木村拓哉 Flow supported by Spotify - TOKYO FM 80.0MHz - 木村拓哉

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2023年09月03日Flow 第二百六十六回目「拓哉キャプテン × 竹原ピストル」Part1

9月のマンスリーゲストはシンガー・ソングライターの竹原ピストルさんです!
どんなトークになるのか、お楽しみに!!


木村:やっと会えた!

竹原:(笑)。

木村:やっと会えましたよ〜。

竹原:とんでもないです。

木村:いやもう、お会いするのは初めましてという形なんですけど。いや〜、ずっと会いたかったんですよ。

竹原:嬉しい、そんな〜。

木村:ほんとですよ。全然、建前でもなんでもなく、竹原さんが歌われてる歌だったりとか、ミュージックビデオだったりとか、「すっげーな、この人!」っていうふうに、以前から思っていて。

竹原:いや、知ってくださってるとは思っていなかったんで。

木村:何言ってるんですか、全然知ってますよ。

竹原:ありがとうございます。

木村:逆に知らなかったらまずいっすよね。

竹原:いや(笑)。

木村:そう思いますよ。おい、そこのわけーの。ほんとに、そう思いますよ。なんか僕に対する印象とかありますか?

竹原:これ、時を経ての答え合わせのような感じになってしまって、お聞きするのもちょっと怖いんですけど。僕、千葉県の千葉市の、駅でいうと蘇我駅ってありまして。

木村:あ〜、蘇我。はいはい。

竹原:その界隈の生まれ育ちなんですが、少年時代からずっと1つの伝説というか噂として、木村さんが少年時代に剣道をやってらっしゃって。

木村:やってました。

竹原:当時、僕の地元に川鉄体育館っていう名前の体育館がありまして。そこに木村さんが剣道の試合にいらっしゃってたっていう都市伝説みたいのがありまして、地元の人間はそれを固く信じてまして。僕も、あの川鉄体育館に剣道しにいらっしゃってたんだって事で勝手に親近感を覚えてたんですけど、どうなんですか?川鉄体育館って覚えてらっしゃいますか?

木村:えーっと、月1ぐらいで行ってましたね。

竹原:あ、じゃー本当の…。

木村:本当です。

竹原:だったんですね。それが地元民の誇りというか(笑)。

木村:おっきな試合が開かれると、必ず川鉄です。

竹原:あー、川鉄ですか。それが作用しまして、すごく身近な地元のヒーローぐらいの錯覚を起こしてしまってて。

木村:何言ってんですか。
今、千葉県蘇我っていうワードが出てきたんですが、プロフィールをご紹介させていただきますと、1976年千葉の出身で現在46歳。小っちゃい頃って、蘇我で、その当時の竹原くんは…。

竹原:竹原和生くんは…。

木村:どんな和生くんだったんですか?

竹原:うちの父親がそれこそ川鉄なんですけど、職場の仲間とずっと長い事ハワイアンバンドをやっておりまして。9歳上に姉がいるんですけど、姉はずっとピアノをやっている人だったので、物心ついた時から家の中には楽器が一式揃っているっていう家庭環境ではあったんですよね。だから早いこと、楽器に触れたりとか音楽に触れたりはしていて、基本的にはシャイで引っ込み思案で気が小さい少年ではあったんですけど、小学生の時にグリーンスクールみたいな林間学校みたいな、あれの出し物をするコーナーみたいなので僕がとあるアニメソングを歌ったら、これがドカンとウケまして。

木村:何歌ったの?

竹原:アタックNo.1の「苦しくったって〜、悲しくったって〜♪」ってあるじゃないですか。テーマソングで。

木村:何で、その曲を選曲したの?

竹原:再放送だったと思うんですが、その当時観てたからなんだと思います。で、声変わりもしてなくて綺麗な声が出て、エレクトーン教室とか通ってたんである程度…。

木村:え、エレクトーン教室行ってたの?

竹原:やってたんです。自分で言うのもあれですけど、わりと音程感はしっかりしてたので、これが大ウケして人前で何かするのがたまらなく好きになったみたいな感じでしたね。

木村:その林間学校の出し物で、自分が何かした事によって人から賞賛を得るっていう事を初体験し…。

竹原:初体験し、もう取りつかれたというか。でも、繰り返しになっちゃうんですけど、そもそも気が小さいんですけど、緊張しいなんですけど、それがいざ歌い始めたときにバンっと全て集中力にひっくり返るような感覚がとても気持ちよかったのか分からないですけど。

木村:それ、最強パターンのアーティストですよね。

竹原:そう…なんですか。

木村:と思いますよ。ピストルさんみたいな…あ、ごめん、急にピストルさんって言っといて、以前から思ってたんですけど何故ピストルなんですか?

竹原:これはですね、高校生の時に夢を語り合うような青い関係の親友がおりまして、そいつに「将来歌手になって歌で世に出るから、その時のために芸名考えてくんない。」ってお願いして、そいつが「特に意味はないけど、竹原ピストルでいいんじゃないの。」みたいな感じで考案してくれて、後々歌うたいになった時に、そんな約束したっけなって思い出して竹原ピストルにしたっていう。

木村:へー。

竹原:特に意味はないらしいんですけど、ただ響きだけで。

木村:デビューされた後は、芸名を考えてくれた友達はちゃんと分かってくれました?

竹原:それはもちろん、いまだに付き合いが…。

木村:「俺が言ったやつじゃん!」っていうのは。

竹原:「俺が言ったやつじゃん!」のタイプではなくって、「わー、ほんとにやってる〜。」ぐらいな、ちょっと落ち着いた感じで静かに喜んでくれてる。「あの時のやつだ!」みたいな感じで。

木村:めっちゃいい友達ですね。だから、人にも恵まれてんだよね、きっとね。

竹原:いやいや(笑)。

木村:すごいそう思う。
話戻っちゃいますけど、緊張だったり、自分にのしかかるプレッシャーっていうものを本番で集中力に変換できる人は理想だと思うな。僕もそうなりたいと思って、どうにかできねーかなっていうのは、いつも思ってます。

竹原:ほんとに調子のいい事を言うわけではなく、木村さんに聞いてみたい事があって。歌う前とかお芝居する前とか、緊張とかってされるんですか?

木村:します、します。全然します。

竹原:あー、そうなんですか。

木村:めちゃくちゃします。

竹原:そうなんですか。すごい救われる感じがありますけど。

木村:今お話の流れで、この言葉を口から出すことによって正当化してるような部分はあるんですけど、緊張をしてない人って今からやることに責任が伴ってない人なのかなと思うんですよね。

竹原:わー。はい。

木村:だから、緊張っていうのはしちゃうものじゃなくて、すべきものなのかなっていうふうに思うことによって、緊張を悪いものにしたくないので、いい物にしたいので。

竹原:これは自分が抱いている責任感であるという考え方っていう事ですよね。

木村:うん。プロフィールに書かれてる内容で、1個ワーオって思ったんですけど、高校時代にボクシング部の副主将を務めながらバンド活動でライブハウスにも出演していたって書いてあるんですけど。ボクサーだったんですね。

竹原:そうですね。高校と大学でボクシングをやってました。

木村:高校大学ボクシングっていえばもう、あれですね。僕もちょっとだけドラマでかじらせていただいたので思うんですけど、いや〜、一番ガチなやつですよね。高校大学っていう。

竹原:(笑)。やりましたね〜。

木村:きっかけは?何でボクシングやったの?

竹原:これもまた父親なんですけど、父親が高校時代に部活でボクシングをやってて、子供の頃からテレビ中継でボクシングの試合が入りますと、よく一緒に観てたんですよね。観させられてたというか。だから自然とカッコいいなと思って、受験の時にはボクシング部がある高校がいいなと思って、木更津にある拓大紅陵高校というところにボクシング部があったんで、わざわざ1時間ぐらいかけて通ってたんですよね。

木村:へー。
で、並行してバンド活動も。もう、その時から。

竹原:確かにバンド活動してライブハウスにも出演していたんですけど、同じクラスにですね、打ち込みっていうんですかね、プログラミングでトラック作ってっていう音楽活動をやってる…その友達はTM NETWORKだったりとか、ああいう音楽が好きだったんですけど、その友達がバンドを組みたがっていたんですよ。ある日、その友達と一緒にカラオケに行ったんです。で、僕が全く関係ない歌を歌っていたら、「ボーカルやってくんないか?」って言われて、“サポートボーカル”って世にも珍しい形態で手伝いで入ってたっていう感じなんですよね。

木村:サポートでボーカルやってたんだ。

竹原:サポートでボーカルで、しかもヴィジュアル系のバンドだったんですよ。

木村:ウソでしょ?

竹原:ほんとなんですよ。で、「これ着てやってくれ」って安全ピンがいっぱい刺さったTシャツとボンテージパンツを渡されまして、それでそいつが作ったオリジナルソングをクネクネ歌ってたんですよ(笑)。それが高校時代の音楽活動だったっす。

木村:いや、それ、でもウケたでしょ?

竹原:(笑)。数えるくらいしかライブはやんなかったですけど、ただすごく楽しかったですね。バンドっていうのが初めてでしたし、夜みんなでスタジオに入って音を出すっていうのも初めてだったので、ちょっと青春の匂いがするようなバンドではあったんですけど。

木村:いや、青春では、ものすごい青春ではあるけど…が、高校時代?

竹原:高校時代。はい。

木村:でも、大学は北海道の大学に進学して。これ、スポーツ推薦なんですよね?

竹原:そうです。ボクシングのスポーツ推薦で行きましたね。

木村:その時、全日本選手権に2回出てますからね。

竹原:出たっすけどね、はい。

木村:ボクシングって階級があるじゃないですか。どの階級で?

竹原:僕はですね、プロで言えばスーパーライト級って言い方になるんだと思うんですけど、ライトウェルター級っていう60k〜63.5kgっていう階級でした。今より20kgぐらい痩せてるんですけど。

木村:どんなタイプのボクサーだったんですか?

竹原:これもあまり人に信じてもらえないんですけど、まずサウスポーでして、ボクシングだけ。

木村:え?なんで、なんで?

竹原:高校時代のボクシング部の顧問が、サウスポーを育てるのが得意で好きな監督だったんですよ。確かにサウスポーの名選手をいっぱい輩出してるような監督だったんですよ。高校2年生ぐらいまでオーソドックスで闘ってて、ある日突然、「竹原ちょっと来い!」みたいな感じで言われて、「お前サウスポーでやれ!」って言われて急に変えられたんです。唐突に変えられて、サウスポーでやらされて。そして、極端なアウトボクサーだったんです。

木村:アウトボクサー?

竹原:打ち合いがとても嫌いで…。

木村:間合いを置いて。

竹原:はい。間合いを置いて、遠距離からペシペシとジャブみたいなのを当てながら、向こうが入ってきたらパチンって当ててまた逃げるみたいな。すごい卑怯な闘い方を(笑)、全然盛り上がんない試合をすることで有名だったんですけど。

木村:へー。

竹原:高校卒業後は音楽関係のプレイヤーを育てるような専門学校に進んで、そこで学んだり、バンド組んだり、仲間作ったりして歌手の道を歩んでいこうって思っていたところに北海道の大学からボクシングの体育推薦の話が来まして。両親としてはミュージシャンっていうふわふわしたものを目指すよりは、大学に行ってほしいっていうのが人情じゃないですか。で、大学行ってからみたいな事になって、「う〜ん、分かった」っていう感じでギターを持って。

木村:あ、でもギターは持って行ったんだ。

竹原:持っていきました。ギターを持って北海道に渡って、俺は専門学校には行かなかったけれども、部活は適当にやりつつ、作詞作曲活動頑張ろう。ライブやったりしてね、なんて思ってたんですけど、大学のボクシング部が以上に厳しくてですね、それどころじゃねーぐらいの感じで練習させられて、ずっとボクシングやってたんです。

木村:すげー。そりゃ、全日本選手権に出るわな。

[OA曲]
M.一等賞/竹原ピストル

[後TM]
M.夜は朝に追われて/木村拓哉

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