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第4話
嫌な空気が2種類生まれた。
1つは、男子生徒らのミーハーな雰囲気。石島浩輔の妹──しかもどちらかといえばカワイイ部類に属する──という存在に、何故だか異様な興奮を覚えているらしかった。だがこちらは正直、どうでもいい。気には触るけど、まだ現実的にはあまりダメージがない反応だから。
問題は──、
「浩輔、あれ、どういうこと?」
俺の席に向かって歩み寄ってきた瑞穂が、困惑気味に俺と少女を見比べる。
「確かアンタの妹って、半年前に死んだはずじゃ……」
──事情を知る者が生み出す、戸惑いの空気だった。
瑞穂は何かの縁なのか、中学の時から一貫して同じクラスの人間だった。なにより、学校外での付き合いも他の友人達と比べると、深い。むしろ家族ぐるみでの付き合いだってあったほどだ。
俺が家族を失ったのは、ちょうど学年が上がる少し前のこと。
学校の人間の中で葬式に来たのも、彼女ただ1人で……。とは言え、このクラスでうちの事情を知るのは瑞穂だけで……。
でも、だからこそ、胸がざわついた。嫌な緊張感が全身に染みわたり、掌や額に汗が滲む。
夢は、幻は、当事者1人がその目に捕らえるからこそただしい。それが成立の条件だと、俺は信じていた。
だけど、最後の方程式が今、ガラガラと崩れ落ちようとしていた。
「あ、浩輔!?」
瑞穂の呼び止めるような声を振り切って、俺は教室を飛び出した。
そうだ、きっとこれも夢なんだ。全部夢。死んだ妹に生き返って欲しいと、たしかに俺は頭のどこかでずっと夢想していた。そういう潜在意識があったから、こんな夢を見てしまったんだ。もういい。もう見たくない。
どうせ夢なら、最初から見たくなんてなかった。
「お兄ちゃん!」
マユによく似た声が、俺の背中を追いかけてくる。
「待ってよ、お兄ちゃん!」
やめろよ、そうやって俺を混乱させないでくれ!
耳を塞ぐ。息が苦しかった。俺は走ることをやめなかった。ここで止まってしまったら、いつまでも夢の中から抜け出すことが出来ないと思ったから。
「お願い、待って!」
悲鳴じみた制止の声だった。
「なんであたしから逃げるの!?あたしは──」
耳は塞いでいた。聞こえるのは、自分の乱れた呼吸音だけのはずだった。
それなのに、彼女の最後の言葉は、やけにハッキリと耳に届いた。
「──お兄ちゃんに会う為に、帰ってきたのに!!」
膝が崩れ派手に転んだ。廊下の端に無造作に据えられていた消火器に爪先がぶつかり、真っ赤な鉄の筒が倒れてガランガランと空虚な音を響かせた。
ゴロゴロと俺の体はひっちゃかめっちゃかに転がり続け、大きな段差から落ちると共に、止まる。
「いってー……」
小さく唸る俺。顔に、腕に、全身に、ヒリヒリと意地の悪い痛みが走る。無様な姿だったと思う。幸いなのか、俺の体が動きを止めたのは人気のない渡り廊下で、更には弁護してくれるかのように始業のベルが校舎中に鳴り響いた。もう立ち上がる力はなかった。体を丸めた状態で、うずくまることしか出来ない。
少し遅れて、小さな足音がパタパタと駆け寄ってきた。
視界が少女の顔で一杯になる。彼女は、まるで自分が大怪我でもしたかのように目に涙を溜めながら、俺の顔を覗き込んできた。
「お兄ちゃん大丈夫?ごめんね、ごめんね、あたしのせいだ、本当にごめんね。どこが痛い?保健室どこ?すぐに先生呼んでくるから……」
「…………っ」
反論してやろうと思った。今すぐにでも突き放してやりたかった。だけど、俺の喉から絞り出されたのは、情けないことに、嗚咽だった。同時に、ボロボロと熱い涙が──涙だなんて、認めてやりたくなんてなかったけど──溢れてきた。
堤防がぶち壊された気分だった。
「お、兄ちゃん……?あたし、保健室、探してくるから……泣かないで……あ、ごめん、凄く痛いんだよね?すぐ先生呼んでくる。それで、痛いの治してあげるから」
彼女はそこまで言うと、軽やかな足音を残して、どこかへ走り去っていった。
少しだけ首を動かす。そこに、彼女の持ち物らしい、少し派手なデザインのトートバッグが大きく口を開いた状態で転がっていた。その口から、俺が忘れた教材と、弁当箱らしきものが覗いている。ゆっくりと腕を動かす。ピリリと鋭い痛みが走ったが、構わずゆっくりとバッグに腕を伸ばし、ソッと指先で触れた。
痛みも手触りも、本物だった。
それから何分くらい経過しただろう。慌ただしい複数の足音がバラバラとこちらに走ってくる気配がした。
視線を動かすと、初老の男性と白衣をまとった眼鏡の女性が駆けてくるのが見えた。
「だ、大丈夫か!?」
初老の男性──確か、事務の中島だったか──と、白衣の女性──保健の佐竹だ──がすぐに傍まで駆け寄って、慎重に俺の体を仰向けにさせた。
「酷い怪我だわ。……立てる?」
「……はい」
佐竹に問われて、俺はこのうえなくボロボロの気分で頷いた。
中島と佐竹の2人に両脇を支えられ、ゆっくりと立ち上がる。途端に、ズキンと刺すような痛みが、見えない刃のように全身を貫いたが、俺は誘導されるままにしっかりと地面を踏みしめた。
保健室で待っていたのは、佐竹の軽い問診と、刺すような痛みを伴う手当て。そして、長椅子の上でしゃくりあげる妹とそっくりの少女の姿だった。
「はい、終わった」
ポン、と厚いガーゼをあてられた膝小僧を佐竹の指が軽くタッチする。
「痛っ」
それだけでひどい激痛が走った。
「あらあら、ごめんなさい」
ピンセットを消毒液の入った容器に納め、佐竹は窺うように俺と少女を交互に見、小さく笑った。
「やっぱり、面差しがよく似てるわね」
「え?」
なんのことかと思った。
佐竹は笑みを深める。
「石島君と、妹さんよ。雰囲気とか顔立ちとか」
「…………」
「なんだかんだで兄妹って感じね。ところで妹さん……名前は?」
問われて、少女は一瞬、涙で濡れた瞳を向け、とまどいがちに口を開いた。
「マユ、です」
「そう、マユちゃんね。──マユちゃん、今日学校は?」
「や、休んじゃいました」
「中学生……よね?どうして?」
「あ、ちょっと具合が……」
段々、少女は言い訳が苦しくなっているようだった。どうもこちらに助け舟を求めているらしく、視線をチラチラと向けてくる。俺は重たい口を開く気にもなれず、スルーを決め込んだ。
「お、」
俺が手を差し伸べてくれないことを悟ったのか、彼女は手の甲で涙を拭いながら肩を落とす。
「……お兄ちゃんが今日必要な教科書とか忘れてたし、それに朝ご飯も食べないまま出て行っちゃったから、お弁当作って、届けようと思って」
「それが、休んだ理由?」
「はい………」
しょんぼりとする彼女に、佐竹は柔和な笑みを浮かべた。
「お兄ちゃん思いなのね、マユちゃんは」
そういう反応を返されることを想定していなかったのか、少女は目を丸くした。
そんな彼女に向かい笑顔を保持しながら、佐竹はゆっくりと歩み寄り、その小さな頭に手を置く。ゆっくり、ゆっくり、丁寧に。佐竹の白い掌が、優しく少女の頭を往復する。
それに導かれるように、少女は唇を震わせ、消え入りそうな声でポツリポツリと呟く。
「で、でも、あたしのせいで、お兄ちゃん、あんなに酷い怪我しちゃって……」
そんな彼女の声に被さる、佐竹の言葉。
「大丈夫よ。お兄ちゃんの怪我はすぐによくなるわ」
「ほ、本当ですか」
「ええ」
少女は縋るように見上げ、保健医はしっかりと頷いた。そして少女の小さな背を優しく押して、
「一度、顔を洗ってきたほうが良いと思うわ。保健室を出て左のほうにお手洗いがあるから、行ってらっしゃい。それまでに美味しいお茶をいれておくから」
「あ、はい!」
佐竹に指摘されると、少女は慌てて顔を両手で覆いながら、小走りで保健室を出て行った。ドアの閉まる、重たい音が静かに響いた。
佐竹がクルリと俺を振り返り、
「美味しいハーブティーがあるの。飲む?気持ちが落ち着くわよ」
そう提案してきた。
「……はい」
断る理由も特に見つからなかった俺は、ぼんやりと白い床を眺めていた。
戸棚からティーバッグを3つ取り出し、マッグカップにポットのお湯を注ぐ佐竹の細い背中に、俺は問いかけた。
「先生……」
「……ん?」
唇から、小さな躊躇いの溜め息がこぼれた。
「もしも。──ある本を読んでの影響で、ちょっと気になったことなので、もしもなんですけど。……身近な存在だった人間が死んで、でも生き返って、突然会いに来たら……なんて、先生はどう思いますか?」
佐竹は驚いたように素早く振り返った。目が合う。俺は今、どんな表情をしているのだろうか?彼女は戸惑うように視線をずらす。眼鏡越しの大きな瞳が、暫し、宙をジッと睨む。何秒かの間のあと、彼女は「そうね」と緩く首を振った。
「素敵なこととは思うけど、とても大きなリスクが生まれてしまうでしょうね。でも、やっぱり嬉しいと思う。生きていた頃に伝えきれなかったことが山ほどあるから、それを今度はちゃんと伝えようって思っちゃうだろうね」
視線を床に落としたままの俺の目の前に、佐竹が湯気だつカップを差し出す。
受け取ったカップの中に、情けない顔をした自分が映っている。俺は腕の痛みをこらえながら、もう1人の自分とにらめっこをした。
カップからは白い湯気と、独特の甘い香りが立ち昇っていた。
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