まもなく、東日本大震災の発生から丸4年が経とうとしています。TOKYO FMでは復興地の様々な姿を紹介する復興支援番組「LOVE & HOPE」を4年間、全国に向けて発信し続けてきました。震災から4年を迎える2015年3月11日(水)は、特別番組を放送します。 壊滅的な被害を受けた沿岸部、原発事故周辺地域の復興は未だ途上段階です。その中でも東北の地元企業に就職することを決めた高校生、生まれ育った街の再生に奮闘するもの、ピンチをチャンスに変え新しい仕事を創出する人たちなど、「強い想い」を胸に、歩みを進めている人たちがいます。時間が経つと忘れがちな震災の記憶を風化させないために、東北で暮らす人たちの現状を取材して希望の音と言葉を紡ぎ、いつ起こるかわからない自然災害への備えの大切さをお伝えします。
3月21日、JR石巻線の全線開通と同時に、同線女川駅の駅舎が復活オープンを果たす。
プリツカー賞受章の坂茂さん設計。住民が積極的に復興アイデアを提案する独自の町づくり会議を経て、女川は生まれ変わろうとしている。町づくり会議のメンバーで、町を代表するかまぼこ店「高政」の四代目・高橋正樹氏は、「女川はずっと終点駅の町だと思っていた。だがそうではなく、これからは女川駅は始発の駅になる。ここから世界へ、女川を発信していく」と語る。
震災で過疎化が加速する一方、ボランティアを機に町に移住する県外の若者も増えているという小さな漁港の町・女川。そこで、何かを変えようと模索する住民たちのリアルな声を伝えます。
世界三大漁場の海をフィールドに活躍する三陸の若きフィッシャーマンたちが、地域や業種の枠を超えて、ホームのこの東北から日本全土へ、そして世界に向けて、次世代へと続く未来の水産業の形を提案していく最強のチームを結成。 漁師はつくるだけでなく市場のニーズをしっかりと把握し、更なる品質向上を目指す。 漁師は生産現場にしかない価値、そして漁師が伝えたいことを消費者に伝え、水産業への興味と理解を促す。
個々が変化し続ける力を身につけ、古きを温め新しきを産み出しながら、まずは自分たちが「真にカッコよくて稼げるフィッシャーマン」になり、未来の世代が憧れる水産業の形を目指している。
震災で大好きだった祖母を失いながらも、周囲の大人たちに支えられボランティア活動を続ける中、いつしか彼女の心に芽生えたのは、町のために生きていきたいという強い想い。震災から4年が経過したいま、その想いはどんな花をつけようとしているのか。
この春、寿美さんは高校を卒業。大槌で暮らしながら、隣町・釜石のホテルに就職する。就職活動で控えていたボランティア活動も再開する予定でいる。昨年の同番組で、祖母へのメッセージを手紙につづった彼女が、1年が経過した今の夢や目標を「4年目の春便り」に託す。卒業式の音、先生への感謝。揺れる心。
原発事故の影響で全町民避難が続く福島県富岡町。臨時災害FM「おだがいさまFM」も避難先の仮設住宅がある郡山市内の「おだがいさまセンター」から放送し、47都道府県で避難生活を送る富岡町の人と人、街と人をつないでいる。
そんな「おだがいさまFM」のプログラムの一つが「みんなで伝える、富岡キッズステーション」。富岡の小学5年生3人が自分たちで番組内容、取材、原稿を担当、「富岡今昔物語」のコーナーでは子どもたちが仮設住宅のお年寄りにインタビューしている。富岡の歴史や昔の暮らしに関する世代を超えたやりとりは微笑ましく聴く人の心をほっと和ませる。でもそこには、小学校の児童数が900人から20数名に減ってしまった富岡の現実がある。子どもたちの元気な声とラジオ番組づくりに奮闘する姿を通し、富岡のいまを伝える。
4度目の春になる今になっても、津波で行方不明になった家族を捜索する人たちがいます。「福興浜団」は、東日本大震災の津波で犠牲になった方が一人でも多く家族の元へ戻れるように海岸での遺骨捜索、地元の再生のための被災家屋の片付けや泥かきを今も行っています。
団員の一人、上野敬幸さんは両親と当時8歳の娘さん、3歳の息子さんを失いました。繰る日も繰る日も探し続け、最愛のお嬢さんと母親の亡骸を見つけましたが、現在も息子さんと父親は発見出来ないまま。上野さんや福興浜団の皆さんと、南相馬の海岸線を捜索しながら、本当の意味での復興を考えます。
JFLのYKK AP(現カターレ富山)からコバルトーレ女川に移籍。初めての地で支えてくれたのは、同じ職場で働く女川のお母さんだった。その「女川の母」は震災で他界。泉田選手は女川で結婚し、この町で暮らしていくことを決めた。 お世話になった人へいま贈る言葉とは・・・。