第477話 己の美学を貫く
-【日本武道館にまつわるレジェンド篇】建築家 山田守-
[2024.10.19]
Podcast
日本武道館の設計を任された、建築界のレジェンドがいます。
山田守(やまだ・まもる)。
1964年に開催された東京オリンピックの、柔道会場として建設された日本武道館。
皇居北の丸の北部、およそ1万平方メートル、延面積2万8千平方メートル、収容観客数、およそ1万人。
当時の金額で、総工費20億円。
日本の伝統、お家芸を世界中に知らしめる、壮大なプロジェクトでしたが、設計コンペが行われたのは、前年の夏のことでした。
早急な図面づくりに、短い工期。
指名されたにもかかわらず、コンペを辞退する設計士もいました。
そんな中、山田は、コンペに参加し、勝ち抜いたのです。
彼の構想には、明確な二つのモチーフがありました。
ひとつは、聖徳太子が祀られていると言われる、法隆寺夢殿。
八角形は、古代中国からの風水に習うもの。
「8」は、仏陀誕生の日付であり、聖なる数字として大切にされてきました。
さらに限りなく円に近いフォルムの美しさを、山田は好んでいたのです。
彼がイメージしたもうひとつのモチーフ。
それは、富士山。
彼は富士山の裾野の曲線を、最高の「美」と捉えていました。
スタッフの前で、製図版に向き合う、山田。
彼は数値でも定規でもなく、フリーハンドで曲線を描きました。
何度も何度も、自分がこれだと思う曲線が画けるまで、やりなおす。
やがて、納得できる曲線が引けたとき、ようやく数値を計算。
図面が形になっていくのです。
しかし、翌朝、その図面を見ると、やっぱり何かが違うと、また、曲線を描く、山田。
彼のお手本は、あくまでも、富士山の美しい裾野の曲線だったのです。
法隆寺夢殿と、富士山。
その二つを具現化した世界に誇る建築物、日本武道館を設計した山田守が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
日本のモダニズム建築の先駆者、山田守は、1894年4月19日、現在の岐阜県羽島市に生まれた。
山田家は、壮大な敷地と、森、田畑を有する、村でも1、2を争う有力者。
守は、野山を駆け回り、伸び伸びと育つ。
生まれ育った地は、濃尾平野。
このあたりには、木曽川、長良川、揖斐川が流れ、伊勢湾に注ぎ込む途中にあった。
そのため、当時は水害が多かった。
各お屋敷には、洪水のための小舟が常備され、さらに石垣を高く積んだ避難用の建物、「水屋」を設置していた。
幼い守は、この水屋に登るのが大好きだった。
一番上の部屋には四方に小さな窓がある。
そこからの眺めが最高だった。
遥か遠くに、海が見える。
そして、反対側の小窓からは、連なる山々が見えた。
吹き抜ける風が、気持ちいい。
まるでお城の天守閣のようだ、と思う。
絵が好きだった守は、その景色を留めたいとスケッチするが、小さな白い紙には、とうてい収まらない。
ある夕暮れ時、窓から、野良仕事を終えた母親が戻ってくるのが見えた。
身を乗り出して、手を振る。
あまりに体を乗り出しすぎて、転落。ビルで言えば4階の高さ。
でも、ぬかるんだ田んぼに落ちて、無傷だった。
日本武道館を設計した山田守は、幼少の頃から、絵を画くのが好きだった。
勉強をしていて眠くなっても、絵を画けば目が覚めた。
題材は、自然。
光の当たり方でさまざまな色に変る、緑。
中学時代、初めて賞をとった作品も、森の風景を描いたものだった。
自分を取り巻く世界を、丁寧に眺めていて、気づくことがあった。
「自然界には、直線がない」
真っすぐな木も、実は、真っすぐではない。
川の流れも、決して直線では描けない。
世界は、曲線でできている。
結局、直線は、人間が作ったものだ。
なぜ、直線が必要か。
それは、便利だからだ。
山田はこの事実に気づいたとき、しばらく、言葉を忘れた。
この地球の生命は全て、曲線に守られ、曲線に助けられている。
中学の寄宿舎から実家に戻ったとき、水屋に登る。
幼い頃、大好きだった風景が、変わらずそこにあった。
そうしてあらためて、気づく。
大きく流れる川の、その曲線の美しさ。
村を守る山々稜線の素晴らしさ。
建築家、山田守は、東京帝国大学建築学科を卒業すると、逓信省に入った。
そこで、逓信建築、すなわち、電話局、電信局の設計にたずさわる。
30歳のときに、関東大震災を経験。復興局に出向。
新潟の萬代橋の装飾を担当。
東京の永代橋の再建にも尽力した。
圧巻の設計は、お茶の水の聖橋。
デザイン含めて、山田が担当した。
その美しいアーチは、今も、見る人の足を止める。
曲線が、全てだった。
亡くなる2年前。
日本武道館と同時期に設計したのが、京都タワー。
あくまでも円形、曲線にこだわった。
完成した日本武道館の正面玄関に富士山の写真を飾りたいと、スタッフを引き連れ、写真を撮りに行く。
しかしその日はあいにくの雨模様。
それでも山田は、粘った。
結局、いい写真はとれなかったが、曇り空の中に、いつまでも富士の裾野を探す山田の姿があった。
美学は、自分の心の中にある。
もしかしたら、山田守が作った日本武道館の原型は、幼い頃登った、あの「水屋」にあるのかもしれない。
【ON AIR LIST】
◆SING(Live 1974) / Carpentersとひばり児童合唱団
◆I WANT YOU TO WANT ME 甘い罠(Live at Budokan) / Cheap Trick
◆アイ・ラブ・ユー,OK(Live at 日本武道館'95) / 矢沢永吉
【参考文献】
『建築家 山田守』向井覺 著(東海大学出版会)
山田守(やまだ・まもる)。
1964年に開催された東京オリンピックの、柔道会場として建設された日本武道館。
皇居北の丸の北部、およそ1万平方メートル、延面積2万8千平方メートル、収容観客数、およそ1万人。
当時の金額で、総工費20億円。
日本の伝統、お家芸を世界中に知らしめる、壮大なプロジェクトでしたが、設計コンペが行われたのは、前年の夏のことでした。
早急な図面づくりに、短い工期。
指名されたにもかかわらず、コンペを辞退する設計士もいました。
そんな中、山田は、コンペに参加し、勝ち抜いたのです。
彼の構想には、明確な二つのモチーフがありました。
ひとつは、聖徳太子が祀られていると言われる、法隆寺夢殿。
八角形は、古代中国からの風水に習うもの。
「8」は、仏陀誕生の日付であり、聖なる数字として大切にされてきました。
さらに限りなく円に近いフォルムの美しさを、山田は好んでいたのです。
彼がイメージしたもうひとつのモチーフ。
それは、富士山。
彼は富士山の裾野の曲線を、最高の「美」と捉えていました。
スタッフの前で、製図版に向き合う、山田。
彼は数値でも定規でもなく、フリーハンドで曲線を描きました。
何度も何度も、自分がこれだと思う曲線が画けるまで、やりなおす。
やがて、納得できる曲線が引けたとき、ようやく数値を計算。
図面が形になっていくのです。
しかし、翌朝、その図面を見ると、やっぱり何かが違うと、また、曲線を描く、山田。
彼のお手本は、あくまでも、富士山の美しい裾野の曲線だったのです。
法隆寺夢殿と、富士山。
その二つを具現化した世界に誇る建築物、日本武道館を設計した山田守が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
日本のモダニズム建築の先駆者、山田守は、1894年4月19日、現在の岐阜県羽島市に生まれた。
山田家は、壮大な敷地と、森、田畑を有する、村でも1、2を争う有力者。
守は、野山を駆け回り、伸び伸びと育つ。
生まれ育った地は、濃尾平野。
このあたりには、木曽川、長良川、揖斐川が流れ、伊勢湾に注ぎ込む途中にあった。
そのため、当時は水害が多かった。
各お屋敷には、洪水のための小舟が常備され、さらに石垣を高く積んだ避難用の建物、「水屋」を設置していた。
幼い守は、この水屋に登るのが大好きだった。
一番上の部屋には四方に小さな窓がある。
そこからの眺めが最高だった。
遥か遠くに、海が見える。
そして、反対側の小窓からは、連なる山々が見えた。
吹き抜ける風が、気持ちいい。
まるでお城の天守閣のようだ、と思う。
絵が好きだった守は、その景色を留めたいとスケッチするが、小さな白い紙には、とうてい収まらない。
ある夕暮れ時、窓から、野良仕事を終えた母親が戻ってくるのが見えた。
身を乗り出して、手を振る。
あまりに体を乗り出しすぎて、転落。ビルで言えば4階の高さ。
でも、ぬかるんだ田んぼに落ちて、無傷だった。
日本武道館を設計した山田守は、幼少の頃から、絵を画くのが好きだった。
勉強をしていて眠くなっても、絵を画けば目が覚めた。
題材は、自然。
光の当たり方でさまざまな色に変る、緑。
中学時代、初めて賞をとった作品も、森の風景を描いたものだった。
自分を取り巻く世界を、丁寧に眺めていて、気づくことがあった。
「自然界には、直線がない」
真っすぐな木も、実は、真っすぐではない。
川の流れも、決して直線では描けない。
世界は、曲線でできている。
結局、直線は、人間が作ったものだ。
なぜ、直線が必要か。
それは、便利だからだ。
山田はこの事実に気づいたとき、しばらく、言葉を忘れた。
この地球の生命は全て、曲線に守られ、曲線に助けられている。
中学の寄宿舎から実家に戻ったとき、水屋に登る。
幼い頃、大好きだった風景が、変わらずそこにあった。
そうしてあらためて、気づく。
大きく流れる川の、その曲線の美しさ。
村を守る山々稜線の素晴らしさ。
建築家、山田守は、東京帝国大学建築学科を卒業すると、逓信省に入った。
そこで、逓信建築、すなわち、電話局、電信局の設計にたずさわる。
30歳のときに、関東大震災を経験。復興局に出向。
新潟の萬代橋の装飾を担当。
東京の永代橋の再建にも尽力した。
圧巻の設計は、お茶の水の聖橋。
デザイン含めて、山田が担当した。
その美しいアーチは、今も、見る人の足を止める。
曲線が、全てだった。
亡くなる2年前。
日本武道館と同時期に設計したのが、京都タワー。
あくまでも円形、曲線にこだわった。
完成した日本武道館の正面玄関に富士山の写真を飾りたいと、スタッフを引き連れ、写真を撮りに行く。
しかしその日はあいにくの雨模様。
それでも山田は、粘った。
結局、いい写真はとれなかったが、曇り空の中に、いつまでも富士の裾野を探す山田の姿があった。
美学は、自分の心の中にある。
もしかしたら、山田守が作った日本武道館の原型は、幼い頃登った、あの「水屋」にあるのかもしれない。
【ON AIR LIST】
◆SING(Live 1974) / Carpentersとひばり児童合唱団
◆I WANT YOU TO WANT ME 甘い罠(Live at Budokan) / Cheap Trick
◆アイ・ラブ・ユー,OK(Live at 日本武道館'95) / 矢沢永吉
【参考文献】
『建築家 山田守』向井覺 著(東海大学出版会)