彼女の目は、冷たいから好きだった。
*
足りないの、とよく彼女は言う。
夕日のオレンジの光に閉じ込められた僕らの町の中の小さなアパートのベランダで、彼女は呟く。
「足りないの。あたし、1にもなれないの。0なのよ」
ふぅん、と僕は答える。僕が気の利いた返事が出来ないことは彼女は知ってたし、勿論僕も知っていた。僕の限界、ここまで。
君が0なら僕はマイナスだ。
目を伏せて、彼女が呟く。長いまつげに夕日が反射して、なんだかとても綺麗だった。
ミニマム。
「……足りない、の」
まるで君、水槽の中の熱帯魚だ。
そんなこと言おうとして、でも気の利いたことの言えない僕だから、黙って頷くだけにした。
「……片付け、よ」
「うん」
からからと音を立てて、ベランダの窓を開ける。ダンボールがそこかしこに蹲っている狭い部屋。
明日、僕らは町を出る。
「……やぁね、引っ越しの準備ってめんどくさいんだから」
「でも、この町から出るんだろう?」
「えぇ、そうね」
返答は軽い。羽根よりも、空気よりも。何処か蝶々の羽ばたきにも似た彼女の返答は、薄暗い部屋の中で光りながらだんだん汚れて埃になって畳の上に積もる。
「……0、だから。埋め合わせたいの」
「この町には無かったの?」
「あったら出ていく訳ないし、そもそもこんなあたしじゃあないわ」
こんなあたし、ってとても綺麗な君のことかな。
僕は君の埋め合わせにはなれないのかな。
なんてね、笑ってしまう。
「……もういいや。暗くなるし、続きは明日でいいよ」
戯言みたいな本音の代わりに、そんな提案。もう電気は止まっている。水道だって、ガスだって。必要ないでしょう、の彼女の一言で切られたライフライン。
僕の生きるための境界線。
「そう、ね」
唇を歪めるようにして、彼女が笑う。実のところ、部屋の片付けはほとんど終わっていた。物に執着のない僕らの小さな部屋。僕にとっては愛おしい部屋で、けれども彼女にとってはただの空っぽの部屋。
「……眠りましょ?あたし、眠たいわ」
「うん。おやすみ、いい夢を」
それじゃああなたは悪い夢を見て頂戴。
夕日に照らされた君の笑顔を眼裏に焼き付けて、畳に寝転がる。背中合わせに、胎児みたいに丸まって僕らは眠る。
いい夢と、悪い夢をこの狭い部屋に吐き出して、僕らは胎児に戻る。朝日と共に薄汚れた若者に戻る。
ぬくもりだけを、共有して。
1つにはなれない僕ら。
*
次の日の朝、目が覚めると隣には誰もいなかった。
「……」
部屋は綺麗に片付けられている。ダンボールを除くと、きっちり僕の物だけ残して彼女の物だけが消えていた。
朝日、が、昇る。
たった一つ、片付けられてない机の上に一枚の紙切れがあった。
「……見ろ、ってことなのかな」
ずるずると足を引きずって、机の横に。べったり座って、頬杖。あぁ、かったるい。
『手を繋いで欲しかったのよ』
馬鹿じゃん、と僕は返答。君の言葉みたいにきらきらしてないし、あの軽さもない。最初っから薄汚れていて、最初っから沈むだけ。彼女の言葉と末路は一緒だけど、過程が違うだけだけど。もしかして君と僕は似ていたんだろうか。
紙切れを丁寧に折って、紙飛行機を作る。空に飛べばいい、彼女の言葉みたいに。いつかは落ちるけど。
彼女は最初っから完成していたんだと思う。一人でも、独りでも生きていける人。0なんかじゃなく、1で。
でも、1は、いっとう、小さいものね?
不安だったんだろうね?
気付けなくてごめんね?
なにも言わなかった君も悪いんだよ!
「……なんて」
ベランダに出て、紙飛行機を飛ばす。想像より早いスピードでどんどん飛んでいく。きっと彼女の蝶々の羽ばたきが伝染ったんだろうね。
「……引っ越しの準備するか」
十時には出発するつもりだった。まとめられた物は捨てる物、次の住居すら決めずにこのアパートを出ていくのだ。計画性の無さは、まぁ、いつものこと。
君、と、僕、が似てるんなら。
「僕も、1、か」
合わせて2つ、
手を繋いでたら1つ、
どちらにもなれなかったけどね。
「……せめて」
君が何処かで1でありますよう。
……僕も1であり続ける、から。
天藍の大空 鹿児島県 16歳