陽のあたるところ海央

第1話 日向

 海沿いの病院。
 ベッドから延々と伸びているヒモ。
 水平線が見えるはずの屋上。
 この時期は5時過ぎに昇るはずの朝日。

 毎日、日の出より少しだけ早く起きて、朝日を迎えに行く。まだ薄暗いんだろうけど、あたしには関係ない。自分の病室から壁づたいに屋上まで上っていく。片手にはベッドの脚から結んだ長い長いヒモ。規則正しい波の音がかすかに聞こえる。
 夜の名残でひんやりした重い扉を開けば、潮の香りと一緒に海の声が大きくなる。腕に抱えていた時計のボタンを探る。午前5時9分ヲオ知ラセシマス――。聞き慣れた機械の声が時間を教えてくれる。そろそろ、朝日が出ているはずだ。
「おはよう、毎朝早いわね」
 後ろから聞こえる声はきっと看護師の松永さん。一人で歩き回ってて危ないからと、よくヒモをたどって来てくれる。
「ひなちゃん、太陽見るの好きだものね」
 日向――陽のあたるところ。それがあたしの名前。
「太陽見てると、あたし、まだ見えるんだって思えるから」
「…まだ見えてるの?」
 あたしは、首を軽く横に振る。
「日の出の時間だから分かるだけ。光が強い時だけ、何かあるかなって思う程度」
 水平線から昇る朝日は眩しいみたいで、天気が良ければ視界がほんの少しだけ明るくなる。その明るさすら、この屋上から朝日を見た過去の記憶のせいかもしれない。ほとんど見えてもないのに何となく見えるような気がして、まだ自分に陽があたっていることを確認できるだけ。まだ自分が日向であることを確認できるだけ。
「じゃあ、あたし、病室に戻ります」
 別に屋上に長居はしない。朝日を見に行くのが日課になってるだけだから。松永さんの声がする方へ会釈して、ヒモをたぐり寄せながら歩き出す。
「ひなちゃん、気を付けてね」
 松永さんはそう言いながら、屋上の扉を閉めてくれた。ありがとう。
 ヒモという道しるべがないと、歩けないわけじゃない。外が歩けなくなるまでダメになった頃から、もう何年も病院暮らしだから。病院なら見えなくたって、感覚で歩ける。でも、やらない。
 小さい頃、ひどい白内障のおばあちゃんが病室を探して、ずっと歩き回っていたのを見た。正直、ぞっとした。自分の住みかにも戻れなくなったら、あたしはあたしでなくなるかもしれない。朝の日課だってそう。太陽が見えなくなったら、あたしは日向じゃなくなるから。

 午前5時46分ヲオ知ラセシマス――。まだ静かな廊下にスリッパの足音が響く。伸ばしてきた通りにヒモをたどりきれば、ヒモを結びつけたベッドの冷たいパイプに触れる。ヒモを軽くまとめてパイプに掛けて、すぐ布団に潜り込む。朝食の時間までもう一寝入り。
 寝ている時間が、すごく好き。夢を見てる間は、こんなあたしにも目の前に景色が現れるから。
屋上から見える海の深い青、光る水しぶきの白、透けるような空の水色、雲の重なる純白。潮風で錆びた手すり、風に連れていかれる黒髪、太陽をはね返す砂浜。
 何より、何色の表現にも属さない太陽の光。目が狂いそうなほど鮮やかに、手を伸ばせば掴めそうなほど鮮明に、見える。

 音がする。朝食の時間だ。本当は見えないだろ、と叩き起こすようにわめく配膳台の車輪。目が覚めれば、見えない。
 松永さんが朝ご飯を持ってきて、一口ずつ口に入れてくれる。
「卵焼き?」
「うーん、お豆腐」
「全然違うね」
 あたしは軽く笑う。食べたものが何かを考えるのに精一杯で、味なんてわからない。それももう慣れたけど、食べる楽しみは正直ない。食べなきゃ死ぬから食べるだけ。
「今日は10時から検査だからね、ひなちゃん」
「うん」
 検査と言っても大したことはしない。しても意味がないって言うべきか。ペンライトで光をあてて反応するのか調べるだけ。多分、先生も看護師さんたちも大した意味がないことはわかってるんだろうな。形式的にやってるだけで、そろそろ完全に失明するっていう宣告もごまかしてるだけで。
「はい、これで終わり」
「ごちそうさまでした」
 じゃあね、と言って食器を持っていく松永さんの足音が遠くなる。今何時かな。時計はいつも左の手元。午前8時51分ヲオ知ラセシマス――。

 ヒマだな。ラジオでも聴こうか。時々聞くラジオの場所は右のテーブル。ボタンが多くて電源ボタンが探しにくいから、手当たり次第に押してみる。砂嵐の音が聞こえたら、当たり。ノイズ混じりの声にぼんやり耳を傾ける。
『はい、そんな感じで次のコーナー行きましょう。今日はスペシャルということで朝から深夜3時までじっくりお送りしてますが、今日のテーマはこれ! 世界が終わる夜に』
 よくあるラジオだと思った。最後の晩ご飯は何を食べるかとか、最後の夜に何するかとかよく言ってるけど、なんだか胡散臭い。あたしは最後の晩ご飯に何食べたって味もわかんないし、大体地球が滅亡する瞬間だって見えないあたしにはわかんない。最後の夜に何するかって考えても、思いつくのはベッドで夢見るくらい。入院してからはずっと病院から出てないし、行きたいところもやりたいことも特になし。いや、あたしはバカか。地球なんて滅亡するとしても、それはあたしが死んだ何百年も後のことだろうな。
『最後の夜に何するかとか、こういうのシュミレーションするの好きなんですよねー。皆さんだったら、世界が終わる夜に何しますか?ぜひぜひ、メールとファックスで教えて下さいね、お待ちしてます』
 なんでこの辺りでラジオの電源切らなかったんだろう。胡散臭いなんて思いながら、なんとなく聴き続けていた。
『でもねぇ、私が思う世界の終わりって……』

 聴かなきゃ、よかった。

蒼き賞

第1話陽のあたるところ

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