくせに渡す前に死んでるし。
死ぬなよ。
しかも……なんなん?
所々波打って、涙の痕を語ってる。
なして、泣いてん?
ほんでもって、泣くなら水性ペンで書くなや。
あたしの手汗と血と涙とでさらに汚れた手紙を見て思った。
そして母の顔を見つめる。
おかあさん、あんたの顔、綺麗やで。
死と生と血と。
母とあたしと手紙と。
包丁とガスと破れた写真と。
あたしの全てが詰まってる。
人生を構築するものが今ここに。
あたしは静かに目を閉じる―。
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