満月の扉辻村アズサ

第5話 神様のご褒美

洗顔を終え、再び戻ってきた少女と共に佐竹の茶をご馳走になった俺は、保健室へと駆けつけた担任の勧めもあって、早退することとなった。教室へ荷物を取りに帰った俺の姿を見たクラスメート達は、怪訝そうに顔を見合わせてはいたものの、特に近づいてくる気配を見せなかった。 それは瑞穂も同様だった。互いに視線が合うも、それ以上踏み込むことはない。
当然の反応だと思った。
俺は痛む全身を懸命に引きずりながら、沈鬱と好奇の入り混じる空気が蔓延する教室を後にした。

足早に昇降口、校門、通学路を抜けていく。
コンクリートを踏みしめる度に、体のあちこちが軋む。それでも俺は痛みに対して素知らぬふりを決め込んで、背後からついてくる小さな気配に苛立ち、困惑していた。
「……おい」
「な、なに?」
ピタリ。俺が立ち止まると、彼女も慌てて立ち止まった。
俺は黒い地面を睨みつけながら、ひたすらに口を動かす。半ば自棄じみていたと思う。
「お前、そのバッグとか服とかどうしたんだよ?」
「え?これ?」
戸惑いの色をした声が返ってきた。
それから、小さな足音がゆっくりと接近してくる。
「えっと……持ってきたの」
「どこから」
「どこからって言われても……」
「他に何か持ってきたのかよ?」
少女は俺の目の前まで来ると、震える子犬のような目でジッと見上げてきた。
よく見れば、うっすらと化粧をしている。マユが好んでいたファッションに相応しい、でも14歳の彼女にしては少し背伸びしたような印象の強いもの。鮮やかな唇が目を引く。黒とタータンチェックを基調とした、強烈なプリントが目立つ派手なパンク系の服装。
何もかもが、生前の妹と同じだった。
少女は遠慮がちに頷く。
「う、うん……。一応、お金とか、1週間分の着替えとか、生活に必要なものの最低限は持ってきたつもり……だよ?」
「金?死んだのに、金?」
使えるのかよ、それ。
俺の唖然とした問いに、悪戯っぽく笑い返す。
「ほら、よく言うじゃん。地獄の沙汰も金次第って」
「いや、それ意味が違うと思うぞ。……というか、お前は地獄に墜ちたっというのかよ」
「いいのいいの、そういう細かいことは考えなくても」
クルクルと、短い丈のプリーツスカートの裾を揺らして、気まぐれなワルツを踊るように少女は先を行く。
俺はそんな彼女にリードされるように、再び前進し始める。
頭の中ではずっと、佐竹の言葉が響いていた。
──でも、やっぱり嬉しいと思う。生きていた頃に伝えきれなかったことが山ほどあるから、今度はちゃんとそれを伝えようって思っちゃうわね。

どうしたら良いのだろう。どうすれば俺は納得出来るのだろう。
そう、誰に質問したとしても、きっと似たような答えが返ってくるに違いないのだ。
もし俺が目の前の現実を受け入れることが出来るなら──要するにそれだけのことなのだ。俺1人が鵜呑みにしてしまえば、それだけでアッサリと解決する問題なのかもしれない。

自分の内側で勃発した予想外の葛藤に呆然としながら、俺は鞄からケータイを取り出した。アドレス帳を開き、発信するために操作する。その動きに合わせて、繊細なデザインのストラップが太陽の光を反射しながられていた。怪我もあるし、なによりこの事態について心の整理がつくまで、暫くバイトを休もうと思った。

アパートの鍵を開く。そこでハタと気づいた。
「……そういえばお前、玄関の鍵、どうやって閉めたんだ?」
「え?大家さんにお願いしたんだよ。こういうアパートとかって、管理人が近くに住んでいたりするんでしょ?合い鍵持ってるって、聞いたことあるから近所の人に聞き込みをして、探しだして、戸締まりをお願いしたんだよ」
「……………」
ちょっと待て。
ということは、だ。間違いなくその時、この少女は周囲の人間に身分を明かさなければならないはずだ。赤の他人の申し出に耳を傾けるほど、今の世の中は甘くない。
ということは、
「お前、大家さん達になんて言ったんだ?」
「え?お兄ちゃんの生き別れた義理の妹で、昨日からお世話になってますって言ったら、割とアッサリ……」
「マジかよ」
ちょっとは疑えよ、大家。
俺はガックリとうなだれながら、倒れ込む形で自室の居間に雪崩た。
(シャワー浴びたい)
怪我人にも関わらず、俺はそんなことを考えていた。実際、かなり不快なのだ。
(でも今、傷に熱湯なんかかけたら、間違いなく悪化するよな……)
せめても、と俺は奥の部屋へ赴き、ピシャリと襖を閉め、手早く着替えを済ませた。再び居間へと戻る。
するとそこでは、せっせと弁当箱を広げている少女の姿があった。
「お兄ちゃん、お腹空いたでしょ?朝ご飯を詰めただけなんだけどね、まだ食べれるから大丈夫だよ」
「べ、別に俺は腹なんか減ってな」
予想を裏切らず、絶妙なタイミングで俺の胃袋が盛大に鳴った。それを耳にして、少女はコロコロと笑う。
「お兄ちゃんってば、相変わらず素直じゃないね。けど育ちざかりのお兄ちゃんのことだから、どうせそろそろ限界でしょ?」
そう言われ、はい、と満面の笑みで箸を差し出されてしまえば、立つ瀬もないような状況だった。我ながら滑稽なほどの仏頂面で乱暴に箸を受け取り、恐る恐る弁当の中身を口に運ぶ。
瞬間、なんともいえない旨味が口いっぱいに広がった。
(旨い……)
いや、普段口にすれば、別になんてことない家庭の味かもしれない。けど今は格別だ。そんじょそこらの豪勢なご馳走よりも格段に旨い。そう思えた。
それは今、俺が空腹だからだろうか、それとも──。
「おいしかったみたいだね。よかった」
気づけば、みっともない程がっついてる俺を眺めて、彼女はニコニコと微笑んでいた。
「もっと食べたかったら言ってね。あたし、リクエスト頑張って聞くよ?」
その笑顔に、マユの笑顔が重なって見えてしまう。
俺はそれを誤魔化すかのように、テレビをつけた。昼のワイドショーが始まっている。ちょうど、事故のニュースが流れていた。
知らずと、顔をしかめている自分がいる。
事故のニュースは、嫌いだ。あの時を思い出すし、なにより、言い知れない憎しみが湧いてくるから。
すぐにチャンネルを変える。なんてこともない、平和なホームドラマだった。
「あ、あたしこのドラマ好きなんだ。……見てもいい?」
「……勝手にしろ」
俺は黙々と箸を動かした。

それからも、俺と彼女のコミュニケーションの形に変化はなかった。
少女が何気ない会話を切り出し、俺がそれを軽くあしらう。延々とそれの繰り返し。先なんて見えない、終わりも見つからない。食事が終わって、雑誌を読みながらゴロゴロして、時折うとうとする俺を目の当たりにしても、それでも彼女はめげずにやめなかった。
そうして、この日の時間はあっという間に過ぎ去っていった。
気づけば、時刻は夕方の6時。トントンと食材を刻む独特の音が聞こえてくる。居間に取り付けられた狭い台所に、小さな後ろ姿が見える。俺が少しうとうととしている間に、あいつは勝手に夕飯の支度まで始めていたらしい。俺が起きたことに気づくと、彼女は作業を止め、こちらを振り返った。
「お兄ちゃん、起きた?」
「……まあな」
「今ご飯作ってるんだけど、食べるよね?」
「……」
「ところでさ、昼間、誰に電話かけてたの?」
「バイト先。暫く欠勤させて貰いたいってお願いした」
「……そっか。ごめんね、あたしのせいで迷惑かけちゃって」
「別に」
さっさと起き上がろうとしたが、当然のように、激痛が走った。
「〜〜……!!」
情けないことに、無言で呻きながら、うずくまる。
それな俺に、彼女は穏やかな声で話を切り出した。
「……お兄ちゃん」
「…………」
お兄ちゃんと呼ばれて、はいと答えるのに躊躇してしまった。それでも彼女は、構わず言葉を続けた。
「お兄ちゃんは、こう思えないかな?」
少女は笑みを浮かべながら、ゆっくりと窓を開けた。カラカラと軽やかな音と共に、新鮮な空気が吹き込んでくる。
「これは神様のご褒美だって」
「神様の、ご褒美?」
「そう。こうして、死んだはずのあたしがお兄ちゃんの世界に戻ってきたこと、神様のご褒美なんだよ。あたしはそう思ってる」
「そんなこと……」
簡単に、はいそうですか、なんて言えるわけないだろう?そう言い返そうとしたが、止めた。
(そうか……)
俺は気づいた。この少女は、そんなこと分かっているんだと。分かりきった上で、そう持ちかけてきているのだ。信憑性なんて全くなくて、信じるに値するような事態でもない。 それなのに、こいつはしつこいぐらいついて回る。コミュニケーションをとろうと懸命になって。俺の為に。
──兄である、俺なんかの為に。
「……あのさ」
胸の奥の柔らかな部分が、冷たいナイフで切りつけられるような感覚に、俺は拳を握りしめた。自分ではどうしようも出来ない、感情の荒々しい起伏が喉を塞ごうとする。
(認めてしまったら、終わり)
だって俺が認めてしまったら、半年前のあの悪夢はどうなってしまうのだろう。父さんや母さん、そしてマユの死はどうなってしまうのだ。俺の半年は意味を失ってしまうんじゃないか?目の前の現実を否定する自分がそう叫んでいる。
だけど──、
ここで俺が、この少女の存在してしまったら、この子はどうしたら良いんだ。兄貴である俺が妹を認めなければ、誰がこいつを認めるというのだろう。父さんも母さんもいなくて、この世界にはもう、彼女の帰ってこれる場所は、俺の傍しかないというのに。
悔しくなった。
こいつをマユだと認めてしまう自分、そして同時に兄貴として妹を認めてあげられなかった自分に。
「……マユ」
「え?」
彼女は驚いた顔で、俺を見つめ返した。
「分かった。いや、まだ、心から理解なんてしてないけど──俺、お前を信じても、良いか?……そして話そう。お互いに、会えなかった間のこと」
吐き出した空気が、酷く熱い。
そういえば、もうすぐ秋から冬になるんだっけ。
家族を失って、初めて季節を……流れる時は、俺は実感した。
夜空を見上げる。
秋の夜空。星座を散りばめた絨毯の上で、少し太った三日月が輝いていた。

【第4話に戻る】 【第6話に続く】

第5話満月の扉

蒼き賞
Copyright (c) TOKYO FM Broadcasting Co., Ltd. All rights reserved.